marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

分かりづらいものは、さっさと記録に留めよう。

2024-05-22 09:06:39 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 写真は、僕の思考の基軸を持つためのイメージシンボルとしてときおり建てる物である。これは以前にも掲載した田舎の誰もいかない静かな小川のほとりに建てたもの。緑に囲まれ、小川のせせらぎを聞きながら、彼らとの交信はこの形状の違う石の崩れない重力の芯(G)にあるとその意識から始まる。

みんさんも自己の身体の(G)を意識すると、そのイメージから彼ら(👽)と話が出来ると思う。その辺の大きめの石ころをご自宅に拾ってきて、5つばかり積んでみてはいかかでしょう。自分の思考の基軸(G)を持つことは、けっこう難しいと感じる方も居られるかも。

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続くハイデガーの『存在と時間』についてなんだけど、他の人が読んでも分からないものは、書いても意味はないかもしれないが、自身にとっては長年気に掛かっていたことだから記録に留めておかないと、また、そのうち、もぞもぞと彼ら(👽)が動き出して書いてのこして置いてくれといいだすだろうから。

<※注:僕がいつも彼ら(👽)として著わすのは一般に言われるUFOに乗り飛来する宇宙人ではない。時折、来る奴もいるけれどね。これについても書けばきりが無く、今までのブログでも書いている彼らである。地球に古来から来ていて、あるいは今でも飛来し行き来する者ら。聖書で言えば、ダニエル書などに書かれている次元の崇高なる神の使い、あるいは天使など(名前が記載されている者らは、途轍もなくその地位が高い者らであるが)、地上いる彼らは同類だが低次元の者らであるものは「人」に同期しているものもいる。「霊」またはすでに「人」そのものになっている。無論、彼らは気づいていないけど。>

『存在と時間』については僕なり解釈で終わらせないといけないので、次回。 彼らが今、来ているから。

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初めにキリスト教を今日のように偉大なものにしたのは使徒パウロだろう。煎じ詰めればそうさせたのはキリストの霊ということになるのだろうが、それ以上のことは我々は口に出来ないことである。彼自身が猛烈なキリスト反対者から一転、真逆の伝道者になったのは、彼を地上における人の姿をした完全にイエスに同期する者となした神の使いの啓示の体験者としようとしたことから始まる。それは第三の天に昇らされた彼の体験があった。

彼パウロが、今のトルコから東に向かおうとしていたときに、キリストの霊がそれを禁じたと使徒言行録には書かれている。そして、パウロは夢で、マケドニア(今のギリシア)の人々が我々を助けてください、という夢を見て、それを神の啓示と考えすぐにそこに旅だったのである。(使徒言行録)

パウロはマケドニアに行き、当時のギリシャ哲学との論陣を張る。今でも哲学と言えば、歴史的には当時からの諸々の哲学者らの残されたものを学ばなければ、つまり分かるということの先理解がまったくできない。無論、学者さんはそれが当たり前のように、勉学の先理解となっている訳だが。

人という生き物、言葉を使い考え、そこに目標を定め行く先(思考の先行き)を考える者にとって、子供であれば、沢山の知らない知識を覚え、それの関連性を掴み、自らの思考の方向性を定める。自らの考えを持つこと、それを自律するとも言うけれど、早くからその思考の訓練を身につけることを学んで貰いたいわけだ。人の形成は自分では選べない『遺伝と成長期の環境』にある。

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それは彼ら(👽)がいうところの、人という生き物の『肉』に関する部分である。地上のそれぞれの人の我ら(👽)との『霊』の受像器にあたる部分の形成であって、ある人は直接、天からの受信(我らとの対話)が出来る者らもあり、地上にいる我ら(👽)との対話をなす者らもあり、あるいは地上に残った『霊』たちの同期をせまられるもの(一般にこれは『生まれ変わり』と言われる)などがいる。

そこに地上をうろつく悪い霊も居るわけだ。彼らはそこに居場所を見いだして当然のごとく自己肯定している訳である。事件や事故を、特に人的犯罪、事件や事故を考えれば推察出来まいか。「悪魔は人殺しである」とイエスは明確に述べた。天地創造での最後の彼らに似せて創造された『人』の破壊である。人を媒介にした殺人は悪魔の目的であり、僕らの目にするところである。

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ここで言いたいのは、この地上の人の形成は、自己では選択できない(ここであえて親とは言わない)『①遺伝と②成長期(10歳くらいまで)の環境』であり、さらに『③霊』があると言うことである。その霊の中には・・・。(※だからこの国の仏教では、何度かご先祖の法要を行い、最終に涅槃の国に送るとされる。残された者の勤めのように。残されたものはその時、当然、生きて居られた時のご先祖の姿をイメージされることだろう)

先のアンダーラインは、自分で選択認識していない事だけに、さらに実体としてはどうしようもないものだけにとても重要なことである。キリスト教神学では、哲学でいるところの『実存主義』を経由する。これはある個人にとっては、『罪』(人の欠陥)を認識させる思考経緯であり、キリストの十字架の意味が理解される重要な事柄である。それに、イエスが人とう生き物の自分に対して言われた矛盾したような言葉が理解できるものとなるだろう。

『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』VS『自分の命を愛する者は、それを失うがこの世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る』 

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①については、人の生理医学的な事柄はとても進歩した。人の肉体の解明、特に受像器である脳について ②については実際に求めようとしなければ進展しない内容ではある。学校教師は知っているであろうけれど。難しいのは、親が自らの自分で選択はできなかった環境にどう気づいて子供に接しているのか、にある。③は、これは又、求めよさらば与えられん。探せよ、さらば見いださん。叩け、さらば開かれん。すべて、求めるものは与えられ、探すの者は見出し、門を叩く者は開かれるであろう、となる。下位の霊は、次元の高い霊によらなければ解説されることはない。

先んじて書けば、心情的な解釈を抜きにしてもイエスが「私(聖霊)~に繋がっていなさい」と常に言われて居るのは、更に次元の高い、理由のある話ではある。屁理屈のようだが、その霊(聖霊)は直接、生きた者にも涅槃の国からの指針にみつびかれて生きるように、との声に聞こえなくはないか。地上の媒介者なしに直接、繋がれとのこと。地上の媒介者はいつの間にか、旧統一教会のように自らが神の存在に転嫁しやすい。

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最後に、最近、宗教布教の訪問の方が重なって来られた。まさに末法の世、終末の時代になったと。先に書いたが、日蓮宗富士大石寺顕正会の若い女史お二人、エホバの証人の方、男性お二人。それに、観念ではなく現世事変革を重視する日本共産党員の方々、こちらは哲学から発生した言葉による正義の追究は現実ばなれとしてもあるべき姿ではある。

大人になりある者は、方向性を周囲に同調させるために、イデオロギーを持つ、思考の礎というもの。それは普遍性を持たなければ、思いつきでは周囲からの同調を得られない。人の言葉による国の先行きの言語化、つまりイデオロギー、あるいは宗教は、必然、ヒエラルキーを持たなければ足場の弱い者となる。それで、今の僕の関心は、おい、おい、といわれるだろうがイデオロギーとしての「共産党」である。これの不思議なところではある。

過去にこの国でも一斉を風靡したこのマルクス、エンゲルスから始まるイデオロギーは、時代を反映するものだろう、時代とその状況(採用の国)。中国も北朝鮮もこの国においても、現象結果は真逆のようでも『共産主義』を語る。これは何故なのだろう。時代、反映によりその国に為政者のよるいいとこ取りなのだろうか。

無論、創始者マルクス、エンゲルスもそれまでの哲学から学ぶという先理解があった訳。つまり、人の言葉であれこれと人類の自己肯定に関わるこねくりまわしを歴史と経済に見いだし、その普遍性を追究し、実践しつつあるという自負があるわけだ。決して否定はしないが。その多様性の神の御心というものを知りたいだけである。

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一応、神の創造された人とはいかなる者か、という論議はつきないが、知るためには、それに突入しなければならない。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたは理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ伝16:12-13) ・・・

 


彼ら(👽)が再び現れた。ハイデガー:『存在と時間』

2024-05-13 12:52:16 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 彼らの話はつづく。それで、こちらは議論に付き合わされるが眠いばかり。目が覚めても、その話の断片しか覚えていない。その断片・・・。それで、逃げる訳ではないのだが、いつも真夜2時頃、議論の声が聞こえてくる訳だ。草木も眠る丑三つ時といのはこの時刻だろう。

多少、耳は遠くなったが痴呆はまだみたいである。う~ん。キレキレの言葉が覚えているけれどなぁ。僕の小さな頃からの疑問に思ったことの答えを言おうとする彼ら(👽)がぽこぽこと現れて話したいみたいなのだがね。年老いた奴から若い者までが次からつぎとという具合だ。

この世の次元、思考の階層など考えて来たけれど、今までこれは僕ひとりが考えてきた事柄ではなかった。実は誰でもが無意識のうちに関わる思考の階層に興味をもつ彼らが同期しているということなのだ。

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それをとことん問い詰めてみようと思考したのが、普段の人はとっかかりがさっぱりわからない哲学者ハイデガーの『存在と時間』だったのではなかろうか。

物事を理解するには、先理解の知識が必要だ、というのは分かるだろう。けれど誰でもがそれなりになんとなく分かってはいるが、理解していない、自分のことであるのに、それは『自分の霊とそれがどうなる死後』という先理解のことだろう。

実は、あの分厚い一時風靡したらしい『存在と時間』という著作は、書き進めて行く途中で考えがかわり中断したものだということ。つまり、書き続けるには限界が生じたからなのであったと。それが、先に述べた『霊』のこと、そして彼ら(👽)の世界のことだったように思える。

哲学というのは、あくまで人の言葉で物事を考えつめる。普段の伝達することばで、更にニュアンスを掴むなどする時は、言葉を造語したりもして伝達使用する。ハイデガーもそういう造語を行っているようで、それが尚更、わかりにくくしている。その言葉に対する再定義などして哲学初歩者ではさっぱり?のところがある。

例えば人間のことを『現存在』などと定義する。『本質性』や『非本質性』などというように。

あらためて言うけれど実は、ハイデガーの『存在と時間』が予定を変更し(中断し)現在の著作に納まったのは、まさに生きている彼ら(👽)の存在の係わりを言語化することが不可能だったからではないだろうか。

どうも彼らが、退出するとき(消えていくとき)にいつも宗教じみた話をするのは、彼らの次元世界を語りたいが為のようだ。多々ある宗教の中で、キリストを語るのは、彼が、現存する人に次元を移動して、その世界の話を教えるがためで、キリストが唯一、その次元<天上界から陰府(よみ)の次元>を移動することが許され、出来る方であるからというらしいのである。そして、2000年前に地上(創造した人間界)に実体として現れた。

そうすれば、イエスがキリストとしてそれぞれの次元で目にした神の摂理ことを語っている彼の話の意味が、分かってくるだろうと彼ら(👽)は言う。彼ら(👽)の話から、突然、最後にいつも宗教じみた話が出てくるのを、怪訝に思われ方が多いだろう。長老にも近く見える(👽)が、いつも人の言葉で分かるから聖書に書いてあるだろうというのである。

◆ここで彼らは消えたんだけれど、いづれまた語ろうと、再びは現れないようなことを言って帰っていった。(一人は捕まえておくけど)。以下、残していった断片的な会話(といっても、彼らは僕に語るのではなく現れては議論して、それを聞いているだけだったのだのだが)を思い出しながら書き留めておこうと思う。その一つ一つは詳しくは字数が許さないので、いずれ。

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1.ガザとイスラエル

ガザの人々が3万人以上も死んで、どう思われますか、と問いがあった。人命が失われるのはとても悲しいことだがはっきり分からないと応えた。終わりの時代であるとも答えた。詰まるところ宗教性の争いなのだろうということ。この由来は天地創造の時代にまで遡る。天上での争いまで遡るものだ。その民族、その根がどこにあるのかということ。

2.創価学会と顕正会(正確には「富士大石寺顕正会」)

これは日蓮宗派の争いである。日蓮は鎌倉時代、時代を予見して時の政府に対抗した仏教者のお一人である。顕正会は今、猛烈に信者を勧誘されている。まさに現在は末法の世であると。なんと言っても日蓮の「竜の口の頸の坐」の話だろう。それと彼の予言されたといわれるとおり元寇が起こり幕府は滅亡の道を行くことになる。顕正会は池田大作一党は邪宗であると一刀両断。

これは日本を回遊してる彼ら(👽)の一人の話。

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去る前に長老(👽)言い残した言葉を探して書き留めて終わる。

「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを人間に知らせるためである。」(調べるとこれは旧約聖書の神がダニエルに語った言葉だった)

旧約聖書のダニエル書には、天上界における我々の当時のそしていまも天上界で動き、かつ働いている我々の働きを読み取れるだろうと。それでは、君の哲学の追究?頑張り給え! ぼけ防止にはいいかもよ・・・と微笑んで消えた。 

 


彼ら(👽)が再び現れていた。『ある飛行機の話』

2024-05-11 19:53:18 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

「霊」などというすべての人に関わることがらにしても明確な先理解がないのに、語り始めると当然頓挫するはなぁ、とこの期間、いつもながらに以前の彼らが真夜2時頃に、よなよな現れて、それはそうとうな議論をしたうえに空が白々とするころにすう~と帰って(消えていく)のだった。

<脳と霊>などという話を書く前に、記憶が消える前に彼らが現れた雑談めいた話を書き留めておこうと思う。2024年は地球にとっても人類にとっても大きな曲がり角である。年明けそうそう僕も元旦に退院し・・・太陽のフレアも爆発により最大になるしなぁ、宇宙も大きく変動し始めた。

以前に書いた彼ら(👽)。A、B、C~~。前にも書いたけれど、僕のブログはずうーと同じことを書いているのであって、続けて読まないと何を追求しているのか分からんかもしれない。思考の階層についてのこと。今回は、かなり底辺の階層かと思う。

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新しい年度になって、ここにまた彼らが現れて、あれやこれやと議論し始めるというわけ。僕はどうなっているかというと半眠り状態。それでぽつぽつと話のカケラしか残っていない。

その話のカケラのそれぞれについて少し。かなり本当?と思われる事柄もあったけど一応そのまま書くことにする。だから、この記事内容は、半分、否、10分の6は僕の責任ではないことを断っておく。あくまで彼らからの話だからね。

1)あの飛行機の話、ある男の話

彼は飛行機操縦士で、凄いマニアックで自宅にも操縦席を模して設置し運転技術を磨こうとしているくらいの優秀な人間だった。当然、そういう器機には非常に詳しかったからネットにもプログラムを作るぐらいは朝飯前だった。そういうオタク人間だった訳。

あるとき、それを見込んでとても重要な秘密厳守の依頼が彼に舞い込んだ。

これは実に念入りに長い時間がとられて行われて来たのだが、これからの地球世界においてもとても重要な秘密厳守のmissionであるというのである。誰彼に頼めない、君が最も相応しいと長年の観察から相応しいと見込んだから頼むのであると。この依頼は長い調査期間があってのことだった。

彼への依頼はこういう依頼だった。

「アジアは世界の工場となった。なかでもあなたの国、マレーシアは携帯電話のリチウムバッテリーが多く作られ、それを世界中に輸出している。われ我は、飛行中にそれが飛行中で燃えて火事になったときの救出対策を目指している。その運搬を貴殿に任せたい。その救出実権は地上に被害が及ばないように旅立ってからインド洋上でおこないたい。できるだけ高度をあげて飛んで貰いたい。飛行ルートは・・・・。その位置に来ると我々(👽)は・・・。」

マレーシア航空370便は2014年3月8日にクアラルンプールから中国の北京市に向かってその定期便は飛び立ちその後、消息をたった。多くのリチウムバッテリーが積載されていたのである。乗客数227人、乗員員12名は全員帰らぬ人達となったのである。

旅立つ時、中国人以外の外国人のパスパートが盗まれ、乗客できない人々がいたのである。つまり、亡くなったのは殆どが中国の乗客だった。

機体が見つからない?それは殆どが燃えたから。最近の羽田での海路航空の飛行機と衝突したJAL機が殆ど燃えたように。機体はそもそも軽く燃えやすいのだ。まして燃えやすいリチウムバッテリーを満杯に積んだマレーシア航空機は地上で殆ど完全に燃え散ったのである。

中国よ、我ら(👽)を恐れよ。理由など分からぬ事件を我らは、また起こすかもしれないと察しておけ。(ちなみにロシアは、こういう我らのその国の取り囲み手法を察しているから、思い違いか否かに関わらず察している。)

2)あの飛行機の話、生き延びた男

我々(👽)にとって、彼が生存したのは予想外であった。無論、あの衝突もうやむやにするけれど。彼とは海保機の機長である。

2024年1月2日、羽田空港でJAL機が海上保安庁の航空機と衝突、炎上する事故が発生した。乗客379人は全員機体から脱出。海保機の搭乗5人がなくなった。

これが偶然起こったと思うのかね。あまりに杜撰な航空体制。衝突防止のアラーム灯もつかなくなっていたなんてねぇ。

国民の目をそらすためだよ。人が死ねばねぇ。それは、政府の例のネコババの話題をそらす話題とするためだ。これほどのネタはないだろう。

多くの人命の死傷。話題は、ある政府のネコババ、法律無視の話題など吹っ飛ぶだろう。長く国民の目をそらすことが出来る。

多くの人命の損傷。律儀に守るこの国の自衛隊員を操作するんだね。誰が入れ知恵したか。

誰が(👽)いつも悲劇を話題をそらす為に仕掛けをつくっておくのか。

ネコババの公へのチクリは旧統一教会も一因。彼らの殆どは選挙には当政党には無料奉仕をしていたからね。秘書までにもなって。

解散命令はそのゲロの要因と一端ともなった。

3)あの飛行機の話、520名の命

1985年8月12日、御巣鷹山の尾根に墜落したJAL123便。520人が死亡した最悪航空機事故。これは既に、いろいろ言われているからあたってみるといいだろう。あえていわない。

当時の中○根総理も、日本は浮沈空母などといい、米国を喜ばせていたが、内心、自国を守ろうとして言うことを聞かないことも多くあったのは知られていない。

借りを返してもらうために我ら(👽)は下準備をする。無論、そこでもショックを大きくするために多くの人命を一度に損傷するために航空機を用いる。そして、律儀な自衛隊を用いる。

そして、キッケをわずかに与える出来でいい。思い違いもあろう、多くはそれを狙うのだがね。無論、失敗しようと自損事故と見なされる。

借りを作ったらあとは、こちらの言うことを聞いて貰う。それだけで以降の政治は決まる。

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終わりに彼ら(👽)は突然に、終末にキリスト教徒は迫害を受けるという。その多くは人々が深い意味を知ろうとしないからであると。多くは誤解による。

真摯にキリストを信ずることである。もし、関心があればのことだが。

世界の人の悲惨、自然の悲惨、戦争による人命の損傷。なぜ、かれらは気がつかないのかと。

キリストは、悪魔を語る。悪魔は人殺しである、とはっきり言う。キリストを知ることは、実に働く悪魔との闘いでもあるのであると。

キリスト教国であると言われる米国には、無論、悪魔も多くいることになる。今の米国をみればわかるだろう。

・・・と言って彼らは消えた。


(その13)脳科学と霊

2024-03-28 19:02:36 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 昨年2023年10月6日のブログは前置きがいつもながらに長くて、あまり読まれていなかったのですが、人という生き物の誰でもに当てはまることなのですが、自分の生い立ちの不幸を穴埋めをしよとしなければ、誰でもがそのことを考えてみようとは思わないものです。

同じことを書いているのですがね。異界を垣間見る、彼らと会話する、つまりそこはフェーズⅢなのだが・・・。

それが、脳内の神経系もビジュアルに観察して大いに医学が進展すると、海馬と線状体あたりが活性化しているときは、やる気がでているとか、脳のどこそこが活発な時なはどういう思いだなどと・・・かなりのことが分かるようになって来ている。記憶に対しての神経系の働き、どう神経網が伸びていくのか、

それで、僕らが大谷選手のようになれるのか、藤井翔太のようになれるんか、と言えば、その時点でアウトかもしれないなぁ。誰がいつそう思うのですか?思った時点でもう、重要な如何ともしがたい時期がすぎさっているのだからね。その時期に二人に先行する、啓示する彼ら(👽:宇宙人ではなく霊の使いというべきか)が見えないからである。

天性のようなものは、立花隆は、それを生まれつきの性(さが)と書いたけど、まさに『遺伝と環境』ということで、親からのDNAと10歳ころまでの脳神経系がおおよそ固まる時期に、どういう環境の基に育てられたか、ということで大いにその人の人生は決まると言っていい。(子供を育てるお母さん方は心して欲しい)。

とすると、自分ではどうしようもない、成長時期が一番、生涯の基礎ともなっていることだ。じゃじゃーん! つまり僕らが自分で誰それになれるのか、などと思った時点で少なくと自分にとっては終わっている訳だ。前に書いたけど、特にOUTへの活動をされる人はその自己を同時に今はフェーズⅠだ、Ⅱだ、などとは思ってはいないということ。

ところが、動かぬフェーズⅢは、そのことが出来るらしいのだ。自分の意欲と行動にズレが生じて、これはどうしてなんだ、いやだな自分だな、などと言う人は。いやが上にも自己のズレ、周囲との不愉快さを自己の中で是正しようと、言葉を捜すものであろうからである。今の苦しみや困難は、過去の誰かが考えて言葉を残しているのものである。

”ちょっぴり将来への意欲、喜び” は、つまりそれをある人は、自由というかもしれないけれど、脳のその部分の領域の脳の神経系が、伸びていてドーパミンが、どばっと放出するという、喜びの神経回路が出来ているのかもしれない。それが子供の脳の神経系時期にどういう環境のもとにあったか、も大いに関係しているということだ。

実は、実存主義などと言ってるけれど、ばっちりまさに内面の思いをこねくりまわすフェーズⅢなのですね。キリスト教がいうところの”罪”の問題も、誰彼ではなく自分のことであるので、ほとんどの人は自己否定などせんわなぁ。

それで、そうすると自己判断の基準となるべく自分のどこにある基軸をもとに善悪の判断をするのか・・・という、ややこしいことにぶつかる。そこが、思考のピークとなるらしいのだ。下手をするとそのまま、耐えられないと自己消滅、暗澹たる思いで自己を消滅させたいという思いが、湧いてきてどうしようもなくなる人が出てくるらしい。(自死するのはやめたまえ! 恥をかいても生き抜け。)

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しかし、それをクリアーすると、イエスと言う方が、何故死なれたのかということが、理解されてくるといことらしいのです。自己から人、神の似姿に創造された人類全般にまで、階層をあげて考えるようになるからだねぇ。しかも、空間が裂けて見え、まったくの霊の異次元が現れる体験をする人が存在する。

僕らが今生きているということは、無論、動物でもあるのだから先祖代々のDNAがその遺伝のあるものを引き継いで、僕らは気づかず、あるいは遺伝病であるならうっすら気づいても決して公にせず、僕らは堂々と自己主張したがり、しなくても生きるということは生命の維持にそのことは誰でもが当たり前のように欲しているわけなのだが、そこでは、波長があわないとか、どうもこの人は欠点があるとか・・・もろもろの他人への評価があって、無論自分も含めて生まれて生きて死んでいく。

そのポコンとこの地球上に自覚せずに誕生してしまった僕らひとりひとりが、人生100年ほどで多くの人が地上の生涯を終えていくわけで、昔も今もそうかも知れないけれど、どうしてこういう私なのだ、という疑問、さらには人は何ぞや、などという、もっと上の階層(ここでは頭脳の働きの、立花隆が言っている先のフェーズⅠ~Ⅲではなく、強いて言えフェーズⅢだろうけど、思考の階層といえばいいか、彼は実存主義の開祖キエルケゴールの『死に至る病』からこの考えを引き出して来た訳で・・・)から、地上の人類を見てみた場合、僕はせっかくなのでもっと知りたい、すくなくとも考える脳みそがあるのだから、地上の生涯があるうちに次の世界まで是非知り合いと思ってしまったわけだった。

それで、まずその基盤となる脳みその仕組みを知る、とうことは重要な一つとなったわけですが、そのまえにこれはとても大切な事なのだけれど、ここに大きな大前提がある。その前提もその自分の今の思考階層の位置を設定することによって、違った見方、方向性が新たなる前提という土台で考えるという条件を作ってしまうことになるんだねぇ。そこに、すでに自分が気づかない先に述べた幼少期の自己判断基準ができてしまっているということになる。

こんな話もまったく自分とは関係ないと思う人はいる。しかし、僕ら(複数形になっているの僕個人の意見ではないからだ)はいう、命ある人、すべてに関わる事だ。しかも、かなり階層の次元の高い話である、同時に今、あるが高すぎて人の思う次元という枠を超えている。『高い』とう思考的は上下という意味合いととれるだろうが、同時に全体がタマネギのように包まれているというイメージでもある。人の存在する三次元、時間を入れて四次元というものも更に超越している自分も含む全体をなす実態といったらいいか・・・。

説明し出すと飛躍的な表現となるからやめるが、ひとつ、俳句でも短歌でもいいけれど、あるは詩や物語文学でもいいけれど。で、亡くなった人を思いだすでもいいのだが、個人親族などの体験は当たり前だけど人類に共有化できない。それで、その歌われる俳句、短歌、詩、あるいは物語の各個人が思い描くところの次元はどこにあるのだろうか。

人が生きる時間も含めた四次元のその先に五次元の空間に僕らは思い描いているのではないだろうか? そこで五次元の世界は、確かな思い出もあろうし、あるいは俳句、短歌、文学作家への共感の何かでもあろうし、しかし、さらに求めるとその余韻は六次元までいって、もう共有化できない世界にまで行ってしまうのではないだろうか。文学などは、その次元をことさらに、共有化できうる言葉として駆使し著わすのが ”うまい表現” というらしい。

ここで異次元からの来訪者について語っている世界のベストセラーがある。それは、新約聖書のだが、これは亡くなった人、後によみがって、さらに霊としてのありようをあからさまに語った人であった訳だ。以前に『陰府(よみ)』について思えば、前に新約聖書のイエスが何を語らんとしているかが理解されていると述べた。また、違う箇所には、モーセとエリアとイエスが地上で語る『栄光』あるその次元の開示が、語られたりする。そのいずれの次元も今生のあるのだろうが普段には見えず、聞こえずの世界である。

しかし、それは実のところ、我らの次元はその彼らのいる『栄光』/『陰府』の次元との行き来があるということだ。僕らは、それに気づかず肉体に閉じ込められているということ。で、彼は行き来する世界において我らがそのままでは閉じ込められて生まれたとき授与されたものが、そのままでは肉体が劣化し消滅したときに、それに合わせ霊、僕らは肉体に一体化されたものを『魂』と呼んでいるが、同時に消滅してしまうのである。

彼らの霊は、我らに関与するものがある。よって、我らはまず、今生においては我自身の霊をかっこたるものにしないといけない。『我はある』ということ。そこに、イエスが地上に完全なるひとりの人として来られたという意味が出てくるのであると。我らは『神』というと、思考における観念的なことのみイメージするが、これを改めること。実体としてのイエス、この方との同期を願うことである。『人権』はこの辺から出てきた言葉である。

彼は世界中に共有化された亡くなった人、つまりかの次元でも世界に知られる誰でもにその次元にあって共有化された人になったし、今もそうである。彼が地上に来なければ、我らは次の世界は分からなかったということである。よって、読めば無味乾燥と思える彼の生涯を、言動を淡々と著者らは書き残すこととなったのである。そこにつなぎ言葉はあったろうが、次の世界から来るところのイエスの言葉になんとなくではあるが、2024年の今でも地上の人の考えでは不明なところがある。彼は、その空間をその言葉で異次元を求めることを願う。

「わたしはそこから来て、どこへ行くか知っている。みなはわたしの行くところには行けない。」とイエスはいう。

多くは『例え』で語り、弟子たちでもその言動を霊として感じ取ったというのが正解となるのだろう。しかも、実体として彼らは甦ったイエス個人に遭遇したのだった。死から甦った実体としてのイエスにあった。そして、さらにその言葉を聴いたのである。

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イエスが甦って弟子たちに現れたとき、トマスという弟子はいなかった。彼は、あの方(イエス)の刺された槍の穴に指を入れて見なければ決して信じないと言った。イエスはトマスの居る弟子達に再び現れ、「指を入れて見なさい。見ないで信ずる者は幸いである」とイエスはいう。

トマスは驚き、「あぁ、我が主よ! 我が神よ!」と叫ぶ。その後、トマスは奴隷に身を落としてまでインドに伝道にいった。彼が伝道した町の名前はMylapore(ミラポール)。現在のツェンナイ(Chennai)にあり使徒トマスのお墓もあると言われる。

今の我々もそうであろう。読んで理解でるのであれば、聖書は古文書で終わっているはずだが、今もそれは人々の霊に語り続けているというのだ。しかも、聖霊として。イエスが送る潔い霊として。

今日は弟子たちの足を洗った『洗足の木曜日』である。

明日、十字架に掛かり、三日目の日曜にイエスは復活した。今年2024年のイースター(復活祭)は3月31日(日)である。・・・・


(その12)人(私)の形成、僕らは大谷選手になれるのか。

2024-03-19 18:22:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 写真は養老孟司監修。『脳と心の地形図(ビジュアル版)』(原書房:ここはビジュアル専門系の書店)。立花隆の『脳を極める』(朝日新聞社)や『脳を鍛える 東京大学講義①』(新潮社)の方が断然面白い。で、その続きです。前回からつづく大切な話の二つ目の結論は本ブログの*****に書いた。

◆キィエルケゴールの実存主義から、立花隆は”脳を鍛える”とうい本の中で、”世界のとらえ方”として、フェーズⅠ、Ⅱ、Ⅲとみて来たわけです。これは、今までなんとなくそのようなことを気にもしていなかったが、改めてそのフェーズの立場になったつもりで自分に当てはめ意識して見れば頭脳のどの辺が働くかが、理解されて来るように思われますね。

数学が好きな人は対象としての数式レトリックの美的一致、物理が好きな人は事象としての機構のイメージの数式化、前頭葉に血液を集中させて、身体的な疲れから遊離し、すっきりするイメージを持つ。山に登るのが好きな人は、地球(自然)の中で生きているという一体感を持ち、肉体的に征服感が湧いたりする。

専業従事され、楽しんでやっている人は、生まれつきその脳みその活性化する箇所が、ちょっぴり秀でていたわけだ。しかし、そんなに多くはいないね。何故なら、誰でもが専業従事ではないだろうし、楽しまない人は”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れないし、倦怠が生じてくるものだから。

知性とは予測できる能力らしいけれども。専業主婦の方もささやかな事に目標を持ったりすると、脳みその指向性が働いて、たいそうなことでなくてもそれをやり遂げれば達成感が湧く、という具合。

実はこの”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れるか否かは、実に大切なことなのであるなぁ。まず、条件がある。良く寝ていて疲れてない、疲れから解放されているということ。このことを将来にわたり考えることだけでも、自己と他者ともに肯定し喜べるか、ということになると、暖簾に腕押し状態になる。

いずれ、身体的な疲労を通しても明るいイメージ、意欲や想像力に影響しているというわけだ。まさに、実存とはまず対象がどうなのかというより、その今というあなたはどうなのか、から問い続けるという考え。

大抵疲れてると、せいぜい脳みその古い部分がかろうじて働き、ろくなイメージしか湧いてこないねぇ。大谷選手は午前9時まで寝てるらしい。小学生は9時間から10時間は寝た方がいいらしい。

それは、このフェーズのどの位置に自己があるかということが、考えられるが、喜ぶという行為に、自己意識そのものは消えているものだから。喜んでいるときにもう一か所の頭脳が、これはフェーズⅢだ、などと主人公と演出家が、同時に頭の中にいるというようなことが、あれば、どうもそれは正直ではない。

実際、多くの人がこのようなことを思ったりするのだろうけど。つまり、身体と思いのズレ、それを見ている自分がいる。こういう人は、心理学者が精神医学者になるか、自分をつくってくれた神を考えるだろうねぇ。

どうも、小難しいような話ですが、そもそも西欧の哲学からの根源をさぐれば、日毎、食い物探しや生殖に始終してしている人らとは別に、余る時間を思考に費やした余暇人がいたのだが、奴隷制度などが当たり前で彼らがいたから余裕の時間を持てたわけで、そもそも奴隷となっている人も今のイメージとは全然ちがって、雇用者使用人と被雇用者被使用人という具合で、使われる者は実は最低限の衣・食・住が保証されていれば、それが自分の人生だとなんとも思わず生きていた。

とにかく、生殖するし、食って生きることだったわけだが、その間、この他の動物よりは多少、頭脳が大きくなり、困ったことに遭遇した時に、快適を求めて思考し、ひとりよりは多数の時も危険に冒されることもなく、いいこともあり、また、逆に欲求により侵害することもあったが、その中で不明なことは、すべてシャーマンに、つまり神頼みに依頼することが多くあったわけだ。

古代は、宗教も政治もすべて一体だった。それで多くの人が生き死にして歴史を作ってきた。そんで長い時を経てそろそろという段階で神が介入し、飛躍的に人類は進化した。自分自身のことを自分自身の脳で考えることもできるようになったのだ。ずう~と時代を経てどうして我(私)なのかも。

その長い期間があって、人を創造した神が介入し次の段階に歴史を進めたということだった。そのために、その意図を遂行するために地上で一つの弱小民族、しかもかなりかたくなな民族を選ぶことになる。それは、古代、彼ら(👽:霊の介入者)が働きかけたへブル人、のちにユダヤ人と呼ばれる民族だったわけです。それはそれとしてこれは長い話になるので別に。

ここからは、人の形成はどうして、起こるのか。人の形成といっても性格や個性とよばれるもの、みんなから優秀と言われ、ある場合はどうしようもない人と呼ばれ・・・人生を決するような幼児期の段階。自分ではどうしようもない段階。人生を決する時、自分では如何ともできない時期。すべては、多大に脳内の形成時期に関係しているのだった。

神に創造された人の課題解決は、とうとうここまで来た。人格や人権などという高尚な事柄以前に、もう答えは出てたじゃ無いかという点を、どう思うのか。しかしだ、ここが人が気がつかない、ぽっかり空いた人生の個人の空白なのである。自分ではどうしようも無い空白。

親も選べなし、育つ環境も選択できない。おまけついでに彼ら(👽)に殺されそうになり、それからが危ないと始終保護され、まったく自己意識の成長がなされなくなり、つまり脳みそはすっからかんになり、その意味を捜すべく長い長い人生の旅路となった僕がここに居るわけだ。

その答えが『脳を鍛える』の第三回講義に書かれている脳みその形成だったわけだ。それは、誕生して生きて来たすべての人に関係することでもある。人の形成。『遺伝と環境』幼少の頃のこれは、自分では選べない。おまけにこの時期に、彼ら(👽)に殺されんとする事態となり、あまりの環境防御に、脳の成長がストップしてしまった。この重要な時期に、人生のすべてが起因していたのであった。

それに気がつかない人のドラマとは何なのだろうか。

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『脳を鍛える』から

 p72「ヒトは生まれながらに、ひとそろいの脳の神経細胞(ニューロン)を全部持っていて、それは死ぬまで、減ることはあっても増えることはないと言われています。新生児の脳の重さはだいたい400gで、それがあっという間にグングン増えていきます。だいたい生後半年で二倍になります。増加のカーブは鈍りますが、その後も増え続け、成人男子の脳はだいたい1350g(女子は1250g)あるんですが、五、六歳でその重量の95%に達します。・・・」

 p79「脳の発達過程には、こういう感受性期(乳幼児などに受けた身体的外部環境を受ける時期)がいろいろな形で現れてきます。・・・低次の生理機能についてだけではなく、高次機能についても感受性期があると考えられます。その感受性期にどういう入力があったかによって、その機能がどういう方向に発展していくのか、その方向付けが出来てしまうということです。・・・」

前頭葉にこそ人間は宿る

p101-102「比較解剖学的見地から、人間と動物の脳の最大のちがいは、前頭葉にあるということははっきりしています。これだけ発達した前頭葉を持つ動物は,人間以外にありません。・・・脳進化は、大脳が大きくなる方向に、なかんずく、大脳中でも前頭葉が大きくなる方向に進んで来たんです。・・・人間らしさは、必ずしもいわゆる人間の知性にあるのではなく、むしろ、生きる方向付け、動機付け、気力、意欲、目的、目的実現のための計画力、注意力、自己抑制力といったものにあると考えられるにのは実に興味深いことです。・・・

では、そのような能力を如何にして個々人が獲得していくかといえば、大部分はその人の持って生まれた性(さが)によるものだろうし、それに加えて、家庭教育、初等教育、社会教育などを通して幼い時期から各人に与えられたものが総合されて、できあがっていくのだろうと考えれます。・・・ここで覚えておいて欲しいことは、人間が生きる上で、一番大切なことは、知の領域にあるのではなく、大切なのはなんといっても、生き方に関わる問題です。生きる意志であり、生きるパワーです。ひと言で言えば、生命力です。」

◆最後の言葉は、観念言葉でまとめられているけれども、それは、さとりを開いた大人になってからの考えであって、問題は個々人の性格や知力や意欲など諸々の掲げれた機能は、個人の幼少期では如何ともしがたいものなのではないかということである。

遺伝と環境、選べない親のDNA、選べない育てられたその幼少期の環境(幼稚園前に一度死にかけた彼らによって)。我らは、貧しい精神においても恨まず、これが私の人生だと納得して生きている。そしてそのことに対する他人には分からない個人の自己の闘い、人生を歩み生涯を終える。自分の自己認識の歪みを思い、いかんともしがたく、思いと自分自身との思考の認識のズレを生じ始めた時、そして強いてそれを打ち破ろうとしたとき、神の領域の避けた異界の領域が見え始め、彼ら(👽)の存在を感じて来たのであった。・・・