斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

78 【唱歌「野菊」】

2020年11月12日 | 言葉
 国民学校初等科3年生用の音楽教科書「初等科音楽・一」は、日米開戦の翌年、1942年(昭和17年)の発行である。前年に国民学校令が公布され、それまでの尋常・高等小学校は国民学校と名称を変えた。教科書はすべて国定となり、音楽も儀式唱歌、つまり祝祭日に歌う『君が代』や『天長節』『紀元節』などを重視する指導になった。軍国主義が頂点に達した観のある時代。『野菊』は、この「初等科音楽・一」で発表された。
 今も『野菊』に感慨を覚える高齢世代が少なくない。ものみな戦争へと走り出した時代、童謡や唱歌さえ戦意高揚が第一とされた時代にあって、戦争とは無縁の『野菊』にわずかな救いを、すがすがしさを感じ取った人たちである。

一、遠い山から吹いて来る こ寒い風にゆれながら けだかく きよく におう花 きれいな野菊 うすむらさきよ(作詞・石森延男、作曲・下總皖一)

「軟弱すぎる。もっと勇壮な歌にしろ!」
 文部省の教材選定に立ち合った軍部担当者が、石森延男に詰め寄った。当時の石森は文部省教科書監修官。『野菊』の作詞者というだけでなく、国定教科書を作る直接の当事者でもあった。
「勇壮さは日本精神です。日本精神のアラミタマ(荒御魂)です。けれど、ニギミタマ(和御魂)もまた日本伝統の精神です。万葉集のニギミタマの心こそ、この『野菊』なのです」。必死な弁舌。何とか石森が粘り勝ちした。「もともと軍国思想を教科書に色濃く出すことには反対だったからね・・」。のちに石森は二女の尾見七重さん(東京・阿佐ヶ谷)に、こう話したという。

 石森を一躍有名にしたのは小説『コタンの口笛』(1957年刊)である。還暦を迎えた年の出版で、もともと国語国文学者、教科書編集者の肩書の方が知られていた。札幌市生まれ。父の和男も札幌師範学校で教鞭をとる国文学者。延男は札幌師範、東京高等師範の両校を卒業後、いくつかの学校に勤め、1926年(大正15年)、恩師の国語学者、諸橋轍次氏の勧めで満州(中国東北部)へ渡った。当時の満州では、教科書は内地の借り物だったから、満州への愛郷心が育たない。そこで独自の教科書を作ることになり、石森に白羽の矢が立った。

 真っ赤な夕日が落ちるモンゴルの砂漠。東シベリアの風光--。『私の中の歴史1』(北海道新聞社刊)に、満州に対する石森の切々たる思いが綴られている。この地で石森は30歳の若い情熱を全開させた。教科書編集のかたわら自費で小中学生向けの雑誌を発行。給料すべてをつぎ込むが、一教師の資金では如何ともし難く2年で廃刊。一方で教員仲間と童話雑誌を出す。大連の視学になった1932年(昭和7年)からは、児童向けの『満州文庫』全24巻を出版した。1939年(昭和14年)、文部省教科書監修官の辞令を受ける。今度は逆に満州の生活を内地の教科書へ盛り込むための、2本目の白羽の矢だった。直後、石森は東京・九段の憲兵隊本部へ呼び出された。
 
 『満州文庫』の小説中に、夫を馬賊討伐で戦死させた妻が、息子に「あなたを、もう軍人にはしない」と言って悲しむ場面があった。憲兵隊は石森を「反軍思想の持主」として『満州文庫』全巻を発禁処分にし、文部省へは「石森を教科書監修官から外すべし」と申し入れた。
 しかし文部省は憲兵隊を相手にせず、石森は教科書監修官を解職されなかった。二女に「もともと軍国思想を・・」と述懐した背景には、こんな出来事があった。

二、秋の日ざしをあびてとぶ とんぼをかろく休ませて しずかに咲いた野べの花 やさしい野菊 うすむらさきよ


 GHQ(連合軍総司令部)のCIE(民間教育情報局)は、文部省関係者の多くを公職から追放したが、国語科の監修官では石森だけが追放されなかった。幸運と不運はどこでどう巡り来るものなのか。『満州文庫』発禁処分の一件が幸いしたらしかった。以後の石森の活躍は目覚ましい。地理や歴史とともに国語教育の廃止論が出た時、存続をCIEに単身かけ合ったのは石森だ。歴史的仮名遣いやローマ字表記問題、民間教科書編集などでも奔走した。

 石森の二女、尾見七重さんには、『野菊』を作曲した下總皖一(しもふさかんいち)の記憶が一度だけあるという。小学4年生の夏、両親と下總との4人で愛知県蒲郡市へ旅行に出かけた時のこと。「汽車の中でずっと遊んでくれ、やさしい人だった。薬をたくさん携帯していて、驚いた覚えがあります」
 この旅行を下總もエッセー集『歌ごよみ』(音楽之友社刊)で楽しげに書いている。下總の出身地、埼玉県大利根町(現在は加須市)にある下總皖一資料室の中島睦雄さんによれば、一見頑健そうな下總は大の薬マニア。石森と下總が当地の中学校の校歌を作り、記念に招かれての蒲郡旅行だった。『野菊』以後の2人は実に多くの校歌を作っている。

三、霜がおりてもまけないで 野原や山に群れて咲き 秋のなごりをおしむ花 あかるい野菊 うすむらさきよ

「大利根の風光は『野菊』の詞にぴったり。故郷をイメージしながら作曲したはずです」。中島さんが言う。坂東太郎の異名をとる大河川・利根川と、川沿いの農村。清楚(せいそ)な野菊があちこちに咲き、冬には<こ寒い>空っ風が吹く関東平野の、ほぼ中央に位置する田園地帯だ。 
 下總皖一は埼玉師範学校、東京音楽学校、ドイツ・ベルリン音楽大学を経て1940年(昭和15年)から文部省教科書編集委員、42年から東京音楽学校教授(和声楽)。<ささの葉 さらさら>で始まる『たなばたさま』、<うんてんしゅはきみだ しゃしょうはぼくだ>の『でんしゃごっこ』、<蛍(ほたる)のやどは 川ばた楊(やなぎ)>の『蛍』、<ドンとなった 花火だ きれいだな>の『花火』、そして『野菊』。よく知られた多くの童謡・唱歌を作曲している。
<東京から(中略)汽車や電車で一時間ほどで着いてしまう所でありながら、文化からは長いこと取り残され(中略)利根川のほとり・・>
 『歌ごよみ』で下總は大利根町について多くのページを割いた。幼い日々への情感あふれる記述に、故郷に対する並々ならぬ愛着が読みとれる。中島さんの説明通り『野菊』ばかりか多くの唱歌・童謡が「故郷をイメージ」して作曲されたはずであった。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「野菊」の項を、書き改めたものです)