小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

親切な人ほどエゴイスト?

2009-12-17 00:38:31 | 考察文
大学の教養の時の哲学教授は性格的に嫌いだった。ある授業の時、師の教えた事の感想を書く宿題があった。私は短いなりに自分の感想を書いて提出した。そしたら、次の時間、レポートを受け取るとすぐ、全生徒の感想文をパラパラッと捲って早口で読み出した。生徒の中には、恥ずかしくて逃げていく生徒もあった。師は、「俺の頭脳は最高に正しくて俺にかなうヤツはいるか」といった大人気ない性格だった。そして生徒のレポートを全て批判しだした。しかし私の感想文は、途中で読むのをやめて飛ばした。しかも一巡して二度目もである。私が書いた感想文は短いのだから最後まで読んで、ちゃんと批判して欲しかった。こういう手合いは、自分にはかなわない強敵からは目をそらすのである。そして、ある生徒の感想文が、ちょっと幼稚なのに嬉しがって、親鸞の悪人正機説を得々と話し出した。その先生は、ある時、「親切な人ほどエゴイスト」と言った。私にはその意味がわからない。思想には、ちゃんと説明をして欲しいものである。「親切な人ほどエゴイスト」とは、どういう事か?説明が無いので自分で解釈するしかない。自分が苦境になった時、自分を助けてほしい保険として日頃、人に親切をふりまく人を称してエゴイストと言っているのだろうか。それならわかる。しかし、そういう人はあまりいないだろう。私は、そんな見返りを求めた親切などしない。しかし乞食に少しでも金をやること、駅で一人ぼっちでうずくまっている人に声を掛ける事。それは確かに、自分が、可哀相な人を助けてやりたいと思う心と同時に、自分がいい気持ちになりたいというエゴイスティックな感情も確かにあるだろう。しかし私はそれを十分、知っている。私は自分を欺かない。そもそも私は人に恩着せがましいのが大嫌いである。これは親の反面教師もある。親は恩着せがましいので嫌いである。しかし親の影響が無くても私は私になっただろう。師の「親切な人ほどエゴイスト」というのはジョージ・バタイユの哲学の、他人と自分の区別をしっかりつける大人の人間関係の大切さを主張しているように感じる。それはそれでいい。しかしである。たとえ純粋でなくても、偽善的感情があっても、それでもかまわないと思っている。感情の純粋さより物事は結果が大切なのである。うつ病や、乞食、どうにもならない苦境に苦しんで一人で悩んでいる人。そういう人にとって、素通りする雑踏の中で、たとえ偽善でも、立ち止まって、一言、温かい言葉をかけてくれる人がどんなに嬉しいことか。これは自分がそういう経験をした人でないとわからない。「神は健全な肉体には宿らない」
と言ったユベナリスの格言を感じる。
しかし、自分が健康になると、一人でいる人を見ると、声をかける気持ちは起こらなくなる。そういう自分を考えると私も軽率な人間だと思った。そういう事を考えると親切な人というのは、やはり、困った時のために、自分もそうされて欲しいというエゴイズムが心のどこかにあるのかもしれない。
「Laugh and the world will laugh with you .And cry .and you will cry alone」
という格言がある。しかし私は四年で心身ともに参って休学する前に出した文集にこう書いた。勿論、その文集は今でも持っている。
「Laugh and the world will laugh with you .And cry and you will cry alone. but I wont to cry with person who is crying alone」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする