小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

武士道

2009-12-01 00:17:22 | 考察文
武士道とは、主君に忠誠を尽くす事だから主君がいなくては、武士道という思想そのものが成り立たなくなる。武士道を根底から規定しているものは忠義に殉じる事だからである。最も、今時、武士道だの、葉隠れ、だのというアナクロ二ズムな事を思っている人は、あまりいないだろう。しかし、少なくとも、葉隠れ、の思想は現在においても有意義な思想だと思うのである。葉隠れ、は、戦国時代に書かれたものではない。戦国時代が終わった徳川時代の、もはや武士が戦う必要がなくなり、主君のために死ぬことがなくなった太平の時代に、つまり武士が、武士道を忘れてしまった時代に、たるんだ武士に活を入れるために書かれたものである。そのため、いささか過激な所もある。葉隠れを読む時には、そういう時代背景も考えて読まないと火傷しかねない。そして葉隠れ、は現代では無用の書かというと、そうではない。葉隠れは、体系的な思想書ではないのである。山本常朝という一人の武士であり、思想家である人間の、個人的な思想なのである。それは恋愛観から日常の作法までざっくばらんにある。その思想は、必ずしも武士でなれけばならない、という必然はない。それに、忠義に殉じるということにしても、必ずしも主君という目に見えた存在が必要なわけでもない。自分の始めた事業、仕事、ライフワークなどに命以上の価値をかけていれば、それは大義であり、それが自分が仕える主君となる。だから、そういう自分の命以上の価値を持っている人間には、葉隠れ、武士道、は決してアナクロニズムな思想ではなく、現代でも有効な思想なのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする