特定非営利活動法人 被災者応援 愛知ボランティアセンター 公式ブログ

2011年3月17日設立。孤児遺児応援活動、被災地ボランティア活動等、現在進行形で被災者応援活動を行っています。

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福島県双葉郡富岡町スタディーツアー報告

2013年09月05日 23時13分54秒 | [東日本大震災]被災地ボランティア

代表の久田です。
たいへん遅くなりましたが、8月16日~18日に実施しました富岡町スタディーツアーについてご報告します。

1.はじめに
 8月10日(土)。愛知ボラセン福島県双葉郡富岡町(とみおかまち)スタディーツアーの一行41人は、富岡町役場総務課の菅野さんにご案内頂き、富岡町内を見学させて頂いた。人口約1万5000人の富岡町。現在は全町民が避難している。正しくはお一人だけ避難勧告地域で、遺棄せざるをえなくなった家畜やペットの世話をされている方が例外的に暮らしていらっしゃる。

 今回はスタディーツアーの報告ではなく、それによって私が学んだこと、考えたこと、気づいたことを紹介する。なお、通常のブログ報告では「です」「ます」で記述しているが、今回はあえて「だ」「である」で記述することをお許し頂きたい。

2.2つの「見えないこと」「分からないこと」が富岡町の人々を大きな不安に陥れている
 私たちの不安は「見えないこと」「分からないこと」に主に起因する。「幽霊」や「死」を不安に思う人は多いが、それは見えないからであり、分からないからである。見えて、分かれば誰も不安には思わない。当然のことである。

 今、富岡町の人々は、2つの「見えないこと」「分からないこと」によって大きな不安に陥れられている。

 1つは、「見えない放射線」の「分からない危険性」による大きな不安だ。富岡町役場を見学させてもらった。電気は通っていないため、庁舎内は蒸し暑い。庁舎をでると木陰から心地よい風が吹いてくる。だがこの心地よい風は放射線を含んでいる。それに気づくと、心地いいとはとても思えない。放射線に色はない。匂いもない。蓄積していても気づくことはない。放射線はまったく見ることができない。線量計で計測できるが、それとてもどれだけ正確かは不明である。

 そして、安全基準はおそらく、ない。いろいろな機関や関係者から「基準数値」は出されている。しかし、病気のように、これ以下だから安全・安心、これ以上だから危険というラインは、本当のところは「分からない」。正確なデータは公表されていない。広島・長崎の被爆者の詳細なデータを把握していると思われるのはアメリカ軍である。だが、広島でも、長崎でも、ビキニ環礁でも残留放射線の影響はまったくない、というのが今もアメリカ軍の公式見解である。明確なデータが公表されていない中で、日本政府が除染後にめざす年間線量1ミリシーベルト以下が安全であるとは断定しきれない。また、0.9ミリシーベルトがセーフで、1.1ミリシーベルトがアウトであるとは断定できない。線量の数値基準は病気の検査の基準のようにはいかない。

 だから、放射線は富岡町の人々のみならず、私たちも不安に陥れている。そしてこの不安は永劫に晴れることのない不安でもある。今回の原発事故で放出された放射性物質の一つプルトニウム239の半減期は2万4065年。2万以上も経ってようやく半減する。半減とはいってもさらに2万4065年後にはまた1/2(元の1/4)になり、さらに2万4065年後にその1/2(元の1/8)になる…。プルトニウム239はほぼ永遠に消滅することはない。1%以下になるには120万年以上も必要となる計算になる。永遠なものはないとする無常観は日本の重要な世界観の一つだ。しかし、原発事故によって、私の無常観は打ち砕かれた。プルトニウムはほぼ永遠に残る。

 もう一つは、「将来が見えないこと・分からないこと」による不安だ。本当に町に帰ることができるのかどうか、誰もわからない。自分たちの暮らしがこれからどうなっていくのか、まったくわからない。除染作業後に年間線量が1ミリシーベルト以下になるので、その地域は帰還できると日本政府はいう。だが、本当に帰還してもいいのかどうかは、残留放射線の不安から、誰もが不安に思っている。将来が見えないことは宮城県や岩手県のとりわけ過疎地域の被災者にも共通である。だが、富岡町では残留放射線がいっそう将来を見えなくしている。

3.大災害は人間関係を破壊する。それに加え、原発事故加害者が未必の故意か意図的か、人間関係をさらに破壊している
 「災害ユートピア」という言葉がある。大災害後に、被災者は見事な助け合いをする。東日本大震災の被災者が助け合う姿が震災直後にはクローズアップされた。さすが日本人という言辞もあった。それは大きな認識不足か、ナショナリズムを意図的に鼓舞するものであろう。実は古今東西、大災害の後には見事な助けあいや、人命救助の英雄的行為が自然発生的に生まれている。東北のことだけではない。アメリカのジャーナリストであるレベッカ・ソルニットの「災害ユートピア」(亜紀書房)では人々のすばらしい助け合いを報告されている。しかし、レベッカ・ソルニットは「災害ユートピア」が継続できないことを問題点としてあげている。

 つまり、被災者同士が助けあい、援助が行われる。だが、残念なことにそれはせいぜい1年程度の期間のことでしかないというのが、「災害ユートピア」の現実である。

 非被災者は「絆」「助け合い」というような言葉に未だに幻想を抱いているかもしれない。そして、日本人は困難に対して寡黙で、見事な助け合いをするのだと。おそらくそれは被災者のリアルな姿を見ることがないから、あるいは見ようとしないことからくる幻想だと私は思う。

 大災害は被災者の人間関係をも破壊する、ということを十八成での活動を通して気づいた。避難所にはプライバシーはない。見ず知らずの人間が狭い避難所で半年近くも生活する。その中で深まる人間関係はある。しかし、ささいな行き違いの積み重ねによって、深刻な対立が生まれるのもやむをえないことである。

 さらに、被災状況は一軒ごとに異なる。それが人間関係を複雑にする。場合によっては人間関係が壊されていく。心ない発言が人を傷つける。
 被災者と非被災者の関係も被災直後とは明らかに異なっている。報道もボランティアも激減している。それを裏切られたと感じている被災者は少なくはない。3月11日って何の日だったっけという言葉を名古屋で聞いたことがある。被災地のことは大多数の非被災者にとって、すでに関心の埒外にあるといっても過言ではあるまい。

 愛知ボラセンは、今も日常的に被災地の十八成浜を訪問し、被災者との関係を深め続けている。ボランティア同士も、十八成の皆さんとの関係も、震災前には何もなかった。しかし、今は深い人間関係を築いている。「災害ユートピア」的状態は今も続いている。だが、愛知ボラセンの実践は小さな点にすぎない。震災から2年半を経た今、殆どの被災地では、被災者同士の関係は震災以前よりもバラバラにされてしまっている。

 富岡町では人間関係の分断はさらに深刻である。町内は帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3つに線引きされている。地図ではそれぞれ順に、赤、黄、緑に色分けされている。放射線量の違いに基づいているものだが、道路を隔てて異なる区域に分けられているところが多くある。この区域分けは単なる線引きにとどまらない。東電からの保障金額も変わってくる。帰還困難区域の保障が最も厚い。この線引きによって富岡町の人々は3つに分断された。

 富岡町に帰ることを望んでいる人たち、福島県内にとどまりたい人たち、県外避難をした人たちの関係もおかしくなってしまっている。福島県在住の芥川賞作家である玄侑宗久は「光る山」で、北海道に子どもとともに避難する妻と、県内にとどまり除染活動をする夫の関係が原発事故によって破壊され、離婚せざるをえない状況を描いている。現実でもこうした例はあるのだと思う。年齢によって放射線汚染への対応も異なってくる。こうした差異によって人間関係は分断されている。

 それらに加えて、家族や愛する人を亡くした人と亡くしていない人、家が流された人と残った人、仕事を失った人と失っていない人、ローンを抱えている人と預貯金のある人…などなど、それぞれに異なる被災状況が、被災者の人間関係を複雑にし、破壊する。

 その上、富岡町の人々は、避難先の住民から心ない言葉を投げつけられることもある。車が傷つけられた事例もあるという。「震災前は原発マネーで潤い、今はその保障で暮らしている」「住民票は富岡町にあるから避難先の市町村には住民税を納めていない。そのくせ住民サービスを当たり前ようにうけている」、そして「放射線汚染差別」…。富岡町町民の中には不届き者もいて、賠償に頼る生活をしているかもしれない。だが、大多数の人はローンを抱えたりして、これからの見通しが立たない状況にいる。住民票を移さないのはいずれ町に帰る意志があったり、富岡町民であることを意識していたりするがためのことだ。だが、富岡町民は原発事故によっていわれのない差別を受けている。そして、福島県全体としては、農水産物の売り上げの激減、福島県民というだけで放射線汚染による差別が事実としてある。悲しいことである。実に残念なことである。

 本来なら、被災者は被災直後の「災害ユートピア」状態を維持して大同団結し、さらに被被災者も加わって、被災者のための復興を推進していくように政府や東京電力と交渉していっていいはずである。しかし、現実は関係がバラバラになってしまっている。それでは、交渉力は弱い。日本政府や東京電力は、被災者が分断し、被災者と被被災者も分断するような政策を意図的に仕組んでいるのではないか、と私には思えるのである。

 愛知ボラセンの応援の方向性は、被災者が分断されていることを認識し、被災者の人間関係を少しでも回復することができるようにすること。そして、被災者と非被災者の関係を少しでも改善していくことにあると私は考えている。

 そのためには富岡町の被災者に対して見える活動、富岡町の被災者と人間関係を深めるような活動を、月に1回以上の回数と、大型バス1台以上の人数で継続していくことが必要であると私は考えている。愛知ボラセンの富岡町応援活動が大型バス1台(約40~45人)で月2回実施した場合、1年にのべ約1,000人が富岡町を訪問したことになる。まずは多くの人が富岡町を訪問し、少しでも学ぶことも重要なことである。この2年半で100回を越える現地ボランティア活動を続ける愛知ボラセンならできないことはないと思っている。

 こうしたことが、富岡町の人々の人間関係の回復と、被災者と非被災者との関係回復に間接的に繋がっていくものであることを、この100回の現地ボランティア活動から私たちは学んできた。これを富岡町でも実践し、応用していくことができるのではないかと考えている。

4.地域の状況が異なり、被災者がバラバラになっている状況で、「福島」、「被災者」と一括りにしてしまっては、「被災者」が見えなくなる
 町が3分割されている富岡町、町全体が帰還困難区域の大熊町、町全体で除染が進み、住民が戻りつつある南相馬市や楢葉町、福島第一原発から60km以上離れている郡山市、福島市、100kmの会津若松市…。すべて状況は異なる。ちなみに十八成浜は約80kmである。

 会津の農産物は福島県ということで「風評被害」により販売が困難になっている状況がある。富岡町では農業生産はされていない。従って「風評被害」は存在しない。だが前述のよう、富岡町民であることで、放射線汚染によるいわれなき差別を受けることがある。「風評被害」ではなく「実害被害」と富岡町の菅野さんは語る。そして、福島県民であることによって他都道府県で差別される。

 「福島の人たち」と一括りにすることは正しくないであろう。それぞれの地域によって被害状況は異なる。復興の方法も異なる。風評被害を受けている人たち、実害被害を受けている人たち、それぞれに異なる。

 「福島」と一括りすることは、福島県の被害の実情を見えなくし、結果的に差別につながっていくように思う。

 被災地・被災者のおかれた状況が複雑であることを学び、正しく認識することが、風評被害や実害被害の克服につながる。そして、私たちが適切な応援活動を築くためにも大切なことだと思う。

 今回のスタディーツアーで多くのことを学んだ。だが、それはほんの少しのことでしかないと私は考えている。もっと学ばなければならない。学び続けなければならない。そして、現実の活動を展開し、被災者との関係の中から学び続けなければならない。

 9月8日には、富岡町内の松村直登さんを事務局長の久世と訪問する。松村さんは富岡町内に残された家畜やペットの世話をするためにたった一人富岡町に現在も住んでいらっしゃる。

 皆さんとともに、福島県双葉郡富岡町の皆さんの応援活動を続けていきたいと考えている。

 皆さん、ともに!

 

コメント (6)
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