小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

博士号2

2009-12-15 03:11:00 | 医学・病気
さて博士号なるものであるが私は全く興味がない。そもそも論文を認めて博士号を認める権限は教授にあるのである。だから、内容のない論文でも教授が認めれば、それは立派な博士号となるのである。逆に教授に性格的に嫌われていると、内容のある論文でも博士号と認めてもらえない。そこから当然、教授に対するゴマすりが起こる傾向が出てくる。何科の医者でも博士号は公衆衛生学で取る人が多い。何かの集団と何かの集団を較べてみれば、大抵、ほとんどの疾患に関して何かの違いが統計で出てくる。その原因を書けば論文一丁上がりである。単に数字をいじっているに過ぎない。公衆衛生でなくとも自分の専門科でも、やはり統計的な比較の論文が多い。そもそも教授にしても大した論文が書けない人は多い。教授は権力の座につきたいと思っている野心家が多い。オペなどの臨床の能力はある人は多い。しかし本当に研究肌の人は、研究室で黙々と研究に打ち込むのが好きな性格だから、人を取り纏めたりする能力はないし、権力の座につきたいともさほど思っていない。手塚治虫の博士号も、単に顕微鏡を見てタニシの精子の絵を描いただけに過ぎない。それでも教授がO.K.と言えば立派な博士号となる。今では論文が本当に価値のあるものであるかどうかは、論文が引用される回数がその指標となっている。価値のある論文だったら、よく引用され利用されるのは明らかである。ほとんどの医者は博士号を取るが、これはやはり開業した時に額縁に入れて自分の能力を誇るためである。そして、博士号を持っている医者は名医だと思うから、患者をひきつける医院の経営のためもある。これは前からわかっていた事であるが、皆かやる以上、皆が持っているものを持ってないと引け目を感じてしまう。さらに今は医者が自分の宣伝をしてよくなったので、なおさらである。
研修医の時、エッセイの「外科医オーベン」で書いた先生が言っていたのだが、東大では論文の入っているフロッピーは、絶対、肌身離さないということだ。なぜかというと、フロッピーを置いておくと、誰かに盗まれて発表されてしまうらしい。論文は誰が最初に書いたか、という時間の問題である。私は、本当にそんな事があるのかと信じられなかった。第一、論文を盗んで自分の論文として発表した人は、論文を書いた人に、ぶん殴られると思うのだか。しかし、先生は本当にそう言ったのである。

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