小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

古林尚

2009-12-23 00:53:57 | Weblog
三島由紀夫が、死の数日前に古林尚と対談している。あれが三島の最後の対談である。三島の理論なるものは、かなり自分中心である。古林尚も、いいかげんである。まあ、気楽な対談だからいいが。三島はすでに死を決意しているから、かなり思わせ振りな、マニーリールドな事を言って、いい気になっている。いくつもあるが、二人に言わせれば全共闘の思想は、生命が価値の至上であると、かってに決めつけている。しかし、これは絶対、違う。私は学生紛争以後の人間だから、学生紛争は、詳しくは知らない。しかし動画とか、彼らの発言とかで見ると、彼らは真剣だった。ふざけ半分のヤツはいないと、言ってもいいくらいである。少なくとも95%以上の学生は真剣である。彼らが死ななかったのは、生命至上主義などという思想からではない。学生運動そのものが、命をかけるほどの値打ちのある戦いではなかったからである。解り易く言えば、夫婦ゲンカも兄弟ゲンカも親子ゲンカも、戦いには変わりない。しかし、たとえ自分の思想に絶対の自信を持っていたからといって、夫婦ゲンカに命をかける人がいるだろうか。命がけの夫婦ゲンカなどというのが、はたしてこの世にあるだろうか?そんなつまらない事に命をかける莫迦はいない。学生運動も、それと同じである。学生紛争ていどの戦いには、命をかけるほどの値打ちなど、教授の方にも、学生の方にもない。明治維新といっしょにくたにしてるのが、そもそもおかしい。もし、日本の本当の危機、本当に命をかける価値のある戦いが起こったなら、あの当時の学生達は、命をかける人もいた、と私は確信している。けっして彼らは臆病者でも、生命至上主義者でもない。他にも、数え切れない、いいかげんさがある。三島にへつらって学生を莫迦にしている古林尚もいいかげんである。そもそも三島は、自分を無にして対象を観察しようとせず、はじめから自分が持っている論理でもって、対象をかってに自分流に料理して、決め付けて、結論づけている。こういう態度は学者がとるべき態度と正反対である。まあ三島は学者ではなく芸術家だから、それは仕方がないが。だが文学者、芸術家としての三島はノーベル賞にも当然、匹敵する価値の高い文学である。

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ブログのランキングに入る

2009-12-22 02:40:34 | Weblog
12月16日(水)で、はじめてブログのランキングに入った。1338792人中9722位とあった。百万人中、一万人以内に入るとランキングに入るのだろう。こんなブログでも、読んで下さっている方には、謹んで感謝申し上げます。

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クリスマス・ツリー

2009-12-22 02:06:00 | Weblog
駅前に大きなクリスマス・ツリーがある。私は何を書こうかと迷った。とりあえず、「来年も無事に過ごせますように」と書いた。何故か通行人が笑っていた。その理由がわからなかった。家に帰って、クリスマス・ツリーは願い事を書くものではないのだ、と気づいた。それで、あわてて駅に行って、書いた願い事を消した。私は七夕の短冊と勘違いしていたのだ。


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自由学園

2009-12-21 01:03:05 | Weblog
自由学園を卒業する直前の6年の時、6年生全員が寮で、簡単な別れのスピーチをする習慣があった。それは今でもあるだろう。上級生の事は、知らないから、その時に、上級生の思いを知ることが出来た。しかし、気に食わないものもあった。不真面目な生徒のする事といったら、学校をサボる。そして寮で麻雀をする。掃除をしない。下級生をいじめる。タバコを吸う。無断借用する。などである。不誠実な生徒は、学校を休むことが多く、掃除もしないから、あまり顔を見る機会がない。そういう生徒は、6年の別れのスピーチにも出ない。いないので、別の友達が、その人の事を紹介したりする。そういう事が少なからず、あるのである。紹介する生徒は、「彼は、学校生活は良くなくて、ワルのように思われているかもしれないけれど、人間的にはすごくいいヤツで・・・」などと言うのである。私は、これに反吐が出た。そんな事、言ってるヤツもバカだと思った。「ふざけんじゃねえ。学校サボるのはてめえがバカになるだけだから、かまわないが、掃除をサボることの意味がわかんねえのか。掃除をサボれば、労働者が一人減って、それだけ他の人の仕事が増え、人に迷惑をかけるという事になるというのに、それの何処がいいというのだ。タバコを吸うのも、てめえが、ニコチン中毒になるだけだから構わない。しかし無断借用することのどこが良い事なのだ。学校の規則を守らず、学校をサボって、仲間どうしで、遊んで面白おかしい事を言えば、いい人間性の人間というのか」と思っていた。こんな事を言う奴等は、あまちゃん、もいいところだ。実際、学園は金持ちの莫迦息子が多い。今年の11月に、同窓会に行ったが、ほとんどがろくな仕事についてない。Fをいじめた奴等、尻馬にのって、いじめた奴等も対象外。
ただ、感動した人もいる。私より一年上の上級生だったが、その人は、勉強も運動も取り得のない、ぱっとしない人だった。しかし、別れのスピーチの時、こんな事を言った。
「僕はゴミ燃し場をきちんとした。これだけは僕が自由学園で一生懸命、取り組んだ事で、下級生にはぜひ、ゴミ燃し場をきちんとして欲しい」
感動した。立派な人だと思った。

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自由学園の創立者

2009-12-20 00:34:40 | 考察文
自由学園には男子女子合同の礼拝があった。内容は大抵、女子部の批判みたいなものだった。(今は違うだろう)だが学園長は創始者の偉大さを自慢するのもあった。創始者は、二ノ宮金次郎のように大変な勉強熱心だったらしく、ある時、数学の問題を宿題に出されて、家に帰って夜中まで考え抜いたが、分からず、とうとう数学教師の家に連絡して、教師の家に行き、正解を教えてもらった、という事だ。なんと創立者は勉強熱心だったかという事を、と得々と自慢していたが、これはアホである。夜中まで考えるのはいいだろう。しかし、分からないのなら、翌日か、次の数学の時間に聞けばいいではないか。教師がいなくなるわけではあるまい。一晩、眠ってしまったら、途中まで考えてた事を忘れてしまう、というような事は、ありえない。自分がたどりついたまでの思考や、わからない点をメモしておけば、いいではないか。そして翌日、聞けばいいではないか。それより、自分の方から行くとはいえ、真夜中というのは人迷惑である。教師だって、自分の生活や予定があるだろう。それに数学の場合、論理を教えるわけだから数学の苦手な生徒に、わかるように説明するのは、かなり難しい場合もある。英語の分からない単語だったら、その意味を教えるのに手間はかからないが。こういうのは、勉強熱心を誇る教訓ではなく、自分中心、傍迷惑、人の立場を慮れない、という不道徳の、いい教訓話だと思うのだが。そして人間は、勉強が出来るかどうか以前に、まず人格、物の道理がしっかりしていることの方がずっと大切ではないのか。そもそも自由学園は、詰め込み勉強を否定し人間教育とやらを謳っているのであるから、なおさらである。しかし、自由学園は創始者には絶対服従しなくてはならず、反論すると退学させられるので黙っていた。今はもう卒業してしまったので、言いたい事を書けるのである。

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書店

2009-12-19 21:34:13 | 考察文
所用あって新宿へ出かける。つい紀伊国屋書店に入ってしまう。書店に入るとつい本を買ってしまう。まだ読みきってない本が家にあるというのに。書店に入るとつい本を買ってしまう。近くの大きな書店でも、なかなか欲しい本が置いてない。ので、本は、まずブックオフで探す。今日は、阿部公房と城山三郎と重松清を買う。小説は楽しみのため、というより、自分が小説を書くのに参考になる本を買っている。阿部公房の小説はいい。何がいいといって、アイデアの豊富さがいい。形容詞にオリジナルな面白さがある。一見すると、高校生でも書けそうな小説のようにも見えるが、これがなかなか書けない。城山三郎は、経済小説にありがちな無味乾燥な文章ではなく、適度な形容詞(文章の美しさは形容詞の美しさ)があり、ドラマもあり、人を不幸にしたくない、という城山三郎のやさしい性格が小説に表れている。重松清は、初めてだが、「小学五年生」という、小学生が主人公の小説集なので、私が書きたい小説の参考になりそうなので買った。帰りの電車で読んだが、いける、と思った。まだまた読んでない作家もあるが、いい小説は、数行を読んで気に入ってしまう、のが多い。何も私はプロ作家しか読まないという差別はない。アマチュアでも、すごく美しい小説をいくつか読んでいる。プロは締め切りに追われて書いているから、筆が雑になる作品もあるが、アマチュアは締め切りがないから、十分練って書けるから、いい作品にも会う事があるのである。しかし女の作家の小説は、あまり読まない。なぜなら漫画と同じで、女をかわいく描けるのは、漫画でも小説でも男だと思うからである。女は自分が美の主体だから、自分の事を、かわいらしく描くことは出来にくいように感じる。女の嫌な本音が表れていたりすると幻滅である。私は小説は現実性より空想であっても理想の美を書いた物の方が私は好きである。というより、女のいい所だけ書いて、悪い所は書かなければ空想ではない。やはり、女の書く小説は女の方が、女特有の感情に共感できるから、読者も女が多いのではなかろうか。男は女を理想として見ているから、その情熱が女を美しく描かせるのだ。女も、もちろんナルシズムがあって自分を美しく見せようとするが、それは日常生活での事であって、作品として女をかわいらしく描くことは出来にくいのではなかろうか。それは物理的な点では女は自分を美しく見せ、演じることは出来るが、作品で描くとなれば、精神の美しさを表現しなければならず、女は決して、男の偏見による理想のやさしさ、など持っていない事を知っているだろうから。

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窃盗

2009-12-19 00:16:05 | 考察文
高校の時、ある遠くの駅から学園に戻ってくる長距離歩行があった。オリエンテーリングのようなものである。その時、私のクラスの、あるグループの一人がキーのついたオートバイを見つけた。彼は後ろに生徒を乗せてピストン輸送した。それが悪い事に警察に見つかって、つかまってしまった。無免許運転で、しかも窃盗罪である。ヘルメットもかぶってないし、見つかる可能性は高い。しかし、それがスリルだったのだろう。彼と、彼の仲間は警察に呼ばれた。彼は警察に、「遅れているので、遅刻しないように、仕方なくやった」と言った。自分を正当化するために精一杯、考えての発言だろう。しかし、私はこれは、まずい言い訳だと思っていた。素直に、「スリルを味わいためやった」と本心を言うべきだ、と思った。なぜなら、警察では彼の性格は知らない。しかも高校一年生である。だから彼の言う事をそのまま信じるしかない。しかし、「スリルを味わいためやった」と言えば少年の罪のない無邪気な冒険心として警察も寛容に見るだろう。高校生、若さのエネルギーは、そのくらいのことなら、そう咎めはしないだろう。しかし、「遅れているので、遅刻しないように、仕方なくやった」と言ってしまうと、この人間は目的のためなら手段を選ばない性格と、警察にとらえられてしまう。しかし目的のためには手段を選ばないというのは犯罪者の性格である。警察もそれを信用したようである。彼が熱心に訴えたのだろう。結局、彼だけが調書をとられ、前科一犯となった。一緒になって後ろに乗っていたヤツは、共犯といえると思うが、警察は彼らの調書まではとらなかった。それほど寛容なのだから、正直に、「スリルを味わいためやった」と言えばよかったのに、と思っていた。実際、彼は冒険心のあるヤツである。しかし私は学園にいた時は、無口で自分の考えというものを全く言わない生徒で通していたので、言わなかった。今は、思ってる事は何でも言っとかないと損だと思っているので、こうして書いているのである。

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女子中学生ロリコン

2009-12-18 00:12:04 | Weblog
女子中学生が可愛くて可愛くて仕方がない。純真で、高校生になると太腿が太くなってくるが、中学生だと脚が華奢なので、あれが可愛いのである。そして白い靴下に運動靴。あれも可愛い。そして制服。あれも可愛い。あんなにたくさん、いるんだから一匹くらい、さらってもいいんじゃないか、と思いたくなる。というわけで、とうとう私は女子中学生をさらった。
「おじさんは誰?」
「おじさん、と言うな。おじさんと言ったら殺すぞ」
「ごめんなさい。じゃあ、何て言えばいいんですか」
「おにいさん、と言いなさい」
「はい。わかりました。おにいさん」
「私をどうするんですか。性的な悪戯をするんですか」
「そんな事しないよ。だって君が好きだから」
「じゃあ、何をするんですか」
「何もしないよ。ただ普通にしていてくれればいい。君を見てるだけで僕は幸せなんだから」
彼女はほっとした様子になってくつろいだ。私は彼女をじーと見た。
「お、おにいさん。そんなに見つめられると恥ずかしいです」
少女は頬を赤くして言った。彼女はじっとしていた。
「時間が勿体ないから、宿題でもしなよ」
「はい」
彼女は、スポーツバッグから教科書とノートを取り出して座卓に向かった。彼女はウンウン頭を捻っている。
「どうしたの。何がわからないの」
私が覗き込むとそれは国語の教科書で、阿部公房の小説だった。
「この話の大意を述べよ、という問題なんですけど、わからないんです」
「ああ。それは問題の方が間違っているよ。阿部公房の小説の大意は書いた本人でも答えられないからね。阿部公房の小説は意味に至る前の、ある実態なんだ」
「ふーん。そうなんですか」
少女はサラサラッとノートに解答を書いた。どれどれ、と私が覗き込むと、こう書かれてあった。
「阿部公房の小説は、意味に至る前のある実態なので大意は述べる事は出来ません」
「そう。それが正解。さすが。頭いいね」
私は彼女が可愛くて髪を撫でたくて仕方がなくなった。しかし私はそれが出来ない。
「うおー」
私は苦悩にのたうちまわった。
「おにいさん。どうしたんですか。私に触りたいなら触ってもいいですよ」
「いや。触らない。触りたくもない」
「ひどい。私ってそんなに不細工なんですか」
少女は俯いて涙を流した。
「いや。違うよ。君は天使のように可愛いよ。しかし、もし僕が君に指一本でも触れたら、もう僕の精神的な敗北なんだ」
少女はニコッと笑った。現金である。夕方になった。
「おにいさん。私が帰らないと家族が心配してしまいます」
「じゃあ、返してあげる。どうもありがとう。はいこれ」
と言って私は彼女に二万円札を渡した。
「うわー。何ですか。これ?」
「拝観料。まだ足りない?」
「こんなに頂けません。宿題まで教えてもらって」
「いいんだよ。好意は素直に受け取りなさい」
「はい」
少女は素直に財布に札を入れた。
「あの。おにいさん」
少女は言いにくそうに躊躇った。
「なあに。何でも聞いてあげるよ」
少女はつぶらな瞳を上げた。
「あ、あの。また、来てもいいですか」
「うん。いいよ」
「じゃあ、また明日も来ます。宿題、教えて下さいね」
そう言って少女は満面の笑顔で私の家を出た。

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親切な人ほどエゴイスト?

2009-12-17 00:38:31 | 考察文
大学の教養の時の哲学教授は性格的に嫌いだった。ある授業の時、師の教えた事の感想を書く宿題があった。私は短いなりに自分の感想を書いて提出した。そしたら、次の時間、レポートを受け取るとすぐ、全生徒の感想文をパラパラッと捲って早口で読み出した。生徒の中には、恥ずかしくて逃げていく生徒もあった。師は、「俺の頭脳は最高に正しくて俺にかなうヤツはいるか」といった大人気ない性格だった。そして生徒のレポートを全て批判しだした。しかし私の感想文は、途中で読むのをやめて飛ばした。しかも一巡して二度目もである。私が書いた感想文は短いのだから最後まで読んで、ちゃんと批判して欲しかった。こういう手合いは、自分にはかなわない強敵からは目をそらすのである。そして、ある生徒の感想文が、ちょっと幼稚なのに嬉しがって、親鸞の悪人正機説を得々と話し出した。その先生は、ある時、「親切な人ほどエゴイスト」と言った。私にはその意味がわからない。思想には、ちゃんと説明をして欲しいものである。「親切な人ほどエゴイスト」とは、どういう事か?説明が無いので自分で解釈するしかない。自分が苦境になった時、自分を助けてほしい保険として日頃、人に親切をふりまく人を称してエゴイストと言っているのだろうか。それならわかる。しかし、そういう人はあまりいないだろう。私は、そんな見返りを求めた親切などしない。しかし乞食に少しでも金をやること、駅で一人ぼっちでうずくまっている人に声を掛ける事。それは確かに、自分が、可哀相な人を助けてやりたいと思う心と同時に、自分がいい気持ちになりたいというエゴイスティックな感情も確かにあるだろう。しかし私はそれを十分、知っている。私は自分を欺かない。そもそも私は人に恩着せがましいのが大嫌いである。これは親の反面教師もある。親は恩着せがましいので嫌いである。しかし親の影響が無くても私は私になっただろう。師の「親切な人ほどエゴイスト」というのはジョージ・バタイユの哲学の、他人と自分の区別をしっかりつける大人の人間関係の大切さを主張しているように感じる。それはそれでいい。しかしである。たとえ純粋でなくても、偽善的感情があっても、それでもかまわないと思っている。感情の純粋さより物事は結果が大切なのである。うつ病や、乞食、どうにもならない苦境に苦しんで一人で悩んでいる人。そういう人にとって、素通りする雑踏の中で、たとえ偽善でも、立ち止まって、一言、温かい言葉をかけてくれる人がどんなに嬉しいことか。これは自分がそういう経験をした人でないとわからない。「神は健全な肉体には宿らない」
と言ったユベナリスの格言を感じる。
しかし、自分が健康になると、一人でいる人を見ると、声をかける気持ちは起こらなくなる。そういう自分を考えると私も軽率な人間だと思った。そういう事を考えると親切な人というのは、やはり、困った時のために、自分もそうされて欲しいというエゴイズムが心のどこかにあるのかもしれない。
「Laugh and the world will laugh with you .And cry .and you will cry alone」
という格言がある。しかし私は四年で心身ともに参って休学する前に出した文集にこう書いた。勿論、その文集は今でも持っている。
「Laugh and the world will laugh with you .And cry and you will cry alone. but I wont to cry with person who is crying alone」

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プロネーション

2009-12-16 20:41:31 | 武道・スポーツ
今年一番の冷え込みである。最高気温7度。暖房があって温かくても夏のようにはいかない。転んで親指を擦りむいてしまった。痛いので、整形外科に行った。ここの整形外科の先生は、口は悪いが(私にだけかもしない)頭の回転が速く、きれる名医である。ので整形外科は、ここに来ている。最初に来た時、職業の欄があったので、「医師」と書いておいた。それ以外に書きようがない。ただ字は汚い。リハビリの女の人達も、これ何て書いてあるんだろうと、読めなくて困っていた。なぜか医者の字は汚いのである。研修病院の時も、それ以外でも、医者の字はなぜか汚いのである。研修の時は、オーベンの字が読めないのが一番困った。達筆な医者もいるが何か独特なクセがあって読みにくい字の先生が多い。怪我は軽く三日で治る程度であったが、たまに怪我すると本当に健康の有難さを実感する。


テニススクールのコーチがサービスのpronationの事を言うようになった。電子辞書でpronationと探しても出てこないのである。pronationとは前腕を内側に向ける動作のことである。何もサービスだけでなくとも、フォアハンドストロークではpronationは必要である。というのは、グランドストロークでは、多かれ少なかれ順回転をかけなければならないからである。というのは、フラットで速い球を打つとオーバーしてしまいやすい。しかしボールに順回転(トップスピン、ドライブ)をかけると、ボールは放物線を描かず、速い球でも相手のコートに入ってから空気の抵抗によって、ストンと落ちて、コートに入ってくれるからである。グランドストロークでは速い球を打たなければならないが、速い球だとオーバーしてしまう。この相反する矛盾はボールにドライブをかけることによって、解決できる。私はゴルフは、ほとんど知らないが、ドライブのかかったボールはギューンと一直線に空に飛んでいってストンと落ちる。ゴルフの出来る人は気持ちがいいだろう。テニスと同じである。

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ドラゴン危機一髪

2009-12-16 19:27:04 | 武道・スポーツ
ドラゴン危機一髪のラストで悪の頭と一騎打ちするシーンがある。私は、あの決闘での悪のボスも好きである。彼は、弱い悪人ではなく、武術を身につけている強い悪人という設定である。手下が全員やられてしまうのを見せつけられ、そしてブルース・リーの超人的な強さも知っている。たった一人になっても、彼は逃げようとせず、ブルース・リーと戦う覚悟を決める。逃げようとする弱気さは全く無い。たとえ悪人であっても、武術家としての、また男としての誇りのため。たとえどんな極悪人でも、戦わなくてはならない時には戦う、という点が好きである。

「暴力にもなかなかどうして至上の美がある。
ただ男対男であること。
彼が孤独であること。
人間の発明によるいっさいの卑劣な武器を使わぬこと。
これらの条件のもとに、この美は厳しく成立する」
(ジャック・ロンドン)

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博士号2

2009-12-15 03:11:00 | 医学・病気
さて博士号なるものであるが私は全く興味がない。そもそも論文を認めて博士号を認める権限は教授にあるのである。だから、内容のない論文でも教授が認めれば、それは立派な博士号となるのである。逆に教授に性格的に嫌われていると、内容のある論文でも博士号と認めてもらえない。そこから当然、教授に対するゴマすりが起こる傾向が出てくる。何科の医者でも博士号は公衆衛生学で取る人が多い。何かの集団と何かの集団を較べてみれば、大抵、ほとんどの疾患に関して何かの違いが統計で出てくる。その原因を書けば論文一丁上がりである。単に数字をいじっているに過ぎない。公衆衛生でなくとも自分の専門科でも、やはり統計的な比較の論文が多い。そもそも教授にしても大した論文が書けない人は多い。教授は権力の座につきたいと思っている野心家が多い。オペなどの臨床の能力はある人は多い。しかし本当に研究肌の人は、研究室で黙々と研究に打ち込むのが好きな性格だから、人を取り纏めたりする能力はないし、権力の座につきたいともさほど思っていない。手塚治虫の博士号も、単に顕微鏡を見てタニシの精子の絵を描いただけに過ぎない。それでも教授がO.K.と言えば立派な博士号となる。今では論文が本当に価値のあるものであるかどうかは、論文が引用される回数がその指標となっている。価値のある論文だったら、よく引用され利用されるのは明らかである。ほとんどの医者は博士号を取るが、これはやはり開業した時に額縁に入れて自分の能力を誇るためである。そして、博士号を持っている医者は名医だと思うから、患者をひきつける医院の経営のためもある。これは前からわかっていた事であるが、皆かやる以上、皆が持っているものを持ってないと引け目を感じてしまう。さらに今は医者が自分の宣伝をしてよくなったので、なおさらである。
研修医の時、エッセイの「外科医オーベン」で書いた先生が言っていたのだが、東大では論文の入っているフロッピーは、絶対、肌身離さないということだ。なぜかというと、フロッピーを置いておくと、誰かに盗まれて発表されてしまうらしい。論文は誰が最初に書いたか、という時間の問題である。私は、本当にそんな事があるのかと信じられなかった。第一、論文を盗んで自分の論文として発表した人は、論文を書いた人に、ぶん殴られると思うのだか。しかし、先生は本当にそう言ったのである。

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パスポート

2009-12-14 18:19:43 | Weblog
パスポートに必要なので鎌倉の市役所に戸籍謄本をとりに行く。カーナビを使ったら鎌倉に出るいい近道が見つかった。これからは夏はあの道で海に出よう。パスポートの申請は本厚木のサティーの七階だった。ので、すぐに本厚木に行った。父親の誕生日は勿論、知らない。父親は千葉の木更津で出生とあった。サティーでは愛光病院の患者の絵の展覧があった。ちなみに去年の12月16日に書いたが、愛光病院の院長の竹内和夫の博士号は、他人の代筆である。私は精神科に患者として、あるクリニックにかかっていたが、代筆した先生本人から直接、聞いたのである。また聞きではない。私はいいかげんな事など書かない。その先生は、はっきりと「竹内和夫君は僕の後輩で、彼のハンチントン舞踏病をテーマにした博士号の論文は僕が代筆してあげた」とはっきり言ったのである。医者のかばい合いで言わないだろうと思ったのだろうが、私は根性の腐ったヤツの事は堂々とばらす。その後の去年の12月20日に書いた清川遠寿病院の事も事実である。ちゃんと証拠はある。名誉毀損で訴える事など出来まい。事実の発表は名誉毀損とはなり得ない。訴えれば、わざわざ自分から世間に己の恥を知らしめるようなものである。むしろ、相手の方に問題があるんだから、厚生省は、その病院に注意勧告すべきである。

ちなみに、ふと思い出したのだが、高校三年の時、学校で将来の事を話す時があった。あるヤツは、「働くとは、傍を楽にすることだと思う」と言ったヤツがいた。私は何て、あまちゃん、なんだろうと思った。それはボランティアである。ボランティアはボランティアとして立派である。私は尊敬する。しかし、私は働くという事は、契約だと思っている。賃金を貰う対価として、雇い主の要求する労働をする事が働くことだと思っている。美輪明宏氏は、給料は我慢料だと言った。確かに、厳しい点もあるだろう。しかし私は、雇用者と被雇用者は対等だと思っている。自分の仕事を自分の能力の範囲で精一杯、誠実にしたのなら、堂々と給料を請求する権利があると思う。被雇用者は奴隷ではない。

ちなみに、うちのクラスでは、高校卒業する前に、あるグループが真面目なグループをリンチした。理由は知らない。気に食わない、という感情でやったのだろう。リンチしたヤツも馬鹿である。学部に行かない生徒なら、別れの無責任リンチで済むだろうが、これからも大学部で四年間一緒に過ごすのである。いったい何を考えてるというのか?リンチされたヤツがおとなしく黙っていると思うのか。一人が殴られて失神して救急車が呼ばれて大事になった。その後、担任の先生が、クラスの生徒を集めて、その事件について話し合いをした。驚いたことに、というより、あきれた事にリンチしたヤツが何やら偉そうな事を堂々と言っているのがあきれた。こいつら白痴じゃないか、と思った。ついに先生が切れて怒り狂った。人をただでぶん殴れると思うなよ。少なくとも、
「浅野浩二をただでぶん殴れると思うなよ。高くつくぜ」

親に言わせると私のような人間は素直でないらしい。

「パパ、ママ、こんな私でゴメンね」

・・・

2014年4月16日に書いた、聖マリアンナの精神科、指定医の不正について、具体的に書きます。

まず、端的に書くと。
清川遠寿病院の常勤医だった、杉村共栄医師が、一人で、ある小児精神病の患者Aを、入院した時から、担当医となって、同医師が、診断、し、治療薬、治療方針、を決め、退院まで、一人で担当しました。
御園生篤志医師は、その時、精神保健指定医の、国家資格を取るために、厚生省に、8症例のケースレポートを提出しました。しかし、御園生篤志医師の、提出した、レポートのうち、小児のレポートは、杉村共栄医師が、一人で担当し診療した、患者Aの、症例を、杉村共栄医師が、レポートとして、まとめて、書いたものです。御園生篤志医師は、患者Aの診療に、全く関わっていません。関わっていませんから、レポートも、自分では、書けません。その時、杉村共栄医師は、すでに、精神保健指定医の資格を取っていました。ですから、レポートの書き方のコツも、わかっているのです。精神保健指定医のレポートは、厳格なもので、正しく書かないと、レポートを厚生省に、提出しても、厚生省は、OKにしてくれません。というより。正確に言うと。レポートの書き方、が難しい、のではなく、通るのに、いい症例であることが、重要なのです。暴れて、入院したけれども、治療によって、症状が改善していき、通院治療しても、いいほどまでに、症状が改善し、そして、退院した、という症例が、厚生省に提出して、通る症例なのです。入院期間は、問題ではなく、症状が改善して、退院した症例なら、入院期間が、一ヶ月でも、かまわないのです。そして、増田直樹院長は、それらのことを、全て知っているうえで、平気で、そのレポートを、御園生篤志医師が担当して、そして書いたレポートと、認めて、サインしたのです。これが、不正でなくて、何でしょうか。

これを、書いていて、思いついたことがありがます。ケースレポートの8症例のうち、措置入院、と、小児精神病、と、器質性精神疾患、の3つの症例、で、通りやいすレポートに出来るような、いい症例は、なかなか、見つかりにくいのです。
清川遠寿病院は、神奈川県の、はずれにあり、なかなか、医師が集まりにくいのです。
院長の増田直樹医師は、慈恵医大出で、常勤医は、慈恵医大の医師が、ほとんどです。しかし、聖マリアンナ出の医師も、半数くらい、いるのです。これは、慈恵医大の、精神科教授だった長谷川和夫、教授が、聖マリアンナの精神科の教授になってから、聖マリアンナの精神科は、慈恵医大の精神科の傘下に入った、ということを、この耳で、慈恵医大の医師から、聞きました。全ての慈恵医大系の病院で、そうなのか、その真偽は、分かりません。しかし、少なくとも、清川遠寿病院が、聖マリアンナの精神科と、つながりを持っていることは、間違いありません。私が勤めていた時は、半分近くも、聖マリアンナの、医師が来ていたのですから。もちろん、夜の当直のアルバイトも、慈恵医大か、聖マリアンナの医師です。
ならば、精神保健指定医に通る、いい症例を、やる、ということを、聖マリアンナの精神科に、言って、聖マリアンナの医師を、集めている、ことは、十分、考えられます。指定医のレポートが欲しい医師を、呼んでも、その医師、本人が、指導医の指導の元で、ちゃんと、患者の診療に当たって、本人が、レポートを書くのであれば、問題は、ありません。
私が見た、不正は、一度だけですが、あそこまで、ひどい不正を、平気でやっているのなら、他にも、何回も、不正をやっている、ことは、可能性として、十分、考えられます。つまり、余罪です。一人に対する方針は、万人に対する方針です。聖マリアンナの精神科の教授に、指定医にしてやるから、二年くらい勤務してくれる常勤医を送ってくれ、という、取り引きをしている、のでしょう。これは、病院の医者集めの構造的なものです。今でも、行われている可能性は、十分、あります。
万引きをして、捕まった人は、「ほかで万引きをやったことは、一度もありません。これが初めてです」と言うのは、当然です。

精神保健指定医の資格を取るという条件で、病院に就職した、私には、指定医を取らせたくない態度だったのも、納得できます。私は、病院の医師の数を増やして、病院の点数を上げる目的のためだけに利用された採用であり、増田直樹院長は、聖マリアンナの精神科との、つながりを、強めることしか、考えていない、ことも、十分に推測できます。

なお、また、旧館の5病棟の、ベテラン婦長が、「私たち(看護婦)は、みんな、院長にだまされて、採用されたのよ」と言ったことも、間違いない、事実として、つけ加えておきます。どういう事でだまされたのかは、知りませんが、採用でだまされた、というのなら、それは、待遇面や、勤務時間などでしょう。

さらに、嘉村という、院長と同じ慈恵医大出の医師がいました。彼は、年齢も、院長に近く、院長と腹蔵なく、何でも、話し合える間柄でした。しかし、事情は、知りませんが、嘉村医師は、院長と、激しい口論をして、ケンカ別れして、病院を辞めていきました。母校が同じで、医局も同じで、親しい間柄なのに、ケンカ別れして、辞めていく、ということは、普通は、ありえないことです。よほど、院長は、ひどいことをしたのでしょう。

私が見ていても、院長の人格の、ひどさは、目に余りました。

なぜ、私が、この不正の事実を知ったか、の、経緯も書いておきます。
私は、余所者なので、全く相手にされず、まさに傍若無人(かたわらに人なきが如し)であり、飲み会も、一度も、誘われず、仲間外れ、なので、院長も、慈恵医大や聖マリアンナの常勤医も、私を雑役夫と見ていて、相手にもしませんでした。ですから、医局会議の時も、私の存在など、いないも同然の感覚ですから、御園生篤志医師は、私の存在など、頭にありませんから、増田直樹院長も、常勤医もいる時に、口が軽くなって、こう言ったのです。
「精神保健指定医の小児のレポートは、杉村共栄先生が担当した患者の症例を、杉村先生に、書いてもらった」
と。増田直樹院長は私を見ると、ヘラヘラと誤魔化し笑いをしました。院長は、陰で、もっともらしい理屈を私に偉そうに、説教し続けたのに、陰では、こんな不正を知りながら、御園生篤志医師の、小児のレポートには、堂々とサインをしていたのです。私は、怒り心頭に達しました。ぶん殴りたい気持ちを必死で我慢しました。この病院で勤務した三年間は、一体、何だったのでしょうか。時間を返して欲しい。最初から精神保健指定医の資格を、取らせないと、わかっていたのなら、私も、院長との、共同診療で、必死に、書いていた、ケースレポートを書く時間を、小説を書く時間に当てられました。これは、全くの事実です。

これは、御園生篤志医師の小児のレポートとして提出した、患者Aのカルテに、彼の病状記載が、全くないことで、証明できます。しかし、カルテの保存期間は、医師法第24条第二項で、5年間と決められているので、もう5年、経っていますので、厚生労働省が調べても、病院は、不正隠蔽のため、カルテは、処分しているでしょう。また、厚生労働省の方でも、提出した、レポートも、通ったら、いつまでも、保管しておくとは、考えられません。大学入試試験と同じで、レポートは、合否を決めるのが目的ですから、合否が決まったら、処分するでしょう。ただ、間違いない事実だけは、書いておきます。

黙認は悪を助長します。ので、あえて、紛れもない「事実」を書きました。

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ハイジャック

2009-12-13 19:55:48 | Weblog
テニススクールにレッスンの電話をしたら今日は定員一杯で出来なかった。それで、ふと思いついて旅行代理店に行ってハワイに行くことに決めた。
女の店員「いつ出発の予定ですか?」
私   「明日か明後日」
女の店員「何日ですか?」
私   「4日くらい。パスポート必要なんですよね」
女の店員「パスポート取るのに10日くらいかかります」
男の店員「一週間で取れますよ」
私はもう乗りかかった船じゃなく飛行機なので一月に行く事にした。
初めての海外旅行である。湘南といえども冬は寒い。それで暖かい所に行こうと思ったのである。沖縄に行った時は、行く前に徹底的に沖縄の事を調べてから行ったので沖縄に行っても単にその確認に過ぎなかった。別に沖縄が好きなのではない。親が家を売りとばして沖縄に行ってしまったからである。単に楽しむためだけではない。何か行動すると小説のヒントが思いつくからだ。
国内では、割と色々な所に行ったが、普通の人よりはずっと少ないだろう。飛行機が離陸する時の主翼がバサバサ揺れる感じが私は好きである。ハイジャックとか起こってくれないかなー、などとも本気で思う。あるいは飛行機が故障して非常事態になってくれないかなー、などとも本気で思っているのは私だけだろうか。しかし私が死ぬぶんには構わないが、命の惜しい人を巻き添えにしてしまっては悪い。しかし、今はまだまだ書きたい小説が無限にあるので死にたくはない。
それにしてもハイジャックなどというものが今まで成功してきたのが私には不思議でならない。ピストルを突きつけられると金玉縮んでしまう乗客しかいないのか。別に英雄気取りでなくとも、人質を取るなどという人道的な方法を選ぶこと自体、ハイジャック犯は生命の尊さを知っている。それを逆手にとっているのだ。はたしてハイジャック犯に人をためらいなく殺す度胸があるだろうか。もしマシンガンだったら敵わないがマシンガンはハイジャックの武器として適当でない。ライフルも。となるとピストルしかない。急所にカバンを当てて、隙を見て飛びかかる男にハイジャック犯は心臓や頭を正確に打ち抜く技術と度胸があるだろうか。急所に当たらなければハイジャック犯からピストルを奪って腕を打ち抜いて、一人を逆に人質にしてしまえば、いいと思うのだが。そもそも武器というものは、将棋と同じで相手に奪われたら、逆に相手に責められる武器になってしまう。人を殺す気、自分は死ぬ気、の覚悟がなくてはハイジャックは成功しない。そういう点、空手家は徒手空拳で、自分の手足が武器だから安心である。いくらボディーチェックしてもダメである。ボディーそのものが凶器なのだから。という事でハイジャックが起こらなかったら私がハイジャックしてやろうか、と思ったりもする。ので一月にハワイに行く人は気をつけて下さい。しかし私は何の目的でハイジャックするのだろうか。よく考えてみたらハイジャックする目的がない。それより私は、機内で急病人が出て、スチュワーデスが、「誰かこの中にお医者様はいませんかー」と言われる事態が起こった方が怖い。私は外科手術など出来ないからである。それにしても私はスチュワーデスには劣情を感じない。バスガイドになら劣情を感じるのだが。

私の高校では、池に生徒をふざけて落す習慣があった。寮生なら(寮生でもよくないが)まだしも通学生では、ちょっと問題である。ある時、一人の真面目な通学生が放課後、池に落されることになった。彼はみなにとりまかれた時、隠し持っていたカッターを抜いた。しかし彼はそれを振り回せなかった。人を切ったら大変だからである。棒やヌンチャクなら、よかっただろう。武器というものは、その時の状況と、自分の覚悟の度合いで、それに相応しい物を選ばねばならない。

ちなみにヌンチャクには、こういう注意が書かれてある。
「ヌンチャクは護身の道具であり絶対に攻撃に使ってはならない。もしこの禁を破れば他人を傷つけ己を滅ぼす」

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ブラックジャック

2009-12-12 01:33:55 | 医学・病気
手塚治虫は自分が医者だけあって、ブラックジャックは、かなり医学的に正確で専門的である。学生の時、アパートのゴミ箱にブラックジャックが、まとめて捨てられてあったので、勿体ないので拾った。アパートに住んでいた医学生が、卒業して、引越しする時、捨てていったのであろう。薬の名前や病名にラインマーカーで、かなり印がつけられていた。医学の勉強の参考にしたのだろう。かく言う私もブラックジャックは、大変参考になった。漫画として絵で描かれているから分かりやすいのである。ブラックジャックは、天才外科医だが医師免許を持たず、患者から法外な金をふんだくる。手塚治虫のこの意図は言わずともわかる。天才外科医で、しかも善良な人格としてしまうと、白々しく、作者としても恥ずかしいだろうし、普通になりすぎてしまうからである。ストーリーを作るには、問題児がいて、問題を起こすから、お話が作れるのである。それと、患者に請求する金額が法外なのも、読者を驚かせ、作品のスケールを大きくする効果がある。だいたい大学病院の先生達も、ブラックジャックやスーパードクターKなどは、かなりの人が読んでいるようだった。読んでいる先生が、半分くらいのような感じだった。私もブラックジャックの話のほとんどは好きである。患者に請求する金が法外なのも、それだけ人の命というものは、金では買えないほど大切なものである、という手塚治虫の主張だろう。私は手塚治虫の漫画では、「海のトリトン」と「ブラックジャック」だけが好きである。他の作品、「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「火の鳥」「ワンダー3」「バンパイア」などは、子供の頃は、面白く読んだが、大人になってからは再読する気にはならない。だが、「ブラックジャック」と「海のトリトン」は大人になっても好きである。特に私は、「海のトリトン」が一番、好きである。あれは実にロマンチックである。

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