marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(425回目)寄り道その四:大正の文学 評論家佐古純一郎という人がいた③

2017-08-30 06:00:00 | 日記
 大正の文学と言えば、どこぞやで聞いた「白樺派」、これは人道主義をめざしたような運動でもあったようで、学校でも習ったことを鮮明に覚えている、有島武郎と武者小路実篤あたりの文章は、教科書には載りそうもないという感じがしてた。志賀直哉の「城之崎にて」は教科書にのったのをしっかり覚えている。窓から見える屋根の上の死んだ蜂と生きていてせわしく飛びかう蜂の表現がいいとか、どうとか・・・。評論家の小林秀雄も志賀直哉の表現の仕方を褒めていたとか、菊池寛はヒューマニズムたっぷり、「山椒魚」とか「恩讐の彼方に」とか、それから、いつかこれは僕が小学校の時と記憶しているが先生たちが「父帰る」の劇をしてくれたこと。芥川龍之介は「西方の人」という題でキリスト論を書いているのですねぇ(読んだことありませんが)。死んだ枕元には聖書のみが一冊あったということだ。この時期は、第一次大戦とか関東大震災とか、ソビエト革命など模範し、社会主義運動も盛んになりつつありその影響をも受けていると。

◆ 以下 「文学をどう読むか」佐古純一郎著 近代日本文学と倫理から 大正の文学のむすび から抜粋(アンダーラインは僕)
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 大正の文学、近代文学と倫理の問題は結局エゴイズムの問題に帰着することである。明治期に夏目漱石が真実に文学で追究した人間のエゴイズムの悲劇を無視しては、文学の場で倫理を問うていくことはできない。白樺派の文学や新現実派の文学も根本的にはその事と深い関わりをもっていたことであった。漱石はひとたび則天去私というような観念の世界に逃げ込んだのであるが、芥川がその問題の追究のなかで聖書とイエス・キリストの前にでてきたということは、私たちが対象の文学を考えてなによりも重要に考えられる事件なのである。この問題は昭和期に入って太宰治や椎名麟三に繋がってゆく大切な道筋であり、さらに今日のわたしたちの文学の場所でまことに切実な課題となってきていることがらなのである。明治・大正の文学を倫理的な関心のなかからこのように考えてきて、わたくしがはっきり言いえることは、私たちの社会文化は、人間の倫理をきずく力強い基盤を持っていないということであり、人間の倫理が真実に開かれてくるのは人間の歴史のただなかにさしこんでくるイエス・キリストとの福音の前での決断をとおしてであるというこことである
 *******************************************************・・・ 続く   

世界のベストセラーを読む(424回目)寄り道その三:明治の文学 評論家佐古純一郎という人がいた②

2017-08-29 06:37:33 | 日記
 夏目漱石の「こころ」を読んで感想文を書きなさいと宿題が出されたのは、高校2年の夏休みの時だったか。何もかもに言葉不足だった、おまけに経験などもないのに、宿題はなんとか済ませたものの正直、女性の三角関係で、先生が最後に自殺し主人公に手紙を託すというその内容に、なんだこりゃ・・・だった。これは、当時の作家が人のエゴイズムについての問題として今でも語られる。
 国語の教科書に掲載されて、紹介の佐古の本に取り上げられて記憶にある作家は、川端康成の「雪国」の有名な冒頭と「駅長さぁ~ん」と呼ぶ娘さんの声と列車の中の窓に写った向かいの娘の情景・・・うまいなぁ。寒い雪国の夜、駅に止まり開けた窓から入る冷気と、今までの沈黙を破る元気な若い女性の甲高い声・・・。視覚と皮膚感覚と聴覚と。
◆大人になってから気になったのは、温泉芸者の駒子に「この指が君を覚えていたよ」とかいう台詞・・・なんだこりゃ、で、当然ここまでは高校の教科書には掲載されない。(※実際の駒子さんについては別途、ブログに新聞記事の切り取りを持って「雪国」の文庫本に挟んでいたので掲載したいと思います。女優の十朱幸代さんが舞台劇で演じていたのを記憶する。)
◆「伊豆の踊り子」の冒頭は、あの林修先生も言ったけど、情景描写が本当にうまい。森鴎外は「舞姫」。これも現実話(つまり当時のドイツに留学した鴎外の私生活の裏事情)までは、高校では説明しない。あくまで高校での勉強は、文章表現についてのみ学ぶためなのであったのだろう。さて、ここから表題の 佐古純一郎 「文学をどう読むか」の中の「近代日本文学と倫理」から「明治の文学」の「むすび」からの抜粋。 
◆(アンダーラインは僕)******************************************
 ヨーロッパの近代文明の移入と近代的ヒューマニズムへの接触がわたしたちの明治の精神に近代的な自我の自覚を促したことは間違いの無いことであった。文学はなによりそのことを如実に物語っている。しかし、結局そこでは近代的な自我の確立というようなことはついにありえなかった。したがって、力強い個の倫理というものもつくりだされるわけにはゆかなかったのである。倫理の規範は教育勅語というような抽象的なそして観念的なかたちでしか示されていなかったので、もちろんそのような抽象的な観念が、文学の世界に人間像として具体的に形象化されるはずのものではない。
 人間を善悪美醜の観念にとらわれないで、あるがままにとらえようとした自然主義文学も、けっきょくは人間が絶望するという虚無のまえにしか人間を導いてくれなかったのであって、そこから力強い倫理などが生まれて来ようはずはなかった。
 このことをもう少し本質的な問題として考えてみると、人間における個の自覚は、神の前での自己の認識をとおしてのほかに成り立ちようがないことを如実に物語っているといえないだろうか。ヨーロッパの文明を受け入れながら、その文明の基盤をなしているキリスト教との関連をあまりに無造作に無視してしまったということ、そこにわたしたちの明治の文化の不毛性があったのである。ヨーロッパの文学が豊かに受け入れられながら、その影響はただ表面的な技術の部分にとどまって、どこにも主体的なかたちであらわれてこなかったことも、そういうところに問題がひそんでいたのである。
 神との真実の対決のないところに力強い人間の倫理が生まれてくるはずはない、ということをわたしたちの明治の文学はなによりもはっきりと示しているように思われる。そこでは人間関係がただ感覚的にしか追究されていない。現実がただ表面的にしか描かれないで魂の苦悩にまで表現が及んでいないのである。作家のなかに倫理的なモチーフがあまりに弱いからである。
 そのような明治の文学のなかに夏目漱石の文学を持っていることはせめてもの慰めであるといってよい。少なくともそこには主体的な個性の苦悩がある。〔・・・・〕「私の個人主義」そのような苦悩の中で漱石がつかんだものが自己本位という生き方であった。〔・・・・〕最後には「則天去私」というような観念的な人生観のなかに自己からの逃避を試みなければならなかった漱石を考えたとき、漱石における自我の自覚ということさえまことにその根拠は薄弱であったというほかはない。
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◆夏目漱石が今でも評価され続けていることは、この課題を今でもこの国の多くの人々が、自己の確立を模索しているということになるのだろうか・・・・ 続く   

 

世界のベストセラーを読む(423回目)寄り道その二:評論家 佐古純一郎という人がいた①

2017-08-28 06:00:00 | 日記
 「聖書を読んだ30人-夏目漱石から山本五十六まで」<鈴木範久著>(2015年5月1日初版 日本聖書協会)を信者の高齢のご婦人からいただいたことは先のとおりですが、それで(文芸)評論家佐古純一郎を読みたくなったのは、理由があります。ところで鈴木範久先生と言えば、立教大学の先生で「内村鑑三」の泰斗でありますが、本の内容は、無論読み易く一般向け、日本聖書協会の「SOWER」という雑誌?に連続で公開されたもののまとめのようです。名だたる人で「如何に生きるべきか」など一度たりとも考えたことのある歴史に名を残された方々は聖書を読んでいるということです。ですからあなたも、読まれることを推奨いたしますというのが、出版の主旨ということになります。しかし、それを読んでそれを生きるということは、難しいというのが、ここで佐古純一郎を持ち出した理由です。この難しいというところの解決が、キリスト教をベースにあらゆる者が人の言葉で解明しようと努めてきた欧米との相違になってくるのではないかと思います。
◆人は言葉で考えます。自分の言葉を持ち、自分の言葉で考えることが学習要領に取り上げられたとか。しかし、その考えの基本の真摯な言葉となるベースたるものをこの国に見つけるのは困難なように思われます。そこで、言葉の専門家であろう文学者(物書き)において、本来、欧米に於いては、イエスがこの地上に現れて神の言葉を伝えた生き方の議論が、その悪戦苦闘の言葉の戦いがあり、その定着されたもの(言葉)が、あらゆる学問の基本にもなっているようにも思われますが、日本にはそれがあるか否かを文学の中に考察してきたのが佐古純一郎だったようです。彼は、キリスト伝道者なのかという内容が見られるが、どうもそうではなく、何ら無から生じても言葉を生きるべき真摯な言葉を仕事柄追究していくとイエス・キリストにぶつかるというような物言いなのです。それで、仙台でのカトリック主催の講演に彼が呼ばれたということなのでしょう。
◆夏目漱石は、現在でも取り上げられますが、彼の「私の個人主義」(講談社学術文庫)を読んだ時は目から鱗でした。結局、「自我」の問題というのはこの国では何ら解決されていない・・・解決とは、結局、人というものはこういうものよ、というような自らのありようとその自覚を認識するその土台を持つこと、その一段高見に上っての自らの有り様を認識し、つまり過去を知り、今を知り、将来を決めることができるというその認識自体の基本となるベースを何に位置つけるのかということです。現代は無論、それは全世界的な視野で考えなければなりません。日本に真にイエスの言葉を伝道したいと願うのであれば、海外との均一化の過渡期となった、その時代、時代に言葉の専門家の格闘と挫折を学ばなければならないだろうと思う。海外の神学者だけではなく。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れなければいけない、新しいブドウ酒を古い革袋に入れては裂けてしまうとは、イエスの言葉ではあるが、古い革袋がどのようなものかも知らず、僕らはすぐ壊れてしまうプラスチックの器に入れようとしているのではないだろうか。(プラスチックは見た目は簡易だが物によって、太陽光線紫外線には長期にサラされるとすぐ破壊しもろくなる)
◆それで、近代日本文学の倫理と題して第二章で書かれている「明治の文学」、「大正の文学」、第三章で書かれる「昭和文学の問題」においてのまとめを特にキリスト教とのかかわりにおいて抜粋して掲載してみたい。取り上げられている物書きは以下の通り。
 明治の文学:幸田露伴と樋口一葉、北村透谷と島崎藤村、石川啄木
 大正の文学:有島武郎と武者小路実篤、菊地寛と芥川龍之介
 昭和の文学の問題:評論家 福田恆存 戦争下での文学については当然、規制がなされているので取り上げない。  
◆第四章 作家論 芥川龍之介、太宰治、椎名麟三                        ・・・続く  

世界のベストセラーを読む(422回目)寄り道その一:新しい時代の始まり、三浦朱門さんと佐古純一郎さんこと

2017-08-27 10:36:24 | 日記
 ここ数日のブログお休みは、親の介護のあれこれと、先週信者の方からこの5月に発刊されたばかりの本(「聖書を読んだ30人-夏目漱石から山本五十六まで 鈴木範久著<日本聖書協会>)をいただいて、それと合わせて本棚から探し出して評論家佐古純一郎の「文学をどう読むか」という文庫本を再読していたこと。無論、月から金の仕事有りで、少々・・・疲れ気味であった。それに、信者さんのお一人住まいの高齢者の方の体調が心配である。・・・という諸々の事情はさておいて、
◆三十数年前、僕が宮城県仙台市に住んでいたときに広瀬川たもとに建つ市民会館(現在はトークネットホール仙台とかになっている)で掲題、お二人の講演会があった。主催は、カトリック関係であったと思いますが詳細は忘却。そのとき、YBU(カトリック教会が経営)という語学に少し通っていたことがあってそのときの紹介だったか・・・。それで記憶に生々しいのは、開演前に受付後、だいぶ早めだったので周囲に人はいなかった時、神父さん(めがねをかけた背の高い外人さん、髪がシルバーで頭頂、髪は薄いが長くしており例の独特の白い丸襟を出して独特の長い黒衣であった)受付の様子を見に来られたとき、そこに三浦朱門さんが現れ、僕の前でいきなり一万円を財布から取り出し、「神父さん、取っとけよ」といいって、神父さんの手をつかみその一万円をわしづかみに握らせたのを目撃したのであった。神父さんは「とんでもない」と遠慮しようとしたのだが、朱門さんが「いいから、いいから」いってお金を握らせた腕を神父さんの懐に押しつけたのであった。
◆僕は、まだそのとき律儀なものと思い込んでキリスト教なるものを信じようとしていたので、いささかびっくりと同時に、作家の遠藤周作さんが三浦朱門さんや、北杜夫さんらの付き合いを「孤狸庵」なる雅号をもつ遠藤周作さんがそのエッセーで、面白おかしく書いていたので、いささか逸脱しているようなその行為を見て、孤狸庵閑話などのエッセーに書かれていることは本当なのねぇとおかしく少し気が楽になった思いがしたものだった。純文学の本は1960年代、きちんとハードカバーであって、それに装幀も結構お金をかけていた、そんな本を書かれる方が実際の日常は、何もかしこばらなくてもいいのよぅ~と、実際生活での現実のわたしはこうですと普段着姿のエッセーからのギャップは、やはり自分の言葉で、素直に自分の言葉でキリスト教を学んだ人の姿なんだなぁ~と妙に関心したものだった。
◆三浦朱門さんの奥さんは作家の曾野綾子さんだが、暑い夏の季節の電車の中での出会いは時折、今も何かの物語に挟まれていたかと思う。とても暑い夏、混んだ電車の中で窓を開けていて、そこに曾野綾子さんが座って彼女は髪を直すのだけれど窓から風で髪がなびいて何度もウザそうに彼女の顔に掛かってくる。混んだ列車の中で彼女の前に立っていた朱門さんが、そんな姿を見て、席替わってあげましょうかと言ったというのだ。・・・確かそんな話、(自分が涼しくなりたかっただけだろうと)考えると笑える。
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映画「沈黙-サイレンス」のことは、前に書かせていただいた。僕の感動は2場面、窪塚洋介なるキチジローが踏み絵を踏んでおろおろとその場面から去るところ、彼はふんどし一つで裸なのだ、その場を下向きにおろおろと小走りに走り去る場面。そして、やはり最後は、転びバテレンとなったロドリゴが、最後に亡くなって火葬されるときに、日本の妻を与えられていたが、日本に上陸して住んで村の長とみられるモキチ(彼も殉教する)の大切にしていた小さな木彫りの十字架をお棺の中のロドリゴの手に握らせていたことである。
◆イエスの父なる神は、我々人の思いを遙かに超えて全宇宙を支配されるという。今、時代は大きく変わりつつある。そして、この映画の暗示も。あれから禁教の時代、それでも最後の宣教師が日本に来ていた。2016年東京文京区などは、江戸時代の切支丹拘禁施設「切支丹屋敷」(小日向一丁目東遺跡)跡地の発掘調査に関し重大な発見をした。禁教下に来日し、正徳4年(1714年)同屋敷で獄死したローマ教皇特使のジョバンニ・バッティスタ・シドッチとみられる遺骨は発掘されたというのだ。あれから時代がかなりの時を経て地球西回りでアメリカ大陸から宣教師が来られイエスの言葉が日本に伝えられた。
◆イエスはこう言われている「世界の端まで福音が伝えられる、そして終わりがくる。」と ・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(421回目)いろいろな質問が湧いてくるがエバは自立した女性第一号なのか 〔創世記第3-4章〕

2017-08-24 21:46:59 | 日記
 ずっと小難しい書き方が続いているのをお許しを!
 旧約聖書の数ページにしかわたらないのだが第3章、第4章がやはりこの地上の人類のすべてのドラマが始まっていることをいろいろを思わされてしまう。
◆神の約束が反故され、神とかたちばかりの人となって、作られた誕生と成長のシステムを埋め込まれたのはいいいが、いずれ誕生したその時に神の霊を吹き込まれるが、その後、それは枯渇して息絶え、土に帰るということになる。
◆一応、プロテスタント・キリスト教では「罪」のことを「的外れ」と言われる。神の思いからの的外れなのであると。そこで、僕は、その「罪の根」は「神の霊からの断絶が生じていること」と定義した。神のかたちに創造したと言われるから、神の霊の余韻はあるが、肉としての人は、歳を重ね神の霊が枯渇していき人は地上の生涯を終えるのであると。無論、「罪を犯す」という行為にはいろいろの他の人への、あるいは、共同体の維持につまり隣人への自由へのすべての妨害を生じさせること、その他、細々とした禁止事項が含まれるがそれは、第一の神の霊の真っ当な受信を受けていないという事から生じる肉に対する自己規制なのであるということが言える。
◆この真っ当な霊とは聖霊ということになるのだが、新約聖書はヨハネ伝から読み始めてきて、初めの物語に、教師ニコデモとイエスの会話があり、それは地上で生じていること、つまり「霊のこと」なのであった。そして、イエスはニコデモに対して、イスラエルの教師でありながらこのようなことも分からないのかと叱責を受ける。地上のことを話しても分からなければ天上のことを話してどうしてわかり得ようかと・・・。つまり、その霊のために、人が罪を起こして、悪魔から誘惑、横やりが入り、神を思考する対象として考え始め、このときから人は神とその地位を同等に置こうとするあらぬ願望が湧くようになったといえるだろう。本来であれば神の霊にくるまり、対象としてまったくその中に有り、識別判断もなく生きていた人が、神を思考の出来る対象とし、同等に思考する神と同等のそのもに変わり始め神の断絶、そして横(アダム)との断絶も生じたということになったのである。従って、綾小路きみまろではないが、夫婦が努力が必要な時期が来るのである。その自覚は、天への帰還の自覚が始まるときの人生の曲がり角に・・・。
◆その罪を犯したが故に神と同等の立場に立とうとした人のきっかけが女の言う「蛇がだましたので食べてしまいました」(3:13)の言い訳であったわけであるから、そもそもの罪の始まりは、以降の人は命(エバ)が生じたと同時にその要因を誰でもが宿しているということになる。
◆それでも、神からの罰としての肉体の酷使、あるいは苦しみとなるとの神からのおおせとなったのであった。いずれ死んで土に帰るのだと。神と対等の位置に付こうとした女は地上で始めての女性自立第一号となった。
 「わたしは主によって男子を得た。」(4:1)と、この地上における肉における喜びの自己肯定、しかし、ここには「罪の自覚」などまったく見当たらないのだ。しかし、その悪のエッセンスは、次の世代にバトン・タッチする毎に永久に抜け出せないこととなったのである。
・・・ Ω