marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(694回) 生存することを支えられる方 全人類の救済(その8)

2020-08-31 18:43:16 | プロテスタント

◆話す側も、聞く側もそれを気にする人もいれば、まったく気にかけない人もいます。ですからこの世の様々な事柄の仲裁には第三者という人が必要になりましょう。しかし、ひとりひとりの心の問題についてはどうでしょうか。個人的な肉体の疲れなど、他人には分からないことから来る事柄についてはどうでしょうか。ここにキリスト者は、神がおられ、もっとそばにはイエス様がという方がおられる。今のこの時に何を教えようとされているのかという自分を見つめなおさせ支えてくださる第三者の方がおられることを知るのです。ささやかな試練の中でイエス様の話された言葉を思い出すとき霊的に高められて行く自分を発見し神様への感謝の気持ちが起こってくる時があるのがわかります。それは、天上への導きのための訓練だと思うことから生ずる気持ちかもしれませんし、又、肉の人から霊の人に生まれ変わって高められて行く試練ともいえる感謝の気持ちかもしれません。人の肉なる自然の良心、心情からの判断で信仰を解釈するのではなく、信仰から自分の良心を考えて見る必要があります。・・・続く 


世界のベストセラーを読む(693回) 自分の支えになっているものは何なのだろう 全人類の救済(その7)

2020-08-31 18:38:34 | プロテスタント

◆人という生き物はその自由ということにおいて、すべて自分の思いや考えが妨げられるとき他を排他し意見を通そうとするものです。その自己肯定が会話の中で否定されたと感じたときは、些細なことでも批判する自分がこころのどこかに湧いてきます。ある時は、思い込みで、もう一人の内なる冷静に自分を見つめる私が消えてしまうことがあります。忖度という言葉がありました。人と言うのは、話を聞く相手の心持ちの状態のレベルでも、まったく異なって話の内容を受け取ることもあります。ストレスを生じるということです。波長が合わないなどとも言いますが、人という生き物は非常にデリケートに出来ている。そこが先ほどの心の優位性を保つという生き物としてのその人の気質の傾向から相手を批判し、あるいは受け入れ、あるいは自分を責めたりする。そう思うのはわたしばかりではないという、何気ない言葉でもひどい言葉を言われたなど、いずれ人は自己優位性を保つために批判、あるいは評価する言葉には一喜一憂するものです。人の気質というものは自分では分からないものなのです。・・・続く 


世界のベストセラーを読む(692回) 「理解する」とはどうゆうことか 全人類の救済(その6)

2020-08-31 18:30:02 | プロテスタント

人が納得するということは、先に理解していたことや、経験や学習によって覚えていたことが、改めて学んだり学ばされた時、それが頭の中で繋がりができたとき「分かった」と確認できるものです。その中には体験して身についた言葉も含まれるでしょう。経験として学んだということもあるでしょう。ここで、まったく聞いたこともない外からの言葉に対して共感したり、反感するという気持ちが起こるのは何故なのでしょう。

しかし、神様は、永遠なる命を求める気持ちをすべての人に確かにお与えになりました。誰でもが、横を見ずにまっすぐ神様の声に聴く気持ちを誰にでもお与えになっているのです。一見そのつじつまのあわないように思われるイエス様の厳しい御言葉が、天上界、この地上界、そして地下の霊界世界というその各層からこの地上の我々に語られているので、罪深い我々には理解できないことがあるのではないかと思うようになりました。

◆「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われた、あのイスラエルの教師ニコデモでさえ、イエス様に「地上で起こっていることを話して分からなければ、どうして天上で起こっていることを話して分かるであろうか」と言われた程ですから、まして私たちは、ほとんどのことが見えていないのです。・・・続く


世界のベストセラーを読む(691回) 「異邦人」の満ちるまで 全人類の救済(その5)

2020-08-31 17:06:23 | プロテスタント

◆この国においても聖書と言う書物は宗教としての経典の分類のひとつであると理解し、それ以上、いつも誰にでも開かれているのですが、その内部に入らないし知ろうともしない、入ると抜け出せない大変な目に会う。触らぬ神に祟りなしと思われている方がまだ多くおられるのではないかと思います。さらに、自分の非が他人にあからさまになり、自己否定を促されるものだと思っておられる方がほとんどだからではないかと思われます。しかし、「我ならぬ我の現われ来て~」という歌詞の讃美歌がありますが、むしろ神が地上に私の命を与えて下さり本当の自分となって天に帰るまでの準備のためにある言葉であって、それはまったく逆の思いなのです。(復活するがゆえに肉体としての行為も心の状態の思いも潔くすべしと)。

◆「異邦人」とは言葉の宗教ともいわれるキリスト教が煎じ詰めると自分の言葉で自分が亡くなったらどうなるのだろうかなど見えないものを一度でも正しく自分の言葉で考えてみることが兎に角面倒くさい人間なのです。・・・続く


世界のベストセラーを読む(690回) 米谷ふみ子「過ぎ越しの祭」 全人類の救済(その4)

2020-08-31 15:00:12 | プロテスタント

◆そこで、思い出したのは、この米谷ふみ子という作家の書いた「過ぎ越の祭」という小説でした。これは第94回の芥川賞をもらっています。旦那さんが「ハリーとトント」という物語の作家でアメリカ系ユダヤ人です。小説の内容は、道子と言う主人公が自由の国、希望のアメリカに夢をもってわたりユダヤ人作家と結婚する。しかし、お子さんが障害をもって生まれ、夫婦中も順調でなくなってくる。普段の疲れに、旦那の親戚一同が夕方に集まり、ろうそくの灯のもとで聖書の輪読をしあい長々と行う“過ぎ越しの祭”につきあわされ、耐えられなくなって途中から夜の街に抜け出し、あぁ、すっきりしたというような内容です。

◆ いずれも「異邦人」というのは、天地創造のイエスの父なる神様を知らない人、正しく言えばその歴史性の中で生きて働いて人類を導かれた神、無論イエス様も、聞いたことはあるがそれらの先の理解が全くない、理解しようとしない、肉なる人であって内なる霊のレールに乗りきれない自然のままの人々と言えるかもしれません。・・・続く