城郭 長谷川博美 基本記録

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驚愕! 明智光秀と木俣土佐守守勝 この元主従の2つの天守

2021-02-09 09:16:00 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック
一般様
湖北出身の脇坂安治は明智光秀一時従軍し
て丹波黒井城攻めで活躍したとの事、明智
が滅亡後湖北の連中の地縁を頼って秀吉の
陣栄に参加してやがて賤ケ岳7本槍として
活躍できたと聞いてます。しかし明智と
脇坂を結ぶ地理的な遠さを感じてしまいます。

長谷川
明智は織田の外様勢力です。虎御前山城内の
織田諸将の陣営には加えてもらえませんしか
し一部の伝承には明智は東浅井郡湖北町山脇
山に陣を取ったとされています。実は山脇山
と脇坂屋敷は約一キロほどしか離れてません
明智山脇山布陣の時節に脇坂氏は明智に従軍
つまり雇用してもらったのだと推測されます。

一般
で山脇山明智光秀砦など無いと言うのが常識。

長谷川
陣城というものを見る能力のない人なは無いと
言います。しかし現実に山脇山城は存在します。
▼長谷川博美図


大河愛好家A
大河麒麟が来る最終回を見て完全に茫然と
しています。あまりにもあつけない最期だ

長谷川
私は本能寺の変の以前に突然明智光秀の
もとから去る菊丸と言う徳川と明智の間
を行き来する「岡村さん」と言う忍者の
演出を楽しみました。何しろ歴史上の中
では明智と徳川の間を行き来するの木俣
土佐守と言う徳川家康から密命を受けて
暗躍する人物は木俣氏に限られますから
ね!架空人物「菊丸」と言う形で消え失せ
る画像演出も大変秀逸で楽しませて頂いた。

芸能愛好家
岡村さんて芸能人として華がない様にも
思える、大河でも華のない、庶民として
全く目立たない謎の人物して登場してる。

長谷川
とんでもない過小評価です。岡村さんが
新人漫才師の頃此れを見た。審査委員で
作家の藤本義一氏が岡村君は数年に一度
しか出てこない特殊な光彩を放つ逸材で
ですと評価していた事にあります。人を
見る人間を洞察する事に特殊な能力を発揮
する人を慧眼ある人物と古来より言います。
要するに凡百の人が凡人と見た人が実は
非凡な才能を不思議に発揮する社会現象
はよく社会でも発生する事でもあります。
大河に菊丸を登場させた事は秀逸な演出。

一般者
ふうん~一般からみると全然解らないわ!

長谷川
明智光秀の坂本城は文献『兼己卿記』には
天守と小天守が記録されています。二基の
天守、大小天守という解釈もも出来ますね。
近江志賀郡の明智の戦績には2カ所の天守
構造を持つ山城も実は存在致します。勿論
藤堂高虎も名古屋城築城の際は大小天守を
設定している。

質問者
名築城家 藤堂高虎の出身は何処ですか?
彦根の城下町には伊賀町と言う地名もある。

長谷川
近江国 犬上郡 在士 藤堂村ですね。

質問者
近江国 犬上郡 徳川譜代 彦根藩 井伊家の家老は?

長谷川
 木俣土佐守守勝は近江彦根藩の家老で
傑物として名将としてよく知られてます。
またある時期木俣は徳川から離れて明智
光秀の小納戸役として、あの明智光秀に
仕官しておりました。小納戸役とは明智
光秀の書簡や文書類を管理保管する重要
な役目です。木俣は本能寺の変の折には
既に徳川家康に帰順して家康の伊賀越え
を案内して徳川の無事三河帰還を支えて
おります。

質問者
明智光秀は近江国犬上郡多賀の佐目出身
説や当地には城郭遺跡を長谷川先生及び
田畑喜弘氏の尽力により発見計測された。

長谷川
明智光秀=近江国犬上郡多賀佐目出身説『淡海温故録』
     ※坂本城を安土城以前に創築した名築城家

藤堂高虎=近江国犬上郡在士藤堂村 出身 豊臣方から
     徳川家康に臣従した徳川方の顧問的名築城家

木俣土佐=元明智光秀家臣 小納戸役
     近江犬上郡彦根藩井伊家家老
     ある時は明智にある時は徳川の監査官目付役

質問者
さて豊臣政権から徳川政権へと移行して伊賀の国の
伊賀上野城の城主、豊臣方の筒井伊賀守定次は徳川
方の藤堂高虎に伊賀上野城を明け渡しますがその時
の伊賀上野城譲渡の受け取りの際の徳川の監査役は
見届け役とは一体誰なのでしょうか?

長谷川
伊賀上野城の新城主は近江犬上郡在士出身の藤堂
高虎です。また伊賀上野城の譲渡を見届ける徳川
方の目付や監査役は木俣土佐守守勝がその役目を
担っております。つまり傑物木俣は明智の小納戸
役も経験し徳川に帰順してからも徳川雄藩井伊家
の目付役としても徳川家康から派遣された重要な
人物であり家康の目の役割の目付を担当していた
と言う高い評価を与えられた徳川家康政権の重要
な人物と言う事になります。彦根藩主井伊家江戸
から国元彦根に帰ったおりには井伊家は先ず木俣
屋敷に挨拶をしてから彦根城内に帰るしきたりが
江戸時代も長く続いております。木俣は表向きは
井伊家の家臣しかしその実力権限は徳川譜代歴代
の有力家臣にして大名級と言って過言でいない。

さて次に

以前の長谷川の投稿で
「日本贈答歴史のヤミ 
信長、明智の贈答品を即刻却下」で

この投稿で私は二次資料『淡海温故録』にある
近江国犬上郡佐目の明智光秀が武田勝頼に内通し
ていた事から織田信長に武田との策謀を疑われた
件を記述した。武田と明智が内通していたと言
う一見空想や荒唐無稽ともとれる内容の『淡海温
故録』の記述なのであるが?しかし

文献『信長公記』の西暦1580年の記録である
原文を引用するならば

『信長公記』 巻十二 天正八年

四月十五日、丹波より、惟任日向 、
御馬進上のところに、すなわち、
「 日向 に下さる 」の由にて、
御返しなされ侯。

◆と簡潔に記されている。この光秀の献納
した名馬は武田から明智に送られた木曽駒
や甲斐駒と推定すると武田から丹波の光秀
の所へと送られた名馬であつた可能性は全
くゼロとは言えないであろう。しかし信長
は光秀の献上した名馬を即刻、送り主の光秀
自身へと送り返す当時の武家社会の贈答の
常識の掟や儀礼に反する異様な行動を取って
いる事にある。献納された名馬を即刻返納
する信長の深意は未だに詳しく判明してい
ない。

▼何故か?徳川家に伝承された伝明智秀満の甲冑
 この兜の装飾はウサギの耳ではなく騎馬の耳。

◆彦根藩の傑物 木俣守勝と明智光秀との城郭共通根

木俣土佐守守勝は近江彦根藩の家老で
傑物として名将としてよく知られている。
木俣氏は三重の櫓がそびえる彦根城土佐
郭に平素は一城の如く住まいし、政務は
彦根城の西の丸の三重の櫓で政務を執っ
た事は彦根藩『井伊年譜』に記される。
▼彦根城 山崎郭模型 
▼彦根城 西の丸 三重櫓模型

藩主をさしおいて彦根城内に2箇所もの
天守級の櫓を構えていた人物とは徳川
家でも大名級と、目される木俣土佐守
守勝がその白眉といえる人傑と言える。
イエズス会の宣教師
『フロイス日本史』中の明智光秀評として
●「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
●「裏切りや密会を好む」
●「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略
を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習し
たと吹聴していた」
●「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
●「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」
「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な
器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に
贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜
ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好
や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう
心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、
一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らが
そうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、
それは本心からの涙に見えるほどであった」
●「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」
「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
●「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、
ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
等の光秀評が宣教師ルイス、フロイスが記している。

かつて明智光秀と木俣守勝は主従関係にあっ
た事は良く知られている。また木俣のかって
主君、明智光秀は文献『兼己卿記』に光秀の
居城坂本城に天守、小天守があった事実を記
録している。明智の坂本城は宣教師が日本で
は安土城に次いで二番目に立派な城と記録し
ており荘厳な天守閣であったと事が推定され
る。また木俣守勝は明智光秀の小納戸役をも
務めていた優秀な人物で彼の役目は明智光秀
の機密文書の保管係りでもあった事が判明し
ている。つまり明智の秘密を握り知る武将と
言えよう。さて明智が木俣ほどの人物人傑を
雇用していた事は流石と言わざるを得ない。
しかし木俣土佐守守勝はウッキペデイアを
以下の如く引用すると、明智光秀、本能寺
の変、徳川家康、井伊家では家康の君命に
より武田旧臣の連中を雇用する事に成功し
ている人物と言えよう。彦根藩が武田家と
由縁が深い事も、再考すべき事であろう。

以下はウッキペデイア木俣守勝より引用

守勝は幼い時から徳川家康に仕え、元亀
元年(1570年)に元服した。家族とのい
さかいから出奔して明智光秀に仕え、戦功
により50石を与えられて織田信長にも拝謁
を許された。後に徳川家に復帰、天正10年
(1582年)の伊賀越えでは地理に明るい
守勝が家康の三河国帰国を助けた。その
直後の天正壬午の乱では、滅亡した武田氏
旧臣の招聘を命じられ、成瀬正一らの案内
で甲斐国に入り、一条・山県・土屋・原の組
に属していた旧臣を招聘することに成功した。
徳川家康は彼らを井伊直政の傘下に組み入れて
「甲州同心衆」として再編し、守勝にはその
統率を命じた。これが縁で直政の寄騎になった
と考えられる(『寛政譜』井伊直政条には西郷
正友(正員)・椋原正直(政直)が同時に直政
に付けられたとされる)。こうした功績によっ
て2000石を与えられた。 その後、天正18年
(1590年)の関東仕置によって直政が上野国箕輪
に入ると、守勝は3000石を与えられた。この箕輪
時代に井伊家臣団は再編され、直政の寄騎であった
徳川家臣は井伊家臣へと転属されて「御付人」と
称されるようになる。その中でも守勝は筆頭として
位置づけられ、後に徳川御三家などに見られた付家老
の先駆的存在となる。関ヶ原の戦い後、近江国佐和山
を与えられた直政からは、長年の功労によって
「村雨の壺」が与えられた。 慶長7年(1602年)に井伊
直政が亡くなり、直継が跡を継ぐと、徳川家康から鈴木
重好とともに直継の補佐と佐和山城に代わる彦根城の
築城を命じられる。また、直継からも加増を受けて合わ
せて4000石を与えられた。ところが、慶長10年(1605年)
に病気がちの守勝に代わって鈴木重好が政務の中心となる
と、同輩の椋原正直や西郷重員(正員の子)らは重好父子
が不正を行っていると家康に告発した。守勝は重好父子の
弁護をしたものの、家康は重好を追放して守勝に政務を行
わせ、重好の息子である鈴木重辰や椋原正直・西郷重員ら
に和解の起請文を書かせて事態を収めた。重辰が井伊家に
留まれたのは、守勝が政務復帰の条件として重辰を許すこ
とを挙げたからだとされている(ただし、この騒動の詳し
い史料が守勝の子孫である木俣守貞の編纂した『木俣留』
であるため、守勝の対応に関しては作為が含まれている
可能性もある)。慶長13年(1608年)には改易された
筒井氏の伊賀上野城を主君・直継とともに受け取っている。
慶長15年(1610年)に守勝が病に倒れると、家康から薬を
贈られるなど懸命な治療が行われたものの、静養先の京都
で死去し、金戒光明寺に葬られた。 
コメント (1)
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