marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

休息2:太陽が出てお天気がいいと良い気持ち・・・

2018-05-21 07:46:12 | 日記
  先おととい、は10034歩、おとといは9343歩だった。昨日(今日は一日遅れでお休みで配信は一日ずれている)は、7345歩だった。で、週の土曜、日曜を除く仕事での万歩計の数値。家につくと万歩計の動く携帯は外す。土、日以外の強制的なこのような体の動きは、残り1年くらい。今日で万歩計の徒歩数値を記載はやめよう。

 数日、朝方、早い時間に雨の音で目が覚める。これが二日続いた。大雨で僕のいるところは大丈夫だが、避難勧告が出された地域もあった。川の氾濫。僕のいるとことは、運河がそばを流れる少しの高台。全国のニュースで、災害があると地形により、本当に深刻に生活が脅かされた人々がいるのを思って気の毒に思う。
 
 僕のいるところ。少し歩くと運河の海にでる河口には海外からの大きな舟が時折、停泊しているが見える。風力発電の風車も見える。遠くには半島の山も。反対側、坂を登るとさらに遠くに山が見える。冬は寒いが、地形による災害は、ほとんどないように思う。天候は変わり安いように思うが、今朝は太陽が出て、一日、変わりないようだ。

 疲労度合いは、天候によっても無論、異なる。やはり睡眠が第一のようだ。今、は太陽がでている。毎朝のコーヒーを飲みながらニュースを見る。イギリス、ロイアルウエデイング、お相手のメーガンさんという方は、アフリカ系のルーツを持ち、結婚式には黒人のゴスペルも行われたとのニュース。離婚歴があるとのことで、日本の皇室どうのこうのと三面記事のひやかしのようなyoutubeも見られて、英国の歴史などを思い、この日本の国との違いは何なのかと考えたりした。

 数日、更新お休み。天気がよい日が数日、続くとのこと、それから少しずつ日が長くなってきて、天候がよくないと続けられない外のDIYを行う。庭の花々も季節柄、いろいろ咲いてきれい、当たり前のことなのだろうが、自然浄化で草木などの病気をまったく気にしていなかったが、それがあることに少し驚く。薬を撒いて、殆どの葉っぱの周囲に茶色の腐がついていたツツジに青々とした葉が沢山付いてきて赤や紫の花が咲いた。  



 とても、良い天気になって買い物に出かけ、あちこちがキラキラまぶしい、陽に当たりながらゆっくり歩いて、時折、青空をぼ~っと眺めていた。 

 これから、仕事である。・・・ 

休息:自分も自然の中のひとり・・・ 

2018-05-16 06:00:00 | 日記
 昨日は9124歩だった。疲れをとるのにサプリメントもいいけれど、やはり睡眠が第一と体感する。

 朝はまだ少し寒い。庭の草木が日に日に新芽が青々と吹き出した。花々もきれい。

 先週、お休みの午前中、お墓を掃除にいった。小さな(10mmにも満たない花びら)の青い花がたくさん咲いていた。これは「わすれな草」と教えていただいた。神様から花の名前を授けられたが、忘れっぽいその花は名前をすぐに忘れてしまう。それで、神様はそれで忘れないように「忘れ名草」とつけられた。忘れたという言葉は、そのままだから花は忘れないことをとても喜んだというお話。それ以来、誰からも覚えられるようになった。とても可憐な花である。目をこらさないと花弁の中まではよく見えない程の小さな花である。
 
 連休に田舎に山菜をとりに行った時、紫色の花がたくさん川辺に咲いていた。傘のような格好で小さな鱗のように見える花びらのフリフリがたくさん重なってついて並んでいた。それが「おどりこそう」というのを後で知った。見ると、それがあちこちに咲いていた。ああ、いい名前だなぁ、と僕は思った。フレンチかんかんという踊り子さんが、今にも舞台の上で一斉に脚を上げそうな、そんなイメージを持った。お天気のいい、緑の山の川の一隅に一面咲いている「踊り子草」、太陽に向かっての晴れ舞台。

 素敵な名前と言えば、「ひとりしずか」という花が庭に咲いた。脈のしっかり入った輝いている緑の葉の中央に白い小さな花びらをいくつもつけて一本すくっとその芯が立っている。緑の四つの葉を背景に凜としたその白いの芯がとても清楚に可憐に見える。木陰にたたずむ「一人静」というのは、とても素敵な名前だなぁ。

 無論、学名などはきちんとあるのだろうけれど、そういう名前を草花につけた人々の気持ちを思う。・・・ 

世界のベストセラーを読む(512回目)僕の宿題が一つ解け繋がった:『生きる者と死ぬ者』 

2018-05-15 06:42:59 | 日記
昨日は7535歩、歩数が少ないと疲労度もやはり違うな。庭に沢山のきれいな花々が咲き出した。
 
◆僕にとっては(生きている人にとってもと思うけれど)大切なことだと思っていることが、表題のカギ括弧。プロテスタント・キリスト教会で、覚えられる(唱えられる)「主の祈り」の中に、この言葉が出てくる。「生ける者と死ねる者を裁き給わん」。

 無論、イエスが語られた言葉が先なのだから、新約聖書のそちらによく聞くことが大切だ。聖書の中のイエスの言葉にも多くで出てくる(直截の言葉としてというより、その内容を含んで)この内容は、実は、これが実は、とても大切な要なのだと改めて思わされている。生ける者とは、死ねる者とは・・・?

 キリスト教というと、品行方正、清く正しく、美しく、というイメージが先立つ人が多いかこれは、裾野のことで、ここから入ると、逆にあまりに障害となることが多そうだ。神の前に生きる、神から離れ死ぬ、というのはどういうことか考えながら、聖書を読むと、いろいなイエスが語られた例え話も理解できてくるように思われる。実は、このことに神の言葉を伝えた人たちは自分のいのちを賭けた。 

◆例えば、有名な放蕩息子の話。ここで例えられるのは、放蕩息子を待つ父親は、神に例えられる。帰ってくるのは今日か、明日かと。帰って来た弟息子に、父親は「死んでいたのに生き返った」というような不思議な言葉を話す。

◆例えば、イエスが、会衆の前で、「ここには死なない者がいる」と話される。自分のことを言われているのかと初め僕はおもったのだが、イエスは同じ一つのことを言われて、繋がっていた。

◆通常、ぼくらは神に繋がることは困難である。そのつながりを神の独り子と言われるイエスが犠牲を払い中継ぎをされたということになる。
 
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 「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされた方を信ずる者は永遠の命を受け、またさばかれることはなく、死から命に移っているのである。
  ・・・死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今、すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」(ヨハネ福音書 5:24-25)
 「・・・わたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」(同 8:24)
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(同 8:51)  
 「・・・わたしを信ずる者はたとい死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(同 11:25-26)

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世界のベストセラーを読む(511回目)心と頭の訓練に基本に戻ろうと思った:『生きる者と死ぬ者』 

2018-05-11 07:06:10 | 日記
 今日の歩数は、見ると11353歩(これは携帯の万歩計のみ)だった。天気がよいと室内の仕事も気分がよい。天気がよいということは、気圧の関係かなと思ったりする。諸般、個人的にもあり、基本に戻ろうと思った。
 それは、全く、世によける、生活の糧を得るための手段であるお給料を頂くための仕事を提供していただいている会社という組織から解放された時の事を考えてのこと。というのは、しがらみをつくる要因は、まだこの世にあったからだ。無論、公に目に触れるものだから具体的には書かないが、誰でもこの世に”いのち”を与えられているのだから、自分の身(肉)に繋がる者(としての血縁関係)などのこと。時代は新しくなる。この地上から脱出する準備をして行かなくてはいけない。

◆この脱出とは、どういうもので、何処へ、そしてどのようにあったか、いまはどうであるか、そしてどうなって今のぼくらに継承されているかは、僕のこのブログの通奏低音のように流れて書いてきたつもりである。もちろん自分勝手な思い込みかもしれない。
(以上は、2日前の記事)

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 昨日は9135歩だった。 

◆世界のベストセラーとは、イエス・キリストに関する聖書のことである。今では、文字からの学習を卒業し(読むことを身につけと言っていい)生きている今という自分の肉にしみこませ、イエスに係わるその言葉と行為に対して、さらに使徒パウロの書簡などに深い読み方をして普段と変わらないが、新しい人間が出来てきているように感じてしまう。二人の弟子がエマオという町に落胆しながら帰途に、復活したキリストに遭う。しかし、気づかない。気づいたその途端、イエスの姿は見えなくなったという場面がとても好きである。限界のある人が限界のある言葉で認識した瞬間、霊のその方は見えなくなった、というふうに解釈する。今も、いつまでもそうなのだ。イエスを思う時、彼は目には見えないがいつもその人のそばに立たれている。

◆使徒パウロがその手紙の中で、物わかりの悪いガラテヤ人よ、と書いたように自分という”しがらみ”からは、自分で解放される手段は絶望と言っていいほど作り出すことができない。いつの時代も、なにがしかの、そして土台としての自分の肉体に影響されることは生き物として死なない限り抜け出せないからである。気休めとしての解放の手段はいくらでもある。それが文化を生んできたと言えるかもしれない。けれど、何事も死んだら(生きているこの肉体は)お仕舞いだろうと、ここでも堂々めぐりとなる。
 それでも、人というのは、自己肯定して生きて行く。そこに他人からは、何やかや言われる筋合いのものではないし、言葉ではっきり他に(舞台上で相手の聴衆、一人でも多数でも)言葉で話さなくては分からない(ここでは初対面の人という条件が入るが)と考えている。

◆人というのはその自己肯定に対して不思議な生き物である。否、原始的な生か死かの選択肢には、必ずその傾向を含むものなのだろうと思わせられる。思考的自由を求めて、他の肉を(他人:使徒パウロが聖書の中で神学的に使う言葉)排他的する思考が働いている。普段の人は、他人を排撃することで、元気がでるようになっているもののようだ。いくらでも僕はこういう人に会ってきた。失礼ながら、女性に多いように思う。僕は、魂を持つ(霊を神から与えられている神から与えられている)人に対しては、自分から非難の評価は決して決定しないようにしている。それは何故か、空に向かって唾を吐いているようにどうしても思ってしまうからだ。使徒パウロは、その人の真意はその人の霊以外に誰が知ることができよう、といった。

 今朝は、少し寒い。 これから仕事に向かう。  ・・・ 

世界のベストセラーを読む(510回目)連休が終わり仕事が始まった 小説『悪童日記』ふうに

2018-05-08 05:18:53 | 日記
 
 年齢を重ねると基礎代謝が落ちる。筋肉も衰える。骨や肉という骨格の他、内臓のケミカル的な働き、個々の機能も衰える。脳みそだけは急激な劣化を防ぎたい。
◆僕は、会社勤めリタイア間近かにおいて敢えて職場の肉体労働を選んだ。だから、毎日、8000歩近くは動いている。これは携帯電話の万歩計。だから実際は少しそれより多いと思う。それによって、肉体の何処が不調となってくるか知ることが出来る。できるだけ体力を維持しようとチェックしている。ここ最近、筋力が衰えた、今までと違い体のバランスを崩す時がある。お休みは土曜日と日曜日。
◆僕は食べ物の食材は、土曜日のまとめ買いになる。栄養には気をつける。年をとって栄養不足になることを知って肉も食べることが必要ということを知った。一週間に一度は焼き肉を食べる。焼いてタレに付けご飯に載せるだけだ。魚も食べる。焼いたら食べられるのがいいい。できるだけ、高熱を使いたくない、というか面倒くさい。おさしみはそのまま、食べられるが少し値段が高い。これを食べるのは殆ど無い。週の内、バナナとリンゴ、それにカルシウムと鉄が多いと書いてある牛乳でミキサーし2~3日にわって飲む。おいしい。コーヒーは毎朝、起きると頭の目覚めに必ず飲む。
◆日曜は、礼拝に行く。イエス・キリストのからだである共同体の確認と体を律するリズムをつくるため。大切な役目を仰せつかっているが、これもある訓練のため。礼拝後は、来られないおひとり住まいの高齢のお宅に立ち寄り週報(礼拝のプログラム)を届ける。戦時中も教会を家族で守って来られた最後の方だ。私に何かあったら教会に連絡して下さい、と言われている。

 これが、僕の一週間である。

◆追記、バイオリズムが変わってきている。レム・ノンレム睡眠の時間帯がずれてきたように思う。眠りが浅くなると目が覚めてしまう。課題の一つだけれど、自然体でいく。
◆時折、一度お逢いした事がある105歳で亡くなられた聖路加病院の日野原重明先生を思う。講演の中で、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッカーの『存在と時間』のお話をされていた。生きることは、いのちに与えられた時間を大切に生きることだ、と僕は総じて解釈した。一人ひとりは、何を求めて、何を目標に、どのようにしてこの人生を生き通すか、に掛かっていると、高齢者の一員に加わりつつ僕は、尚更、強く思わせられている。
         
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  『悪童日記』から

   ぼくらの学習教材は、お父さんの辞典と、このおばあちゃんの家の屋根裏部屋で見つけた聖書だ。
  教科として、正書法、作文、読本、暗算、算数、記憶の練習がある。
  辞典を使って、単語の綴りを覚えたり、意味を理解したりすることはもちろん、知らない単語や同意語、
  反意語も学ぶ。
   聖書は、朗読や、書き取りや、記憶の練習をするのに役立つ。そこでぼくらは、聖書のたくさんの頁を
  そらんじることができるほどに覚えてしまう。・・・・ (「ぼくらの学習」)

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