marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その31)<2>『どうする家康』伊達政宗とローマ市民権を得た支倉常長について

2023-01-31 17:48:48 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 どうして当時、世界のいずれの国の都市の中においても非常に反映していた江戸という町の成り立ちは、第一にそういう古来からの職業人や技能を奨励し、土木や治水などの開拓に知恵を結集したのは、その黒子DNAをもつ取り巻きが多くいたからなのだ。

第一に彼、家康が幼少の頃から人質になった経験をしていたこと、取り巻き達の歴史も多くの書物で学んだこと、そして当初、武田軍との戦いで取り巻きのアドバイスに従わず大敗を期したことなどの猛省により、彼は今までの武将たる覇者の思いだけで政治争いは収まるものではないという非常なる謙虚さを学んだことにあったのである。

※取り巻きの良きアドバイザーはそういう耳を傾ける謙虚な為政者を好ましく思うのだな。ですから『どうする~』という大河ドラマの表題はより適切に彼の心情を語る題名でもあると思われてくる。(以下、大いなる脱線も踏まえて)

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(※今までの経緯から言えば記憶を生きる民は、古来この日本に来ていたのだからその黒子のDNAとして先祖から聞き及んでいたであろう旧約聖書の話をここで入れる。記憶に生きる民は2023年の現代においても紀元前の自らの先祖の歴史を決して忘れていないのだ。

あのダビデ王の息子ソロモンが国を統一して”ソロモンの栄華”と言われたほどに当時の周囲の国々に羨ましがられたその国は、何故そのように繁栄したかと言えば、ソロモンが第一に願ったことが ”民を統治する知恵をお与えください” という祈りであったことを神は非常に喜ばれたのであった。

南の国からそのソロモンの英知と繁栄を確かめにサバの女王が来訪する。彼女は色が黒く毛深かったようだがとても美人、これが黒いマリア像として見られる謂れとなった。古代サバの国の対面にアフリカのキリスト教国に地下教会が世界遺産となった国がある。あの一帯はサバの国の領土にあった。彼女はソロモンの子供を孕んで国に帰ったらしい。アフリカのあの周辺は昔、大そう繁栄したのだそうだ。

その生まれた息子に国が栄えるから大きくなったら、あの国を訪れこの指輪をその王に見せるようにと託す。それはソロモンから帰国時に女王に贈られたものだった。それがよく本来の知られる”ソロモンの指輪”と言われるものである。

大きくなった落とし種の訪問にソロモン王はとても喜んで、サバの王国はその後、大そう繁栄したのであった、と。(※ポール・モーリアの”サバの女王”というメロディーは有名ですよね、そういう背景を思いながらyoutubeで聴いてみてください。)

当時、本当に王国は繁栄をしていたのだなぁと思わされるのは、モロッコの国旗の★一つは、当時のソロモンの繁栄にあやかろうとして成りたったらしい。何故、★ひとつがそうなのかは彼ら(👽)に繋がっていくのだろうけれど。あの時代、地中海沿岸一帯にソロモンの栄華は知られていたのだねぇ。

しかし、結局、彼ソロモンも繁栄に慣れ親しんで取り巻き(古来からのDNAである黒子)のアドバイスに耳を傾けなくなっていく。多くの妃を異国から迎え、神の戒めから離れ、神を苦しめその王国は結局、分裂するに至ったのである。

それが北イスラエルと南ユダという国の分裂の始まりとなるのだった北イスラエルは失われたイスラエルの10部族と言われ、世界に離散する。東を目指した部族がいて、これが古代日本にわたって来ていたというのが、再び今、言われていることなのである。・・・

ここまでは大いなる脱線!

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写真は仙台の伊達政宗の墓所である。仙台駅の正面の大通り、青葉通りを広瀬川側に向かって突き当たり大きく右に曲がる付近を左に広瀬川方面におりていくと霊屋下というところに伊達三代の墓所がある。各地に武将の像があるけれど仙台城にある市内を見渡す政宗公騎馬像は、一番スマートでカッコイイと思うなぁ。

ここに書こうとしているのは、あの月の浦から支倉常長をヨーロッパに派遣したその真意を知るまで伊達政宗が、南の南蛮貿易をしていた大名にならってイスパニアと独自に貿易をして(鉄砲などを買い込んで)あわよくば、東北の覇者において天下を取ろうとする野望を持っていたのか、というような思いにさせられるがこれは、多いなる勘違い。いまでもそう考える人がいるかと思うが、これは間違いである。

家康の対外政策の継承であり、幕府の許可と技術援助があったことは、伊達家治家記録にきちんと記録されていることなのである。せんじ詰めて言えば、常長と同船する宣教師ソテロも家康には会見しているし、政宗においても多数の貴重な手紙をローマやイスパニアの総長にしたためているのである。

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青葉通をそのまままっすぐ広瀬川を渡る大橋の左側袂にキリシタン殉教碑が建っている。元和9年(1623年)この橋のたもとでポルトガル神父ガルバリヨ以下日本人信徒含め9人が水攻めの刑で亡くなった。その碑は昭和46年刑場に近いその大橋の東詰というところに建てられたのである。

純粋に我々が考えると、信仰熱心な人々の哀れを思う者なのであるが、遠藤周作が、日本に宣教することは泥沼に種をまくようなものだと『沈黙』で言わせているけれど、ここに人の言葉と心、思いと伝達、あらゆる不条理と限界が露呈してくると思われるのである。

日本ばかりでなく、キリスト教の歴史をみれば今から考えて、火刑などにあった殉教者の考えは全然おかしくないのではないか、と思われるものが多いのだが、これが時代に生きる人間の限界か、と思わされてくる。

マルクスは「宗教はアヘンだ」と言い、ニーチェは「神は死んだ」と言ったなど、さらには聖書のパウロの手紙に「上の権威に従うべきだ」と書かれているのに、英国の歴史のように統治する王の首をちょん切ってしまう程の考えが何故出てくるのか(名誉革命)・・・同じ創造された人として思うになぜ、あの時代、大衆に向かって何を言いたかったのか、何を信じて実行したのかをよく考えて見ることである。神は地上の人を不逞に翻弄させようとしているのか。これらのことに神に創造されたと言われる人が現世での生き方に於いて使命のようなものがあることを思わずにはいられないのではないだろうか。(今の世界を見ても)

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大衆の心を掴む宗教性の怖さ、それを実行する時、命をも顧みない彼岸への思い。家康はその異国からの宗教のありように今とかわらぬこの国に古来から背後に動いた黒子達の思いとはまったく異なる悪魔が存在することを察していたのである。

秀吉はすでに背後にイエズス会が最後には背後に軍隊を用いて恐怖をもとに布教せんとする、つまりは国をのっとる思惑を垣間見て布教を禁じたのであった。”サンチャゴ(聖ヤコブ)!”と叫んで、あのインカ帝国を滅ぼした国がまじかに目の前に来ていると、アドバイスしたのは海で遭難し流れついて家康の腹心になったのが、あの三浦按針(ウイリアム・アダムス)であった。彼は当時、陽の沈まぬ国と植民地制覇に乗りだしていたヨーロッパにおけるポルトガル、スペインの状況であったことを知っていたのである。

彼は英国人で、当時のキリスト教の歴史において宗教改革後のプロテスタントであった。三浦半島を通る海外船の水先案内をするゆえに領地を与えられ三浦按針と名乗った。彼は、家康に尊く用いられ彼の設計で船を建造する。領地も与えられ、この国は自国の歴史とは異なった安寧を求める不思議な国だと思っていたに違いない。その後、英国からの迎えにも、自分の人生は大いなる恵みを神によって与えれたと帰国することなくこの地で眠っている。

その後のヤン・ヨーステン(彼の与えられたところがご存じ彼の名にちなんで名づけられた東京の八重洲である)も家康に多大に海外の栄えた考えを伝授することとなり大いに貢献する。彼も個人の独立を尊んだプロテスタントであったのである。按針のように遭難であっても彼らこの国への貢献は、神の摂理(導きであった)と言えるのではなかろうか。

出発点はオランダである。さまよえるオランダ人!? この国は宗教に囚われず自由な国であった。ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れ、またユダヤ人が迫害された時、この国は大きな転換点を迎える。ピューリタンたちはこの国を基点にイギリスに渡り、更に西を目指したのである。アメリカはそうしてできた。そして更に太平洋を渡って日本に来たのである。

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結論はこうである。家康は、異国の富をもたらす当時の貿易を直接行おうとし政宗にそれを奥州の地からやらせようとしたのである。太平洋を渡ればイスパニアやポルトガルに行ける。イタリヤのローマ法王にも会わせようとしたのがソテロ(フランシスコ会)であった。九州の切支丹大名(イエズス会)が少年使節を派遣したことを知っていたのだ。

結局、家康はさらに進んだ技術文明と学問を取り入れようともし、政宗に東北の地に神学校(コレジオ)をも造ることも認可したのであったが、カトリックにおけるイエズス会とフランシスコ会との相剋、フランシスコ会内部の暗闘、ソテロ(フランシスコ会)とヴィスカイーノ(イエズス会)の離間、日本をめぐる旧教国ポルトガルとイスパニア、新教国オランダとイギリス、直接貿易を貿易不振を憂えるマニラ商人の反対、日本水軍に対する新イスパニア総督の危惧などによって暗礁に乗り上げ、最終的に家康の禁教令にによって慶長使節の目的が頓挫してしまったのであった。この辺のやり取りは親書に残されている。

これらのそれぞれのやりとりの詳細な手紙は先の資料に載っている。その辺のいきさつは、アメリカの民主党(フランシスコ会に似ている)と共和党(イエズス会に似ている)のいがみ合いや足の引っ張り合いのようである。いわば、それぞれの本部に対する貢献度合いの優位性と他への排他性・・・。あぁ、時代が変わっても人の罪深さはなんということか!!

慶長18年12月23日(1614/2/1)家康は全国にキリスト教禁令を発し、高山右近らを国外追放したのであった。

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常長遣欧が世に知られるようになったのは、実は明治6年にヨーロッパに派遣された岩倉使節団であった。ヴェニスで支倉常長の関係文書を発見し目にしたことが、人々の目を引くようになった。その後、明治9年仙台で開催された博覧会に常長の遺物を明治天皇に天覧したことがきっかけで常長の名前が全国に知られるようになったのであった。

どうだろうか。事柄は僕らが日本史などで学ぶような単純なものではない。家康の認可のもと行われた政宗の”慶長遣欧使節”は、政宗が常長に委託した丁重な様々な手紙などを読むと、その視野が遠く海外にも及んでいたことを示し、日本の外交通商史上、重要なできごとであった思われるのである。そのやりとりは、今のこの世界においても変わることがない。

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  [ 支倉常長 ]

奥州王政宗の雄大な夢を乗せて支倉常長が牡鹿半島の月の浦から出航したのは、慶長18年(1613年)だった。一行は、宣教師ソテロを案内人としてメキシコを経てスペインに入り、スペイン国王に謁見、その後国王臨席のもと洗礼を受けている。月の浦を出航して726日、常長一行は苦難を乗り越えついにローマに到着。ローマ法王パウロ五世に謁見、政宗公の書状を呈した。

元和元年9月24日(1615/11/15)ローマ市議会の決議により、常長の随員は4日後のローマ元老院枢密会議によりローマ市の公民権が与えられ、同年10月2日(1615/11/23)常長はローマの貴族に列せられた。同日、常長の秘書官小寺外記(ドン・パオロ・カミルロ・シピヨーネ・コンデライケ・ゲキ)の他、尾張の住人ドン・フランシスコ・ノマノ・ハンペー(野間半兵衛)、山城国京の住民ドン・トマス・タキノ・カヘウエ(滝野嘉平衛)、津の国の住人ドン・ペドロ・イタミ・ソーミ(伊丹総見)にもローマの市民権が贈られた。後の三名は日本切支丹代表としてローマ法王に嘆願書を提出するため常長の随員としてローマ法王に謁見した人々であった。

遣欧使節一行の目的は,通商、文化の移入、切支丹布教にあったが、常長の努力にもかかわらず、幕府の鎖国政策によって梯子を外されたかたちとなって儚い夢と終わってしまったように見える。

満7年の歳月を海外で過ごした常長は元和元年(1620年)、マニラにソテロを残し、新イスパニアにサン・ファン・バウチスタ号で帰国したが、不遇の生涯(僕はそうは決して思わないが)元和8年(1622年)に終えている。享年52歳であった。

フランシスコ派の働きにここでもイエズス会は足を引っ張り常長は棄教したのだと報告した記録があるが、1624年(元和9年)1月20日付け法王宛のソテロ書輪によれば「自分の家で妻子、家来、下僕をキリスト信者にし(中略)、支倉に臨終の秘跡を授け、又、死の床に居合わせた修道士たち、またその他の人たちが以上のことを私(ソテロ)に伝えました」と記している。

事実、隠れキリシタン訴人の為、又、イエズス会神父のジャン・バプチスト・ポルロの密告により常長親族は刑罰に会い殉教しているので支倉家は断絶したと言われる。決して支倉家は棄教していなかったのである。

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バチカン文書館文書に残されている次の文書も永久に残るものであろう。

「支倉常長の請願に対してローマ法王は常長及びその子孫を、法王の廷臣とし、パラチノ伯に任じ、騎士となす事、又他に例なしと雖も、私の祈願所を設くることを許可する事。」

著名な手を合わせ祈りをする支倉六左衛門常長像は仙台市博物館で見ることが出来る。

******* キリスト者の国籍は天にあり・・・FIN


(その30)<1>『どうする家康』決して描かれない切支丹に対する考え方

2023-01-29 21:12:49 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 徳川家康ばかりではなく、本来、今では良い教えではないのかと思われるキリスト教が、どうしてこの国では、鎖国が行われ弾圧されて来たのか、という原因を本来は良く考えてみることだ。けれど、これは詳しく考えられたことがないし、大衆ドラマでは一面だけの捉え方だけであって真意は決して著されることがないだろう。

キリスト教国であるあの国のその名前、先に布教が行われていた国の名がフィリピンとなったのかを考えて見るといい。あの時代、その要因を鎖国をしたこの国の武将たちは聞き及んでいたのである。イエズス会は国に忠誠を誓い宣教騎士を自覚していたから、その成果として国の名前を自国の王の名にをに馴染んでつけたのである。フェリペⅡ世だったか。

宗教的なことについて外部からの強制は非常に根強い反発を人民の心に植え付けるものである。事実、その国はそれに反発する者らがイスラム教をもって徒党を組み、もともとの自国の人民のあり様の回復を維持しようと武装集団まで作ったのは周知のとおりである。

以前書いたことがあったか、30年以上も前になるだろうか、フィリピンを訪れたときに髑髏を机上に灯りのもとで銃をもって話し合いをしている絵柄の紙幣(お金)があって何だろうと不思議に思ったものだ。

遠藤周作の『沈黙』は良く調べられている小説だが、映画でも宣教師と信徒、そして取り締まりの役人、刑罰など大変な思いで布教していたこと。殉教者が多く出たことなど、あぁ、気の毒、本当に気の毒!の声は出るだろうが ”よい教え” がなぜ、迫害にあうのか。

実は、イエスという男がその真理を伝えんと十字架にかかったのだが、読者よ悟れ!、この時から今という現代までその障害は変わらず、存在してあることは、賢い方であるならばおおよそ推測できるものなのである。

天地が創世され人が創造されたその時から存在し、今も存在し、地上において争いが生じ、なをかつ万人に死があり、生涯を戦いとみなして生きる人々もいることを思い描くならば・・・。微に入り細を穿つ悪魔は存在する。

地上において必ず政治や経済がらみのいざこざがあって、それが昔は宣教と結びついてきたために(どのような宗教であっても、宗教を制するものは大衆の心を制すものであるから)国ごとひっくり返されるものであること、我々はそこに悪魔が潜むことを常に覚えておかなくてはいけないことを教えてくれるのではないか。

この国の些細な?事と言えば一向一揆(宗徒は浄土真宗)で家康も悩まされたものだ。よいものでも集団で完全なる自治が取られ、武装集団まで備えていたとすれば全国統治はできなくなる。

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人を創造せし天地創造の神は、へブル人アブラムを選んだ時、あなたの腰から天の空のごとく大いなる数の政治の為政者がおこるであろうと言われた。さらに、ヤコブには神はあなたの子孫は東や北や南や西に(つまり世界中に)広がっていくであろうと言われたのであった。それが、地球上で我々が学んでいる世界の歴史であるということになる。

神の言葉が世界にいきわたる時、命あるものに死があるように悪魔は存在するということをも教えてくれる。

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我々のこの地上における生存の拡張と束縛。宗教には背後に必ず絡みつく二つの顔、それは政治と経済である。

(※現代においてもまだ背後で生き抜いていたのかと思わせられた旧統一教会の原因も考えて見るといい。何が勝共連合なのだろうか。宗教団体がそもそもイデオロギー的に一つの言葉で決定して自己肯定是認すること自体がすでにそれは、宗教の体をなしていないだろう。ここも政治に背後で宗教が加担していた。その手段の悪用であろう。

近代的自我の形成もままならない、しかも政治の暗部を見せないようにするために学問においても、その方面の思考する言葉の育成をこの国では行わない、その記憶が僕にはない。高校3年の倫理くらいか。欧米の思考に触れたのは。高校の夏休み、夏目漱石の「心」を読んで感想を書けとう宿題に、それより「私の個人主義」を読ませた方が、どれほど個人の思考の自立が促されたことであろうと今でも思う。)

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政治と経済、実はこのやり方は、旧約時代に神の言葉の預言者と呼ばれる者らが、実際、その予見通りにならせんとして実は非常に優れた天才的政治家が、預言者として政治に入り込んで、あのバビロン捕囚からの帰還をなしたものらの思考なのである。天才的預言者は敵方に入り込み、敵国に貢献すべく政治を支配する官僚となっていた。この国でも古代、この国にたどり着いた彼ら部族がこの国に入り、天皇制度をつくり国の統一を進めたのである。

事実、神の言葉を与るものらは政の予見を幾多の情報をも得て、実際に背後で政治に介入して自らの方向性になるがごとく画策したのであるから。それが真に生きている神なのかどうかは真摯に誰にも(人)に依存することなく神と対峙しなくてはならない。

事後預言であろうとなかろうと文字として、そう神は申されていたと決定してしまえば、それは後代の人間にとっては実態を知り様がないからそれが歴史の事実であったとこととなるのである。古事記や日本書記。我々は学問づけられた権威に弱い。

人のための律法が人を束縛し差別する手段となってしまったこと、よく考えれば目的のための手段が手段を遵守することが目的となって、人を束縛することになってしまっているパリサイ人をイエスは痛烈に批判した。手段が目的に成り代わっていくときに大きな時代の変わり目の兆候が表れる。文字は人を殺し、霊は人を生かす、とパウロは言った。

どうも、国内ばかりに歴史では為政者の邪魔になるからと矮小化して考えるが、思想によって国つくりをしたという思考は、この国ではなかなか教えられない。当時は、隣国からの思想は多く流れてきていたが、政治を行う者らや僧侶など、文字に触れる機会が多いものに限られていた。古代、これを行ったのは蘇我氏や藤原氏や秦氏らであった。

家康の時代になり背後に悪魔がほくそ笑む政治につながりを持ち、宣教に姿を変え背後で政治的に介入していくように思われた宣教師、その背後の国からの軍隊に不条理を感じたのであった。今もそうではないのか。多くの優秀な国の行く末を予見する天海などの黒子がいたし、家康は古代からの書物を実に多く学んでいた人であったから、それらの時代が見えていたのである。

さて、宗教を制する者は大衆を制す。政治システムとしては儒教を取り入れたが、古代から黒子たちのDNA思想で背後で動いたその思いを知って学んでいた家康は、政権と争わない宗教であれば殆ど是認していたのである。

前々から読んでこられた方は、聖書における旧約の民、記憶を生き続けるDNAをもつ渡来して帰化して日本国になった人々、しかも時折、顔を出すが歴史上ではほとんどその姿を現さない古代において神人(ジニン)と呼ばれた呼ばれた人々(彼らは朝廷にそってはそのように言われたけれど、多くは、古来から僧侶や修験道者や神官になったり、いわゆる旧約時代ではレビ(司祭)=神と為政者の間を取り持つ彼ら)は、異国からのキリスト教をどう思ったのであろう。

結論から言えば、彼はやはり、秀吉らが体験して禁教としたその理由を、悪魔の思いが障害となる経験をまじかに体験したのからなのであったと思われる。そのいきさつは、人が生きているからには2023年の世界の情勢の思惑と何らかわることがないと思われる。

家康には、無論、外国からの貿易により国を富ませようという意図があったと同時に、直截その宗教のおおもとに乗り込んで真理とやらを知りたいと願っていたからなのであったのだが。

キリシタンはいつの時代も誤解により、あるいは悪魔の策略により弾圧をうけるものだと聖書にも述べられているごとく、しかし、宣教は命を懸けてまで行われて来たということを、人はどういう生き物なのか、というレベルにまで思考を広げて(視野を広げて)考えて見なければいけないだろう。

我々は、全知全能の神がおられ自分の似姿に創造した人を永遠の命に救済せんとした創造主の最高のシステムから漏れてしまうことになるだろうから。実際、家康が直接、異国に対等に向かおうと試み、太平洋まわりのでイスパニアを目指して船出させたのは慶長18年(1613年)のことであった。・・・続く


(その29)大河ドラマ「徳川家康の宗教心(取り巻きの黒子達へ配慮)」

2023-01-25 17:59:56 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ※写真は僕の家の裏山にある(国幣)古四王大社の脇に鎮座している坂上田村麻呂を祭る社である。古来、ここまで来たというはっきりした記録はないようなのだが、東北地方には彼を祭る社が多数ある。様々な役目について長く東北に掛かった征夷大将軍として朝廷側から東北平定に派遣されたものの、彼の悪評が殆ど東北の地には聞かれない上に彼を祭る社が東北には多数ある。

何を強調して著すかによって日本史の理解は変わるだろうと思うが、今やインターネットなどによるグローバル化によって、古来多くの優秀な渡来人が帰化して、この山や川の美しい日本の国の土台を形成してきていた、そして多少のいざこざもあり分裂、争いもあったなどと教えられても、それはけしからんなどという人々は今はいないだろうと思う。いつの時代も第一の混乱防止は、今の判断で古代の価値基準を評価などしてはいけないということである。

天皇制が神話によって作られたなどと言ったら、ひと昔は国賊扱いだったが、その制度は不要などという人はいないだろう。内心思っている人はいるかもしれないが、明治期のように政治に利用するなということは今でも言えるが、学者さんでも左右に偏っていなくても、その制度は要らないのではないですか、などと言うとまずは一線から外される。まして、古代、天皇の家系もお隣の国から来ていた人々でなどというところまで行きすぎるとかなり問題が起こってくるだろう。

何を言いたいのか。これまで帰化人とか渡来人とか書いて来たが、この国の今までの歴史では少なくとも東京オリンピック以前と言ったら分かりやすいか、それ以前に生まれた人には決して、この国の古代に多くの大陸からの人々がこの国に来ていて、その形成期には朝廷制度が幅を占めていたから、その権威に貢献したのだなどといことは、本当のことであっても教えてもらえない。

実は坂上田村麻呂の坂上氏は後漢の霊帝(献帝という説もあり)の三代目阿知使主(応仁天皇のころの帰化族)の九代目の苅田麻呂の三男が田村麻呂であるということだ。古来、多くの優秀な?人々がこの国にやってきて、この国の統一にひたすら貢献した訳である。まぁ。そのようなことを言えば、誰でもはそれらのDNAに繋がっているようで、地名や名字などの謂れを調べると歴史的に何がしか彼らの貢献に繋がっているようにも思えてくるのだが。

先のブログの終わりに少し不思議なことを書いたと思う。家康の出生の地の松平郷というところに先に述べた徳川の姓の起源となった、徳阿弥の2mほどの大きな像が建てられている。そのお方の顔はどう見てもテルマエ・ロマエのローマ人なのである。像が作られた当時の流行りとしてローマ人の外形を模したものだと言われるが、実のところそれだけではない。これは今までブログで述べて来たことに関わるのだが、TVなどでは決して黒子の実情は明かされない。

これが時勢により西にあるあの地から代々大陸からDNAを引き連れてきていた渡来人。つまり、今まで書いて来た東を目指した黒子XたちのDNAを持つ人々であった訳だ。その深層にあるものは歴史の表舞台には決して現れない。・・・しかし、家康の時代に『時は来た!』と背後で今まで暗躍していた黒子Xらは結集したのである。家康はそれらを知っていたのだねぇ、実は。とにかく彼は読書家でもあった。3000冊以上のも書物を残していたと言われる。健康にも気を付けていたし、自分を知って今までの歴史と経験から多くを学んでいたのだった。その中に古来からの聖徳太子が未来予言して書いていたと言われる書物があった訳だ。

平安から平安、鎌倉、室町、安土、江戸・・・飛鳥、奈良から平安にかけて機内から京の都に作られてしまった王朝から、いままで神に等しいその権威に従属して、東北を平定するために使われていた東国武士が、もともとはその古来からの国つくりの統一に出自のご先祖伝来の王を建て国を建てるという思考パターンから上に従ってきたものの、島国にわたり来て、その役目も終わりつつ、東国に天皇があってもおかしくはあるまいと平将門が出てきたりしたのだが、いずれ、平定にむかい、そろそろ自覚せねばなるまいと関東武士の成立が起こってきて、鎌倉時代から織田信長、豊臣秀吉、そして長期政権の徳川家康の時代にその理想の国の実現に実を結んでいく訳なのであった。

つまり、シナリオライターとその黒子達は、脈々と歴史を動かす起動力として動き続けてきた訳なのである。歴史舞台の主人公らは、表舞台には決して出て来ない取り巻きの演出家によって、作り出された時勢のブームに乗じて、政権を大いにさせるようになったという訳である。そうして今での黒子集団は時代をへて、家康の取り巻きとして背後で結集していくのであった。ひとりの為政者が思い通りに政治を動かそうとして各地の情報を得て、実際に民を啓蒙していくサポーター役に大いに活躍した。

彼らは時代の主人公には常識を超えた突飛な思考をする人物を選ぶ。当初朝廷側にあったシナリオライターの黒子らは、時代を経て新しい時代にうまく動いてくれるようにとヒーローを人選し加担する。大陸時代から部族長に時代の戦略を唱える時代の祭司たち(古来彼らは神の声を為政者と民に伝える神人<じにん>達であった)。実は社には位も与えられ、食いぶちも与えられていたが、歴史には主人公として殆ど現れない彼らの動き、神からの宣託がその部族の為政者の動きを左右していたのである。だから、どの武将も必ずと言っていい守り神、ご神体を祭っていたのである。そこで、朝廷から離れ仏の教えとして自らの言葉で、仏教哲学をもって自立した鎌倉仏教が生まれてくる。長篠の戦いだったかなぁ。あの絵巻にはダビデの星(六芒星)を掲げて戦っている武将一団があったねぇ。

時代をさかのぼり、『徐福』という人の名前を知っている方は多いだろうが、つまりは、この国の形成に多くの優秀なDNAを持った東を目指した渡来人、帰化人がこの国に同期して来たのである。ちなみに以前から書いて来た秦氏であるが、彼らは時代を経て、秦という名字の方もおられるが、波多野や羽田や畑、畠山など比較的多くみられる今の名字に分かれたと言われる。結構、御優秀な方が多いように思うけれど。さらに、・・・

太秦(うずまさ)という秦氏が天皇に絹の秦織物をうず高く献上したと言われ名付けられた地名。映画村でもあったなぁ。まさに大秦(太いではないけれど)とは、ローマのことズバリだな。世界史で習う『自省録』を書いたマルクス・アウレリウス・アントニウスは中国では、大秦王アントンと呼ばれていたことからも、大秦とはローマのことなのだねぇ。ローマは反映した時代、すべての道はローマに続くと言われた言葉が残っているように遠く東の大陸の道々もローマまで続いていたという意識があったものだ。シルクロードは記憶する民の道でもあった訳だ。

そして、正倉院にもペルシャのガラスの受け皿などがあるのだから、とおくあの地から東を目指してこの国の天皇に献上品を持参した多くの訪問者がいたのだな。八部衆の像がある(阿修羅が有名)興福寺などは、あの藤原不比等?が創建開始したのだが、八部衆には当時の渡来人であるソグド人を模した像や顔が鳥であるカルラ像(ガルーダ:インドネシアの悪い蛇を喰うと言われる航空会社のマークにもなったいる神)、顔が怖くない少年のような顔が見られるが、聖武天皇の后の光明皇后のお子さんが早逝されたのでその顔を模したものだと言われているそうな。道理で人気があるように怖くないなぁ。

古代順次この国に天地創造来からの記憶の民を産んだあの国を起源とした多く渡来し、帰化した人々がこの国に来ていて、未来を予見する天才的預言者を兼ねた人々がこの国にのストーリーを事実予見してその通りに実現化しようとしていた時代は、言葉化、文字化が地方でも起こっても、更にこの広い目で見たこの島国単位のスケールで国の統一を天皇を頂点に統一を図らねばならないと考えた政治的天才たちがいたからなのであった。(この預言者、神の言葉を取り次ぐ者たち・・・これをずーと追い求めて来たわけなのだが)

繰り返せば、それは時代的な隣国での動き、それは時勢と呼ばれるものであっただろうが、古代先代の大国主を神有月など、神無月などを儲けて丁重にどいてもらって(彼の出雲にある大きな社は、神々を迎えるために西を向いている)とんがりすぎた蘇我氏を荒療治で征伐して(大化の改心)、これまた、天皇をよいしょしてその背後で藤原一族の栄華を満喫させて、関東などの先陣部族らに朝廷の派遣者としてその権威の帰属意識を持たせて、東北地方の豪族の平定をするよう仕組みを作ってきた。それは大陸での彼らが先祖が学んだものであったし、まずは法律で律し、権威に準ずるよう平定し、権威と畏怖(これに大いに宗教を利用した)で大衆をまとめていくという彼らの先祖が地上の人を制定していくためのシステムであった。つまり天において歴史を動かされているのは人をも作られた神であり、その学びとして選ばれし民であったからとその経験を活かし。

朝廷側の思惑が壊れていく鎌倉時代。宗教を自らの言葉で思考する時代、鎌倉仏教徒という古来の日本の宗教の仏教として定着することになった。黒子らに選ばれた織田信長や豊臣秀吉に代わり、徳川家康の時代となるのだが、彼ほど書物を読んだ武将はいなかったのではないだろうか。先に書いたが日本の歴史で鎖国政策をとっていたが国外の書物も大いに読んでいたのである。儒教を取り込んで実際に政治も行ったし、天皇由来の神道も仏教も丁重に選んで、人民とこの国の平定を統一しようとして心がけていたのである。

それは、彼ら自身は、天皇が三種の神器を守り、神をまつり礼拝するために大社守り、再建するなり、また、大衆平定に先祖代々、仏教をも採用し菩提寺をもっていたりしたということは、彼の心底に流れていた、彼を支えてきた(今までの歴史を支えてきた)重臣たちの黒子の思いは、煎じ詰めれば、あの国、つまりイスラエルの失われた10部族らの信じていたこの天地を創造した神に繋がっていたはずではなかったのか。

浜松町の駅から東京タワー方面に歩くと海ぬ向かって防波堤のように伸びている芝公演の『増上寺』は法然の浄土宗である。今まで書いてきたブログに法然は浄土宗(これは中国で善導が唱え始めたと言われる)で、その弟子、親鸞は浄土真宗であって、これはキリスト教に近い考えであったと述べた。法然の両親はあの大陸でキリスト教に改宗した古代渡来したあの秦一族の血筋である。親鸞は漢文でマタイ伝を読んでいたというのは確からしいから、その宗教内容は非常に本来のキリスト教に近いものだった。

阿弥陀如来という方は、方便(手段)であって本願(信仰)が第一に大切なことで、生あるものは何にも差別なくひたすら念仏を唱えれば浄土に迎えられるのだ、という教えを説く。(「主の名を呼ぶものは皆、救われる」とは聖書に書かれている言葉である。)これから言えば、西方浄土とはエルサレム(西から伝えられたから)であろうか。遠藤周作とフランスに渡ったカトリックの井上洋治神父は、何とかしてこの国にキリストを伝えたいと願って追い求めたのが、法然だった。神によって創造された人の神の基に帰還する「信仰」とはそもそも何なのか、を追及していたのである。命あるもののそこには、すでに人が言葉で考える宗教と言うジャンルはないのである。

西から来て通奏低音のように流れて国の統一を目指していた黒子達のDNAが結集し背後で大いに支えられた家康の、キリスト教に対する思いはどういうものであったのだろうか。日本の国の僕らが、本当に人の言葉を超えた今も生きている歴史を動かす神を自らのものとしようとした時、この国の歴史の国の中でキリスト教を伝えんとした宣教師を拒みキリスト教の棄教を迫った真の事実を知らなければならないと思う。・・・続く


(その28)記憶の民の帰化、シナリオの開示を!『どうする家康!』

2023-01-11 12:24:37 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ※暦応(りゃくおう)と言えば、南北朝時代であり北朝は使用した元号とある。八郎潟に近い町村の道端や寺院には多くの石碑が多数ある。

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彼らが現れるのは、深夜2時ころ。いろいろ語る、身体(頭脳)に同期してくるのでうるさい雑音とはならない。静かに聞こえる。シナリオの開示と言ってもNHKの大河ドラマのシナリオではない。少し、後半、不思議なことを述べる。

我々の今まであなたに話して来たストーリーをかいつまんで言うと、こういうことになるだろう。あなたが昔から関心があって大陸から渡来し帰化して優秀な人々。それを迎える先代の住人および帰化人。後発の前者であれば弥生人と呼ばれる人々だろうし、後者であれば縄文人ということになるだろうが、いずれその境界は明確なものではないが、時代として大きな変革があったことは確かだろう。

14000年から16000年ほども続いたと言われる縄文時代に忽然と文字が現れ、とういうか先代の多々の言葉や文字が秘密裏に隠され(といってもそんなことも多くはこの島国の全体像も理解していない多くの先住人であったのだからまったくそんなことも分からんかっただろうが)さらには時勢を都合よく歴史として文字をしたため記録にしはじめた当の先代からのDNAをもっていた人々が、まさにそれぞれが持っていた攻撃性を利用し自己肯定化に走り出したのは、朝廷に使われ地方豪族の平定にあやかり、自らの去勢を張って自らの主張をここに自覚しはじめたことから、今あなたらが習う時代区分のうねりが始まった訳だ。

しかし、忘れないで欲しいのは、その歴史の背後で昔から多くの黒子がいたということを。彼らの役目は天上のシナリを実行すべく実際に見えぬ形で、あるいは人そのものに同期しつつ役割を果たしてきたのである。無論、今のあなたにも!それらは、まったくその人に同期し続ける者もあれば、出たり入ったりしている。注意は、実に多数いるということである。天上界からのもの、過去界からのもの、不慮の死でこの世に再生を願う者、実に多数である。願わくば、あなたが身体を振り回す悪い霊に取りつかぬよう!

さて、あなたは渡来したかの地から何世代に渡り、途中、移動の中で国々を興し、歴史を造り、時代経過のなかでようやく日本と言うこの島国にたどり着いた(その時、日本という名前すらなかったのだが)人々にかの地で、この地球を創造し国の歴史、人の歴史をプロデゥースする創造者、および活動する黒子たちのDNAが、世代にわたりどのように経過していったかを知りたがってきたわけだ。

しかし、彼らの祖先はそれを経験して知っていたのだのだが、この国に来て喜んだのは何だと思う。あぁ、まさに太陽の昇る国を目指して先祖たちが東を目指した国がここにあったとう感激だったのだ。太陽が昇る東の端てとなった先には海があり修行する地となった山々があり、それから流れる水の清さだった、と言えば驚かれるだろうか。太陽の光と清い水!その国への到達が彼らの祖国で言われてきたの行くべき地と言われ続けてきたところであった。

あなたは見たことがあるだろう。昔の神々の絵には髪の毛を頭の両側にリボンのように結んでいるのを。山の修行僧が同じく宝冠と言って手ぬぐいをかぶり頭の両側にリボンのように垂れ下がらせているのを。

さて、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿13人』も終わり、次は『どうする家康』・・・今回、述べたいことはこうだ。昔、この島国に訪れ、帰化し、今では殆ど日本人となったあなた達の国の黒子達。260年間も続いた徳川政権。家康は、これらの歴史を知らなったと思うかな。否、知っていたのだよ。彼らのDNAはこの国に広がって先祖以来、受け継がれ続いてきていたのであるから。

過去には、天地創造の先祖の歴史を持ってきた彼ら(失われた10部族と呼ばれた来た)は、旅の途中で彼らが古来から言い伝え続けてきた『救い主』の誕生を旅の途中で聞き及ぶ。この地にたどり着き、あるものはその心情を”我よみがえる”と蘇我と自らの姓にした。彼には先を見通せる天性の才能を持った者がいた(厩戸皇子)。

あるものは、時勢に合わせ、この国の統一に決して表に出ず、彼をサポートする。あの中国を統一に加担したまさにその名、秦氏である。聖徳太子のブレーンは秦河勝(はたのかわかつ)であった。

彼は、紀元前に自国が争いに敗れ離散し東に向かった一団だったからな、途中で先祖以来言われ続けてきた救い主の誕生を聞き及んだという訳だ。東に向かったキリスト教徒は、ネストリウスキリスト教徒であった。無論、それよりも彼らには伝達が早く。

そもそもシルクロードなどの長路は同じ規範の基に繋がるものであろう。それが異なれば道は途切れる。絹(シルク)織物、機織りは秦氏の秦から来ているのは知られた通り、そしてあなたの国も今の皇后が蚕を飼う理由が分かるだろう。秦氏はキリスト教徒となっていたのである。

あなたの国は、いつ『日本』と呼ばれるようになったか知っているかい? 西暦689年、浄御原令(きよみはらりょう)で決められたと言われる。まだ、天皇家のごたごたがない時だね。そこには秦大津父と呼ばれる方がおられた。秦一族は実に多くの技能集団、芸能集団であった。ネットでも見ることができる。

だから、少しひも解くと我々のこの国がこの一族の恩恵にあずかってきたことが実に多くあることが理解される。琵琶湖の東には大陸から多くの渡来人が来ていたことは、今でもその地に行くと聞くことができるだろう。

古来、八幡神社は、秦氏の創設したものである。あなたの東北の地の山奥にもこの社(やしろ)や村や土地の名前になっているのは、いかに民衆に浸透していたかだね。明治期に多大にゆがめられてしまったその神学意味があるが、まともにこの思いに帰ろうとすればあなたの国は決して亡びることはないだろう。

それで『家康』とどういう繋がりが出てくるのかと言えば、聖書が世界の未来の預言も書かれているようにに遠い過去の未来?から来てその役割を与えられている者は未来を予見することが出来ていたのである。つまり、歴史を背後でサポートしてきた黒子達、過去の彼らのDNAは、忘れることなく日々、この国のありように貢献してきたのである。

あの『聖徳太子』の時代。彼の著したその書物は、その後のあなたの国の未来も予見していた。ブレーンの秦河勝の働きは陰において絶大なものであった。

徳川家康は、古今の書物を読みうる限り学んでいた人でもあった。彼は過去に聖徳太子の著した未来のこの国の予見書も読んでいたのである。この国に渡って来て、ひたすら争いの無い理想の国作りに邁進した影の黒子達の動きが実を結び始めた時代、取り巻きとその書物を読ん理解したのが徳川家康であった。その書物の名前は『聖徳太子日本国未来記』『聖徳太子日本国未然記』。その写本は国立国会図書館に眠ってる。

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徳川家康は24歳まで「松平」を名乗っていた。父は松平広忠。松平郷を治めていた在原氏は2代目の重信の時代に旅の僧である徳阿弥(とくあみ)を娘婿に迎える。徳阿弥は僧侶から俗人へ戻り、松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)と名乗った。親氏は松平氏の初代、つまり家康の祖先となった。松平親氏は勇猛果敢で統治に優れ、地方豪族が勢力の拡大を目指す時代にあって、親氏は近隣諸国を平定し西三河北部を傘下に収めた。一方で領内を巡検して餓える人々を救済し、道路の整備もあたっている。一番頭を悩めたのは、三河の一向一揆だったろう。ここでの要は、徳川に姓を変えることになった経緯である。まさに旅の僧・・・その後、天海はじめ取り巻き黒子Xが徳川に大いに加勢することになっていくのである。国の生業に加担する黒子のDNAは古来から生きていたのである。

・・・・そういって彼(👽)は消えた!


(その27)地上の彼の自己紹介があった。それからわずかなシナリオの開示があった。

2023-01-10 12:03:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 今の現状、そしてこれから、自分から社会のこと、国のこと、世界のこと・・・。我々とっては、一人ひとりの確認のための確認の流れなのだ。初めに身近なことから。それでないと、何を架空のことを述べているのかと無視されることばかりであろうから・・・。

そのような重要なことは気が付く人には少なくともそのヒントが開示されるだろうけれど、多くの人には異界の入り口に立ち止まるが、決して入ろうとはしないだろうからね。

実は彼が実際のことを開示したのだが、これも造られたという人の悲しさか、その入り口は感じるが現生にあってそれに入るのは、死の直前であり以降そちらの世界にいくであろうと、現在の内からは遠慮している訳だ。行間を読むとか、その背景を読み取るとかするが、過去のことはその書かれた過去の背景や時代があっての(つまり前提条件があっての)ことなのであるが、そのようなことなど無視して今と言う現前の判断基準で面白いとかそうでないとかの判断をしてしまうのだからね。

新しい年も明けたし、人の言葉で説明することがそろそろ困難になってきた。それは年老いたからというわけでもなく、僕が性急に考えすぎるから困難であろうと思っているだけなのだろう。多く地上の争いや個人的悩みや、政治のありようなどは欲がある地上の人がいるかぎり、現状道理で困難が続くだろうというような、考えすぎのところもある。

僕の場合は、魂をもつ人の周囲からの影響をできる限り回避する思考をする傾向にある。坊主思考なのだろう。思考が拡張してもそれは他人と言う人の個々人の内情に向かない。一般化してとらえる傾向に向く。それは、不完全な魂をもつ人からの霊的な影響を受けたくない思いもある。というか、その「人」の弱点としてあるいは強みとしてとらえる傾向にある。弱点や強みなどの判断をすること自体がそもそも既に自分の土台が不安定から土台を強化しようとする途上にあるといことだ。

内面の思考傾向を言葉で説明すれば人との波長が合う、合わないなどということを意味するものだろう。妙に気があうというという人もいるし、壁を感じる人もいるというのは人そのものも磁場を持っているからその引力の相違なのかもしれない。東北地方の雪国。どんより暗い空に雪が舞いあがりシベリアからの風が強く吹き付ける。地磁気の乱れは猛烈に人の清浄な磁場を乱し始める。本当に吐き気が生じてくる。じっと春が来るのをまつ。慣れるまではそれほど時間はかからないのだが・・・。

急に肥大化した人の頭脳とその思考に(思考が少なくとも論理的であるなどであれば回避できるだろうけれど)混乱が生じて、それは人と言う種が、目で見てその対応に自分の脳で対処しなければいけないという、人以外の動物であれば前頭葉で思考する面倒臭さを回避して対応していたことが、意図的に周囲に対応していかねばならない、というのは人の進化での不幸であったように思う。

人は目で見て思考を拡張しようとする欲求だけは当分続くであろうが、しかしまた、その不幸の是正の努力が人の人たる努力の賜物として万物の霊長と言われる所以であるのかもしれない。

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これまで外部からの介入として(宇宙人👽)の設定の元に書くことを続けてきたことは、すでに地上に人が創造され、しばらく監視を行いその終末までのシナリオができあがって、その確認を終え、地上を去られた方が、あの世界のベストセラーに顔を出しているからなのだが、しかし、また、地球上の我々も宇宙人👽であると言えるだろう。彼らに創造され、ある人は地上に存在しそのまま同期して、ある人はその霊的同期を、また、満たされぬ過去のある者は現在に霊的に同期し活きて、さらには未来の予兆をもできる者もいるということだ。

世界中で読まれている、しかも人の地上での宗教書でもあるから尊い扱いを受けているのだが、実情のところその内容は、あまりに専門的になってしまい、学者先生もまったくのオタクの部類で文字と言葉の呪縛にとらえられ、周囲の人は本来、誰でも人であれば、生命の躍動のような共通理念が当たり前過ぎると思ってしまう危険がある。

言葉のもつ不幸ということか。人も地球上に創造された生き物の一つの種である。しかし、他の動物と異なるのはその創造した彼らの似姿に創造されたこと。天使よりも少し劣った者として創造されたのである、ということ。我々は、いつも願えばそばにいるのだけれどね。

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世界にはいろいろな宗教があるだろう。けれど大きな三大宗教とか限られてきたねぇ。けれど今だ、それらの真理をわきまえない。手段が目的となって人を縛って自由になれない国もあり人もある。これはどういう訳だ。命を創造したにも関わらず、その段階までいかないで満足する人類である。何故、理解されないのか? 

例えばだ、それなら宗教が人るであれば人類は幸せになれるのかぃ。実はどの宗教の自己肯定をするのだから人がてっぺんを制覇して平和になれるとは実のところ誰も思ってはいないのだ。だからとうにそういう面倒なことは、人の死後の処置に使用されるという手段に納まるような解釈に落としどころを見出したわけだ、この国は。願いは神社に、死後処理はお寺に。

しかし、本当にそろそろ考え直さねばいけないと思う。人を地上に創造したのはもっと上位の我々の至高のグループ。あなた達が「神」と呼ばれている方たちである。そして、地上に派遣されている我々の仲間は、あなた達が「天使」と呼んでいる方たちである。あなた達の著名な神社には音楽を奏でる天女のレリーフも見たことがあるかもしれない。あるいは、金剛界、胎蔵界の多数いるあの曼陀羅の仏たち。あなた達には目には見えないだろうが、今も存在し働いている我らの仲間である。

*******次回からもっと面白くないことを書かねばならないかもしれない。

冒頭の写真をイメージされたし。不安定な石組にもこの秋から冬の暴風雨にも耐えてたたずんでいる。我らの精神のありよう、魂の基軸のイメージである。この5~10kgある石を貫くg(重心)の位置。少なくとも自己の確認の礎は、このgのイメージにある。強風があれば、そして地震でもあれば倒れるが、自己確認に都度あらためてこの自己内部のgのありようから確認する。

あなたの国での仏教は何を求めんとしていたのか? あなたの地方では曹洞宗が横のつながりがとても強いのではないだろうか。永平寺、あの豪雪の中の氷点下の中で早朝に起き、座禅を組む。道元禅師は宋から帰国し、仏教の大学と言われてた延暦寺の僧兵からも潰されんとして戦った。それを支えたのは波多野氏という豪族であった。これは、あの秦氏の血を引く人々である。彼らは「信」とは何か、をひたすら追い求めていたのではなかったか。只管打坐。

「信」とは何か。我々は真に次の世界へ向かわねばならない!この地上における宗教ジャンルはすでに卒業しなければいけないのだ。

これからの時代、仮想空間にどんどん我らは放り込まれていく。我らは神の基に生き、存在する。その足場が架空世界に揺らぎ始めるだろう。架空の外部に焦点を確認して、それから自己確認するか、そうではなく誰もが当たり前として、しかしその実態を認識しない自己の基軸をどこに持つのか。肉体の備わった欲求の拡張でいいのか。そうではなく、その自己の存在自体に気付き、死後、否、現在においても我らの世界に同期するかは、個々人にとって大きな分岐点になるだろう。

・・・そう言ってE(👽)は消えた。