斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

49 【隠すものがなければ、恐れることは何もない】

2018年09月02日 | 言葉

 超監視社会
 買い換えたパソコン話の続編。ある日<ウィルスバスター・クラウドは削除されました>という不審なメールが届いた。発信元は、インスツールしているセキュリティーソフト・ウィルスバスターの運営会社、トレンドマイクロ社ではない。たとえトレンドマイクロ社からだとしても、有料契約期間中のセキュリティソフトを、一方的に削除するなど許される話ではない。
 半ば立腹、半ば半信半疑で確かめると、やはりウィルスバスター・クラウドが無断で削除されていた。立腹の度は頂点に達したが、ぐっと我慢してウィルスバスターの再インスツールを試みると、すんなりインスツール出来た。腹の虫は半分収まり、しばし様子を見ることにした。
 ところが、ところが、である。2、3日経つと再び不審メールが届く。<セキュリティーに不安があります。今すぐインスツールしてください>と、急(せ)き立てる文面。すっかりトレンドマイクロ社からのメールと勘違いして、指示通りにインスツールしかけたところ、トレンドマイクロ社から緊急メールが入った。<ご注意! ウィルスバスター・クラウド以外のセキュリティーソフトは、インスツールしないでください>。改めて不審メールを読み直し、愕然とした。何とインスツールしかけていたのは、トレンドマイクロ社とはライバル関係にあるマカフィー社のソフトではないか! 不審メールそのものは、どういう理由からか、マイクロソフト社の発信だった。

 だまし討ち、である。すでに有料契約でインスツール中の他社ソフトを勝手に排除してまで、自社製品を買わせようという魂胆のようだ。セキュリティーソフト商戦は、オレオレ詐欺並みのレベルにまで堕したのか。ここでエドワード・スノーデン氏が『スノーデン 日本への警告』(集英社文庫)で注意喚起した「監視社会」というコトバを思い出した。

 「監視社会」の変容
 「監視社会」なるコトバが注目されたのは、英国作家ジョージ・オーウェルが書いたデストピア小説『一九八四年』(1949年発表、ハヤカワ文庫収録)に因(よ)るところが大きい。スターリンとトロツキーとが対立した旧ソ連のような全体主義国家を舞台に、公文書改竄(かいざん)を仕事(ここら辺も現在の日本社会に酷似し、笑える)とする青年の”悪夢”を描いている。日本で「監視社会」の議論が本格化するのは、国民総背番号制が焦点になった「改正住民基本台帳法」の成立(1999年)や、電子メールの閲覧捜査も可能とした「盗聴法」(正式には「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」、1999年)などが、きっかけだった。この頃すでに携帯電話の位置情報(GPS)や高速道路のETC、一般道路のNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)を問題視する声も上がっていた。

 このコトバがさらに現実味を帯びるのは、2013年6月、元米国情報局員エドワード・スノーデン氏が「2001年のアメリカ同時多発テロ以降、米国の各諜報機関は、テロ防止を名目にインターネットを通じた大規模な監視体制を作り上げ、全世界の一般市民も監視対象にし始めた」と暴露した後のことである。氏は、ドイツ・メルケル首相の個人用携帯電話を米国NSA(国家安全保障局)が盗聴していた事実も暴露し、世界に衝撃を与えた。
  
 安上がりな「超監視社会」の構築
 急速かつ完璧な監視社会体制構築の背景は、インターネットの普及にある。小説『一九八四年』の冒頭では、家々の軒先近くまで降下した警察のヘリコプターが、各家庭内を窓から覗いて回る場面が描かれている。おぞましさの一方で、読者は、何と手間と費用のかかる監視方法かと呆れたことだろう。小説のフィクションたる所以だ。
 この点、インターネットによる監視は、はるかに容易かつ安価である。作業の大半をコンピュータが自動でこなすため。電子メールは、本人が履歴消去してもサーバー会社に残り続け、誰とどんなやり取りをしたかは消えない。私的な日記のつもりでワードで書きためた文章でさえサーバー内に永遠に残る。グーグル、ヤフー、フェイスブックで検索した項目も日時と一緒に残るから、すぐれた(?)解析ソフトを使えば、たちどころに個々人の趣味や傾向が知れる。アマゾンの書籍購入履歴や広告画面のクリック履歴によっても、読書傾向や個人的性向は一目瞭然である。
 さらに携帯電話や自動車ナビのGPSで、位置情報は筒抜け。携帯の電源を入れたまま男女が同じ部屋にとどまれば、すぐにそれと分かるから、当局には不倫調査などお手のものだろう。国は「個人番号」により国民一人ひとりの預貯金額や所有不動産価値を把握出来るし、DNA検査の遺伝子情報が登録されれば、過去の病歴から未来予測までもが明快になる。あえて手間と経費をかけずとも、放っておけば自然に集まってしまうのがインターネット時代の個人データである。プライバシー無き社会は、すぐそこにまで、いやすでに来ているわけだ。

 スノーデン氏は『スノーデン 日本への警告』の中で「無差別・網羅的な監視にあたり、政府は民間の会社に協力させています。グーグル、フェイスブック、アップル、マイクロソフト、ヤフーなどのインターネット・サービス・プロバイダや、ネットワーク・コミュニケーション・システム、インフラ……などの通信事業者に協力させるわけです」と説明している。「協力」が経費節減のカギであり、急速な「監視社会」化への理由だ。パソコンの全ネットワーク情報をチェックするセキュリティーソフト会社が協力の前面に立っている現実も、それゆえの商戦過熱も、容易に察しがつく。ちなみに1013年に「特定秘密保護法」を制定した日本は、米政府に全面的な協力体制をとっている。スノーデン氏は、かつて米軍横田基地(東京)内にあって監視作業にあたっていたとも告白している。

 「隠すものがなければ、恐れることは何もない」
 他人に読書傾向や広告閲覧履歴を知られても、まったく苦にしない人は多い。もとより科学技術は国民と権力の間にあって中立であるし、とりわけITは社会への貢献度が大きい。また、監視されるのは不快だという人も、街頭の防犯カメラが犯罪捜査に役立っている事実は認めるだろう。しかし、だからと言って、犯罪者でもないのに私的メールまで他人に盗み読まれて、喜ぶ人はいない。
 見出しのコトバは、旧ソ連やナチス・ドイツ、戦前・戦中の日本などで強大な秘密警察が登場するたびに、過剰な監視行為を正当化する意図から、引合いに出されてきた。政治的に動揺しやすい小市民を恫喝(どうかつ)し、抑え込むには、効き目があったのかもしれない。とはいえ冷静に考えれば、恫喝する側が「隠すもの」だらけの秘密警察という事実には、パロディーにも似た滑稽味を感じる。

 現代ふうに発想の転換を
 現代は民主主義の世の中である。主人公は国民であり国家ではない。であれば「隠すものがなければ、恐れることは何もない」は、国民が国家の姿勢を正す際に用いるべきコトバでなければならない。国民に対して秘密を持たず、誠実にして公正、かつ透明度を保つべきは国家の側だ。個人の次元ではプライバシーを尊重し合ってこそ、成熟した人権社会だと言える。
 消去不可のインターネット情報も、国民の視点で利用する方法がありそうだ。たとえば国会を賑(にぎ)わしたイラク軍事日報の紛失問題。一部公開された資料にはワード入力の跡が見て取れるので、どこかのサーバーに全文保存されているはずだ。国会論戦では、この点から突くことも出来たのではないか。また、警察署取調室の可視化も、ぜひ全室で100%の実現を急ぎたい。地検の検事取調室も含めて全事件で可視化すれば、冤罪事件がこの世から消えることは間違いない。(国民に対して)隠すことかなければ、(国家が国民を)恐れることは何もない、が、民主社会における、このコトバの正しい解釈なのである。