marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その4)ぐだぐだと宇宙人👽の小難しい屁理屈を聞かされた❣ 深刻なこと?

2022-08-24 10:47:47 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

毎夜深夜に現れた宇宙人👽が、いざ、 今回の(その4)を配信しようとすると、突然、姿を現して中止を促された。それで以下 ”*****”までは、今回、数日遅れて追記で冒頭に挟ませていただいた文章である。(※)は僕の私見。

(※)ブログのこの表題が気にいらなかったのか、”ぐだぐだ”、とか、”小難しい屁理屈”などという少し私感を混じらせた言葉が気に入らなったのか、と思いきや、まったくそうではなかった。  曰く、

あなたがこのまま、引く続き我らのことを書き続けようとすれば、きっと落胆していくか、あるいは、違った方向に考えが導かれているか、まったく我々を否定する方向にいくか、小難しいことを書きすぎるから今でも少ない読者が誰も読まなくなってしまうか、それでなくてもポチと押さなくとも、ますます読者を狭き門にしてしまうだろう。でなければ、人の思考を混乱させるか・・・いずれあなたにとって覚悟をしておかなければいけないことが出てくる、だと・・・つまり、僕のそもそものブログの自己紹介に偉そうに書いてある『永遠の命を与える神の言葉・・・』という分かったような文言を削除しなければいけない、ということであった。つまり、言葉の定義からよく説明しないといけないという意味らしかった。

我々に接するとき、人に与えた言葉とはどういうものか、を考えればすぐ分かることでもあるんだが、語る人が投げかける言葉は、聴く者、読む者が理解するであろうかと、少なくとも受け取る側が理解するであろうことを推測して書いたり、話したりするものだろう。相手がまったく、お互い納得するという共通の先理解があってのことであるはずだ。

言葉の定義について、”永遠の命”とか、”神”とか”言葉”とかの用い方なんだが、あなたは、そもそも地球人すべてに先理解として共有化されているものだと思うのかね。表面だけでも僕らのことが書かれているキリスト教の聖書はまだしも、君らの仏教や、イスラム国のコーランや、インドのヒンズー教やその他、諸々、・・・どうか。

人類の命があっての最大公約数的思考は、永遠の命や平和、みんな仲良くしよう、などであるはずだと思うが、それさえ為政者に掛かれば、姿の見えない悪い心をもった黒子がテレパシーを送って混乱させている。そういう混濁状態の中での一人ひとりの救いへ願い(本願)の発信が、つまり善なる我々への強いコンタクトが必要だと我々がつねに語っていることなのだ。心を静めて朝の祈りでも、また瞑想でも、短時間でもそのことから始めなければいけない。

”我々”と言っているが、我々の思考のさらに限りなく上位におられる方がいて、我々の思考を統括されている。ただ、自分の似姿に創造された長い年月をかけて研究されこの地上に適合するにふさわしい人を造像したことに、自己のものにしようとしたLabo(実験室管理長)の設計者への嫉妬により、自分に頭を垂れさせるべく、創造者に相応しい自立のためのウィルスを与えた者がいた。彼とその支配下のものらは地上に落とされて二度と天上には戻れない。今も嫉妬心から人殺しを行っている。

我々を知るにあたって、ぼんやりとではなく、しっかり考え続けるために聖書の言葉を宗教的な意味あい、つまり心情を絡ませることなくその言葉の意味を考え続けるならば、いいヒントになるだろう。イエスが捕縛まえに語った祈りである。彼は、我々統括者の一人息子だった。

『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。・・・世界が作られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。』(※ヨハネ伝の17章あたりに出て来ていたなぁ)

『私を見たのは、天の父を見たのである』(※これは確か弟子のフィリポが、父を示して下さいと、イエスに話した時だった。こんなに共にいたのに分からなったのか、と言われた後にイエスが語った言葉)

『わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。・・・』(※テサロニケへの手紙4章あたりだったが、こういうことが空想ではなく実際にこの三次元世界にて起こりえるということが実際周知されるには多くの時間がかかるかな)

 我々がときおりこの地上に来訪し、あるいは奇跡を起こし、最近ではようやくNASAが50年ぶりにUFOなる存在を公に調査するなど、そういう時代、時期が再来したのである。地球温暖化、飢餓、洪水、人類の危機に関しては見聞きするとおりである。

我々の後追いをしているが我々の次元ととてつもなく進んだ科学を理解するには、大変な時間を要するだろうが、そろそろアポカリプスの時代に突入し始めてだいぶたっているから・・・と。 言って突然、消えた。 3:15am

*****(以下が21日アップを中断された文)

調べられると思うの調べてみて(※1)と その管理センター設置を境に、この地球での物語を進めるべく監視をし始めて、地上に創造された人が、見本として、ある時は反面教師として、それ(※2)から学ぶか、そして私たちの世界に帰還するかは、大変な使命と思っていると彼は、真面目腐って話始める。一読して何を書いているかわからない世界のベストセラーは分からないからこそ学ぶであろうし、得たいと望むものでもあろうと。分かった時点で、さらに学ぶことが泉のように湧き出てくるらしい・・・。何しろ、ものがたりには地下水のような川が途切れなく流れていて、それが人がつくられてから現代まで、そして未来にまで続いてシナリオができているらしい。

(※1)調べられるから言っているのは、それが良し悪しの我々が地球を訪れての歴史上のことだと。別に大げさな事件ではなかったが、言わんとしたいことはささやかのことでも我々には影響を与えているということ。その年は確かに我々が大勢、地球を訪れたときでもあった。「統一教会」の創立年!、「日本基督教団 信仰告白」の制定された年、聖母マリアが世界中あちこちに顕現した年!、そしてあなたが・・・。僕らが地球に大勢おしかけた年でもあったと。周期的に訪れている。地上にいるものも多数いる。

ルシファーは創造した人を自立させんとしたのは良いが我々とのコンタクト能力迄、閉ざしてしまった。だから、地上からそのコンタクトを求めたいとの願いが無ければ、普遍的永遠の命という霊のクラウドに繋がらない、これが地上の雑音によってそう簡単ではなくなったのである。

ここで注意は、悪いとか良いとか書くことはデリケートな事なので注意が必要だ。ルシファーと呼ばれる天使の長は、創造されし人を自立させる程にも愛したが故に、その秘密を彼らに開示したという宇宙人👾の仲間がいる。そういう意味からすれば、我ら地球人は、長い時間をかけて創造主の後を追従して科学は進展してきたと言えるのかもしれない。

しかし、天上に帰還できない彼らの嫉妬心は大変なものであった。彼らの一人が憑依したのがオッペンハイマーという人であった。彼は、無論、古代に核が使われて滅びた世界があったことを知っていた。インドの叙事詩、マハーバーラタ、ラーマーヤナ。古代空中で核戦争があった様子ではないかと言われる記事があるが、彼はそれをそうだと明言した。

(※2)見本として、ある時は反面教師として、それから何を学ぶか、と言っているのは、聖書(現在の旧約聖書)から選ばれし民族(弱小流浪の民へブル人)がいかに我らにあしらわれ、我らが存在することをその歩みから人類に知らしめたと計画されたこと。Labo(実験室)で優秀だったのが彼らのグループであった。多くの雑多な人や動物が創造された。他のグループは恐竜という怪物も創造した。その監視棟が今はなくなったが、監視長がサレムの王でメルキゼデクといわれたのである。”エル”とは、神のグループの名前である。そのひとつ”サレム”は”シャローム(平和)である。それは、古代エルサレムにあった。我々の集団数はそれぞれ地上の人種に当てはまると考えるといいだろう。我らは広くは”エロヒーム”と呼ばれる。

創造された人類に理解されるか、深い通奏低音を文字で書かしめたこと。そのスタートを切ったのが選ばれしアブラハムという人であったという。それから学問的にも調べよ、聖書全般は編集されているから。それは、地上に派遣されていた黒子たちが行ってきたことなのだ。だから、調べてもらえばわかるだろが、聖書の中には、書かれた時代が数百年経過しても、同じ記事がひょいと顔をだす箇所がある天使が普通の人のように現れたり、どう考えても第三者としての神と言う存在しているといういきさつ。突然、これは何故なんだ?誰がシナリオ書いているんだ? そう、彼ら黒子は生きて存在しているのである。この日本にも来ているのだから。

ささいなことから、大きなこと。過去から今、そして未来。天上界の次元から、死の世界までの次元。限界のあるあなた達の三次元の世界から異次元の世界まで・・・。様々に形を変えて行き交う彼らがいるという。あなた方は科学という手段で我々の後追いの確認をしているのだということ。それらは意識すると分かるという。少なくとも現象で。分かりやすいのだが天上に戻れない悪魔も同様に人へ憑依し人殺しを行う事件は、なくならない。多くの人は地上の暗い反面、悪い黒子が歴史を思い通りの操作しようとしている現実を見ないようにもされている。

2022年8月、一作日でも中学生女子が、通りで見知らぬ親子を殺害しようとした事件があったな。母親と弟を殺したいが殺す練習をしてみたかったと。これは過去にもあったろう。シュバラキなる男が小学生を殺害し首を校門にさらしたとか。薬液を友人に飲ませて、死ぬところを見てみてみたかったという女子だ学生がいたとか。・・・・イエスははっきり言う。「悪魔は人殺しである」と。憑依された彼、彼女らは何をしているか、分かっていない。これをどう思われるか。

古代イエスの復活の顕現を体験し、聖霊なるものを受けた彼らは、宗教的な心情としての心の安らぎとか、安定のみを求めるだけのものでは決してなかった。彼らの精鋭は、最終悪霊との戦士をこの地上に求めているのである。それでは、今の非常識なロシアという国は・・・それは、すでにシナリオ、旧約聖書のダニエル書に書かれている。未来のことも・・・。Wikipediaにでも調べ給え、ファチマの聖母なる聖母マリアの顕現が7万人の人々にもあった。後に修道女にもなったルチアのマリアとの会話の詳細を読むことができるであろう、そこにロシアが出てくる。

あなたらのコンタクトシステムは、悪魔によってウイルスをかませられたので、永久なるコンタクトはとれなくなった。よって、地上からのコンタクトを願っているのだ、と言ったら分かりやすいか。地上は彼らのうごめくところだから、それなりのうろつく悪霊が人殺しの手段という人を求めているのだ。これを知ることである。地上に落とされた彼らは地上の基地があり、それぞれが分散して、むしろ既に人すべてに感染しているのだが、この地上派によって、永遠の命か、肉体とともある消滅の命かの戦いなのである、と。

どういう人でも創造者の神は救わんとしている、手段は選ばない。むしろ、欠陥に気付く人が神を求めるであろうから、と多くは弱い人間の縋るものと思われがちだが、受信機であるそもそも我々が、受信したいと願わなければコンタクトはとれまい。欠陥に気が付いた人ほど、それを求めるだろう。しかし、ここにも悪魔はいる。ご先祖の霊が悲しんでますよ、とか話し。イエスを誘惑した時も神の言葉を用いたのだったから。難しいことはない。善なる普遍としてある霊的な命の始源のクラウドに繋がること。それである。介在物は一切いらない、それは上から来るものである。

古代の教父アウグスティヌスは、僕ら人間は、神のもとに帰らなければこの地上で心が休まることはない、と言ったそうだ。あなたの田舎の寺の住職は、家庭にあるお仏壇は仏さんが住んでいる霊的クラウドに対して、そこへのポートをその場所で開放して、繋がっている場所であるとも言っていたが。例えとしては間違っていない。この地上に生命を受けたのは、その永遠の命の霊的クラウドに繋がるべく、宿題を持っているということなのである。ここで、イエスが十字架に掛けられたことは、実にひとりひとりについて重大なことなのである。死なれてから、この三次元の世界で復活したからである。彼を信ずるという契約で、信じた者は復活する。その時点以降、普段の残りの人生が修行と言えばいえるだろう。

僕らは、すでにこの肉体そのものが、受信機であるからにして、日々その点検をすべく過ごせばいいという。介在物は何もいらないのが我らの見解であると。あぁ、神との会話。あらゆる手段で我々は地球人にアピールしているんだが、そこで良しとしているのは、地上の宗教の限界なのだな。我らが望むのは、霊的にぼんやり、ではなく、しっかりとしたリアリティーを持って、霊的肉体しっかりもってこちら側とのコンタクトを採り我々とともに生きる、とされるそのことを願っている訳なのだ。そのことだけでなのある。

あれとか、それとか、ぼけ老人が物忘れのように書くのは、あぁ、あれのことかナとか、それのことかナとか、読者個人が推論していただくと私は嬉しい、とにかく個人で考えることが大切だからな、と言いつつ続けて彼は話を続ける。

 今まで、宇宙人とか、黒子とかと言って書かせてきたのは、全て生きているものの通奏低音といったらいいか、地上に派遣された宇宙人👽の階層というか、働きが違う彼ら多数いる派遣者なのであって、思考階層の違いと言えばいいか、肉体が、つまり頭脳がその状態を望めば、それに見合った宇宙人👽の霊的アピールしかそちらに行かない、ということなのだ。

それを例えで話してみようと思うが分かるかだが。前に話したように、天上界には普遍の霊的クラウドがあって、地上では、そのブラウザーが監視棟として電波を出しているとする。肉体が受信装置であるとする。wi-fiで電波の行き届かないところはすでにないと考え給え。人が生きてるところは、電波が届いているということであるから。

受信具合が悪いのは、君らの方の責任だということになる。というより雑音がすごいのである。人によって受信具合の良し悪しはあるだろう。けれど、霊的にいつも繋がっていなさいとは、感度をよくしようということ。つまり、肉体をそれに合わせ備えよということ。肉体が障害となっているのは君らが毎日、感じていることでもあるかもしれないが。

肉体をそれに合わせ備えよとは、それが宗教によっては、肉体を酷使する修行があるというだろうし、座禅で只管打坐というかもしれないし、それはお経なるものを何べんも唱えよ、ということにもなるだろうし、お遍路をする場合もあるだろうし、瞑想だとだけという者もあるだろう。しかし、詰まるところ誰がそれやるのかといえば、そう思った人なのだな。

けれど、もともとは、人は神の息(霊)を吹き込まれていきたわけだから、何もしなくてもそのままでいいわけなのである。つまり、普通の人。なぜ、修行するかと言えば、地上での肉体は酷使しないと自己の中での精神が肉体を超えようとの自意識が働かないから。人が神に対してそう自覚し始めてからのことなのだ。我らが要求したものではない。

しかし、霊的クラウドの階層に繋がるには、地上でのコンタクト手段は必要となるだろう。仏教では”マントラ(真言)”やキリスト教では”主の祈り”など。しかし、永遠の命に至る道は、世界のベストセラー聖書にしか書かれていない。他の宗教では、最終、そのコンタクトは途切れてしまうようだ。なぜなら、人が創造され霊の開示と証明をイエス・キリストが肉体で行ったからである。宗教的な心情でとらえないで欲しい。これはシステムである。契約なのである。これは、大切なもとなので、おいおい語っていくこととしよう。天上に帰還できない地上にうろつく霊が多数ある中で、イエスの言葉を多くの人は簡単に解釈してはいけない。

『自分の命を救おうと思う者はそれを失い、福音の為、私の為(イエス)のため命を捨てものはそれを得るであろう。』とは、そういう霊的次元の言葉である。これも注意しないと地上に権限を集約するような悪魔が入り込む言葉でもあることは察するだろうが。色即是空(般若心経)とか、肉の思いは死なり(聖書)などの言葉の方が解りやすいかもしれない。つまるところ、受信派を精査するこちら側の肉体の整えのことである。

そういう永遠のクラウドに繋がっている人も初めからこの地上にはいる訳。つまり肉体は死んでも、永遠に霊的に生きるという人が居るわけである。今も実際にいる。

最後にこのことを教えよう。

エロヒームとは、へブライ語で「天空より飛来した人」を指す”エロハ”の複数形で「天空より飛来した人々」という意味である。

・・・そろそろ時間だ、と言って突然消えた。 21日 4:12am・・・


(その3)ひと月前の宇宙人👽が再来:管理センターができるまでを話に❣

2022-08-20 21:21:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 突然に(その3)とは何たる意味かな? ひと月前の宇宙人が現れた。先月の25, 日、26日だったかな、というが今回は先のその(その2)からの続きであって、昨今の宇宙人👽と違って役割があるのか、顔をはっきり表せないので、なんと言ったらいいかその口調と言えばいいか、声の調子と言えばいいか、といっても物理的に聞こえている訳ではないようなので、それこそ心の耳で聞くということになるのか・・・。

いずれ、何故に午前2時ころに現れるのか、と思いきや、それは地球の磁場と宇宙派の揺らぎか、太陽風の揺らぎが、とにかく、レム、ノンレム睡眠とかのつまり、浅い眠りになるのが大体そのあたりの時間なのだそうだ。だから、昔から怪談では”草木も眠る丑三つ時・・・”ということから話しを始めるのではないの? と言う。曰く、そういう怖いお話も、それにはきちんと理由があるのだということを言いたいらしい。つまり、自然の動きに僕らは同調する、させられる生き物でもあるということなのだ、と。

日中、体調がすぐれんのだよ、あれ(コロナ)に掛かったんかな、いやいや、そんなはずはない。考えると君らが深夜に来て起こされるから寝不足が原因ということが推察された。そういえば最近、日中、眠いのだよ、君らが来るから・・・・

とりあえず急ごうと。今回のことは、ベストセラーには確かに書かれているが地上のベストセラー聖書の専門家、いわゆる神学者や牧師に尋ねてもおそらく詳しい説明はされないだろうことを先に言っておく。

今書いているこのことは創作ではなくて、実際、聖書を読んで、これ誰なん?? と考えてみて欲しい。これぞ、とても偉い宇宙人👽?らしいのだ。その方のお名前はメルキゼデク。先に手短に言っておくと、といいつつ急に関西弁調になった。で、その個所。

******

創世記14:18-20「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクもパンと葡萄酒をもってきた。彼はアブラム(まだ・・ハムになったいないが後のアブラハム)を祝福して言った。

「天地のつくり主、いと高き神に

 アブラムは祝福されますように。

 敵をあなたの手に渡された

 いと高き神がたたえられますように。」

 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

*******

ここに書かれているメルキゼデクとは誰なん?? 教会へ行って訊いてみいや! 昔、むかしのアブラハムより、どえらく偉い方らしい。アブラハムでも最上の戦利品の十分の一捧げものをするくらいだから・・・。

ところが、この方が新約聖書の後半のりっぱなギリシャ語で書かれている”ヘブライ人への手紙の7章”に再び詳しく説明されていて、イエス・キリストにも等しいお方であると詳しい説明が書かれておる・・・が、正体不明の方なのであります。ジャジャーン!

サレムの王と言われる方、神?。サレムとはシャローム(平和)のこと、この創世記そのサレムの王メルキゼデクが、新約聖書のイエスにも例えられて、そのヘブライ人への手紙7章に詳しく書かれているんだな。この箇所は、へブル人であるから自分たちの遠い昔の話の先理解の話で理解されるのであろうけれど、どんなに偉大であったかと・・・。こんな具合に

「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって永遠に祭司です。」(7:3) 

などと書かれ、やはり一体だれなん? という疑問を持つのであるけれど、だれも説明不能なのである。教えて~~ください!。

・・・と僕は以前から気になって仕方がなかったのだね。そんで、彼(宇宙人👽のこと)曰く、急に厳かになって、

******

その方は善なるセンター長である。地上に置かれた管理センターのBig Bossの控えめなる名前はメルキゼデクという方であったという。この辺からしこたま(大変)小難しいような話になったのだったが・・・以下、その内容。

天地創造の始まりに、まず、天上界での人造りにラボ(実験室)での試験があり完全につくられた人があったのだ。人だよ、人の創造。

しかし、それはそれで、いくら精巧につくられていたとは言え有機物。死ねば単なる生き物の死骸、ゴミになるものだった。無論、すべての者は人といえども再生されるからゴミになるとは地球(地上)での言い方。・・・で、生きて動くための肝ともなる「息」が吹き込まれて完成した訳なのだった。「霊」である。

ここが大切。世界のベストセラーは、実はこの息、霊とも言われるこのものが、どこに繋がって人が地上の生涯を送るかにかかっている、と言っても過言ではない。まず、このことを頭に入れて欲しい。このことだけなのだ、つまり息、その霊のことと言い切ってもいいのだな。
 
天上界の完全にな「霊」に繋がっていれば、地上の肉体が滅んでもまた、天上界の世界に帰還できる。けれど、それから繋がりが途絶えてしまえば肉体とともに「霊」も消滅するという訳である。神は、天上界に帰還させるべく人を地上で選んで、ある人には試練を与えているとうことらしい。だから、僕らは気が付かないけれど、そのようにもともと地上に生を受けるときに、宿題が与えられているということ、その当事者は分からないものだけれどね。
 
地球にテラリウム試験場としてエデンに、自分の似姿に完全な人を創造し、これでよいと置いた訳。創造ということは「息(神の霊)」も吹き込んだということ。そして、人は生きるものとなった。
 
ところが、ここにフライングが生じた。天上のラボでいよいよ、地球に置かれた人を「霊」の繋がりとして生活させようとした時に、一番大切なそのオペレーションシステムにウィルスを仕込ませたのが、なんと、ラボを一括管理させていた実に優秀な天使の長だったのだな。
 
実に余りに完璧な「霊」を吹き込むと自活する人の神の創造に嫉妬したのが、後に地上に落とされた堕天使となり、その後、彼は天に帰還できなくなって悪魔と呼ばれるようになったそれなのである。
 
詰まるところ、永遠の世界に帰還する、ということは、肉体が朽ちても死んでも生きる、ということ。今生でその人の「霊」が永遠のそのクラウドに繋がっているということ。これに繋がらないと肉体が死ねばその「霊」も行き所が亡くなって死ぬということ。だから、自意識のあるうちに繋がりなさいと言われていることなのであるな。
 
地上にいる悪魔が、永遠の世界への帰還の邪魔をし、なおかつ、地上の創造されし人に不具合を発生させ、ひとりでも多く死に至らしめ、天上の永遠の世界に入れさせないという、欲望があるからなのだ。彼はそのためにはあらゆることをするのである。これは、君らが今も地上で、人の不慮の死を見る時、彼らは盛んに働いている。
 
だいぶ話がそれたが、天上から遣わされた地上の管理センター長。これからの地上のコーディネーター。プロデューサー・・・。地上に人があふれ出て来はじめ、これから、又、新しい演出、進行をおこなうべく、アブラハムを選んで、その司令塔ともなっていたのが、サレムの王となられていた方なのであった。何しろ、ごちゃごちゃと実に多くの雑多な神々を拝むようになってしまってきたからなのであった。
 
新しい時代の始まり・・・その祝福に現れた方。

マルコ(その4)あぁ、愛すべきマルコ

2022-08-19 09:00:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

   レオナルドダヴィンチの描いた「最後の晩餐」の家は、マルコのお母さんの家だったろうと言われています。絵とは違って実際は、寝そべって食事をするのが普通でした。左側には体を傾けている女性のように描かれている人がヨハネで、聖書ではイエスの胸元に頭があったような配置が想像されますから、女性のように描かれた絵のヨハネをイエスの横に右にずらせると、ちょうどイエスの左肩に頭を傾けているように見ることができます。ヨハネ伝では、自分は愛された弟子であったと書いてますから、この辺も性別関係なくその辺を何等か暗示させている絵なのかもしれません。

ペテロが牢獄から天使が解放された時、立ち寄って扉を開け皆が祈っていたのを見たのもそのマルコの家だったろうと思われます。おそらく宿屋など営んでいたか、弟子たちの集会所になっていたものと思われます。(聖霊降臨が起こった場所も、この集会所ともなっていたであろうマルコの母の家だったという言い伝えです。)

さらに、パウロとともに伝道をした皆から慕われていた教師であるバルナバは、マルコのいとこであった、と書かれていますから、マルコは小さな頃から熱心に聖書(旧約)のことは学ばされていたことでしょう。(レビ族<神職>の家系といわれる)

バルナバはマルコに語る。この方が救い主であろう、目を決して離すことがないようにと言われていたに違いありません。12弟子ではなかったマルコは、第三者目線でのイエスの生涯を見続け、初めての福音書記者となったことになります。最終は、ローマに向かったペテロに付き従いもしましたから、ローマの信者達の依頼で永久に記憶が残るようにとの願いもあり、ペテロからよく話を聞き及んでそれで福音書を書いたというのが定説です。

最後の晩餐の夜、イエスと弟子たちは食事を始めた。この過越の食事をするという、教会の聖餐式の土台となったその場面を初めて書き表したのが、第三者目線のマルコだったということになります。・・・弟子達は、ここでそのまま休むであろうとマルコは思っていたのでしょう。その後、疲れて早めに床に入ったということが想像できます。・・・ところが、物音がしたかと思うと、食事をしたところには誰も居ない。(以降、少し想像が入ります。)

イエスと弟子達がそそくさと宿から出かけ、ゲッセマネの園の方面に歩いて行くのが見えたので、床からの起きがけにそのま毛布を裸の体に巻き付けて急いで追いかけます。あるいは、眠りこけてしまってかなり探したのかも知れないが、いつも外で祈る場所は決まっていたので、マルコはそこに向かったのだと考えられます。・・・やはり、彼らはいました。といってもそこに居たのはイエスの他、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外は解散とともにそれぞれの家に帰ってしまっていたのです。

ゲッセマネの園でイエスは血の汗を流すように、今までにないような非常なる恐怖を感じている祈りをしているのをマルコは見ます。しかし、付いてきた弟子達は疲れで眠りこけていた。イエスに二度も起こされるが、三度目に戻られたイエスはまだ眠っている三人の弟子に声をかける。「・・・時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マルコ伝14:41-42)・・・この後、イエスは捕縛されます。

ここに、初めて読むと何の事かと思う二節が挟み込まれています。これが、後から追いかけ第三者目線で見ていたマルコその人であろうと言われて居るのです。付いてきていた弟子達は、眠りこけていたのですから、イエス捕縛以前のこの時間は何も見てはいないのです。

その二節は、その場から、一人の若者が逃げると題して書かれたところです。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについてきていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ伝14:51-52)  

無論、これは学問的には推論の域をでません。しかし、これは創作ではない、現場にいて、見ていた自分マルコが書いているのだ、とその事実を当時、読んだ誰でもが、確証としてその挿入文を承認していたのであろうと思います。 

幼い頃から皆に愛されて育ったマルコ。その福音書は、あまりうまくないギリシャ語で書かれていると言われます。パウロとともにバルナバはマルコをつれて伝道にでかけますが、厳しい現実にマルコは一人エルサレムに帰って、パウロに叱られたりし、その後、バルナバに連れられパウロとは別れて伝道をしますが、後年、ギリシャ語ができたヨハネ・マルコは、ペテロに私の息子などと呼ばれ慕われて、ペテロやパウロの伝道を大いに助けたのでした。 

使徒ペテロよってエジプトのアレキサンドリアのに派遣されて初めてそのちに地に福音を伝えたとの言い伝えがあり、そこで殉教したと言われています。『マルコ(Marcus)は、<重い槌>を意味するmarcoから来ているとも言われている。英語ではMark. 』・・・


マルコ(その3)宇宙人👽が戻って来た❣ 僕らに大切なことを伝えに。

2022-08-18 20:51:33 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 彼👽が来るのは、たいてい午前1時から3時の間だ。あれからすぐに戻って来て、とても大切なことを言い忘れたのでと言いつつ次のことを語りだした。・・・僕も眠かったので、ぼんやりしていたが後で思い出したので、そちらの方も大切だと思うようになったのでそのことを書き留めておこう。******前回からの続きとして

第一に彼マルコが、尻切れトンボのように話を終えたのは、文字や言葉で書き留めたとき、それは人の頭では過去のものになっているからなのだな。生きた事象を語り、それが生きているという実感を誰もが内から思って自己のものにするには、語らぬことである、としたことであったのだ。

どこで会えるのか、それは、彼女(マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ:マルコ伝には調べたらこう書かれていた)らが、きちんと天使(若者)に言われたことなんだが、墓に葬られたはずのイエスの体がなくなって、びっくらこいて恐ろしくなっていたところに言われた言葉にある。

天使(若者)は、空っぽになったお墓の前で彼女らに、「さぁ、行って弟子たちとペテロに伝えなさい」と語っているんだ。その次、

「あの方(よみがえったイエス)は、ここにはおられない。あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。

よみがえったイエスには、そこで又、会えると言っているんだ。ところで、福音はガリラヤという場所から、始まったのだったねぇ。そこは、ペテロやその他、弟子たちの普段の生活の場所でもあったのですね。そこで、会えると言っているんですよ。

(※だから2022年経った今も礼拝でのイエスの物語は毎週、福音書が語られる時はガリラヤでのイエスの話が語られるという、ループ状の入れ子状態になっているという訳らしい。今も生きたイエスにはそこで会えるということらしい。)

ガリラヤで会える。これは、『日常の場所で今も僕らもよみがえったその方に会える』ということを言っているんだ。繋がろうと思えばですよ、いつでも。2000年の時空を超えて、今この時に・・・。このコンタクトが大切だ、と言っているのが「求めよ、さらば与えられん。・・・」なの。昔の話でだけでなくてね。

確かによみがられてから40日間、イエスは弟子たちと普通の生活をしたのです。むしゃむしゃと弟子たちと一緒にお魚を食べたりして。そして、又、「再び、必ずあなた方を迎えに来る。私は見えなくなるが、聖霊を送るから、それを受けなさい。」と言われて天に昇られた。

その後10日して一同が集まっているところに「聖霊」が降ったのです。それが、あらゆる地方から来た、宗教に拘わらず、人種拘わらず、言葉もそれぞれに語りだし、という、周囲からは朝から酔っぱらってんじゃないのか、と勘違いされるほどに・・・。

普段、これは僕らには見えないし、言葉や文字にもできない。感情として、感覚として湧き上がるようなものと言ったらいいいか。もし、このことを聞いて何か感ずることが湧いてきたら、今月はご先祖様のことを思う月でもありましょうから、すべての命ある人々はその霊のことをよく考えられるといい。多数うごめく霊に、ご先祖の霊を慰めるのではなしに、あなたが聖霊につながって、無論、ご先祖のDNAを引き継いでのあなたの存在である方々が殆どでしょうから、真理の霊に繋がる信仰をもって生涯をおくれば、今までのご先祖の霊も永遠の世界に行けるでしょうということ。

ここで注意は、霊感商法のようなものではまったくない。しかじかだからこれが必要だ、などということは、この地上にては絶対にないのです。まったく、上からの来るものだから。ここに悪魔は大いに介入したり抵抗を示し、あがらうのだな。人の世界に落とされた悪魔は見せかけの天使に変貌するんだ。君が最近の事件で見た通り。悪魔は人殺しである、とイエスははっきり言われたのだ。

命をもたらす途切れない聖なる永遠にある霊界クラウドに繋がろうとすること。これに繋がっていなさいと語っている訳。wi-fi電波を5G以上に挙げるべく、受信装置でもある身体や考えを整えておきなさいということです。それが、一点、絶えず祈れ!と言われたことなのだな。彼はいるんだよ、気が付けば今も。

しかし、肉体のある僕らにはちょとやそっとでは分かりかねる。媒介となる自分の肉体の中に実に多くの障害物を抱え込んでいるからね。そこには自分でのどうしようもないDNAの生涯もひきづっているからねぇ。自己の省察が最も障害となるものなのだ。この障害は、うろつく霊が雑音となってかなり邪魔をするからな、だから戦いはこれとの戦いでもあるわけだ。(「自分の命を救う者はそれを失い、私の為、福音の為に命をすてるものそれを得るであろう」という何のことやらの意味はそういう次元での言葉。)だから、再び、2000年後今も、ガリラヤでの彼の話を聞くことが大切となる、という彼が再来するまでの循環。

人生疲れが多くなる。だから繰り返すがその時なりふり構わずそれを求めなさい。天使(若者)の声がその時、きっと聞こえてくるだろう。

「よみがえったイエスには、ガリラヤでお会いできるであろう。」と。その時、イエスがぼ~と、傍に立たれておられるのをあなたは感ずるだろう。きっと。*****

おおよそ、そのようなことを話して宇宙人👽は帰っていった。 ・・・

 


マルコ(その2)語っても理解さない物事の事象をどのように語るか:宇宙人👽はこう描いた。

2022-08-17 03:13:56 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 アルブレヒト・デゥーラーの描いた「四使徒」という絵ですが、左から、ヨハネ、ペテロ、マルコ、パウロが描かれています。僕は、この絵が好きですね。新約聖書を読んで、それらを記述したと言われる人を想像したときに、おおよその人柄をも著した人物として描かれているように思うからです。

新約聖書のイエスの物語は聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順番ですが、そしてそのような順番となったのも意味のあったことなのですが、実際に書かれた順番といえば、早くて紀元50年頃の書かれたと言われるマルコ伝が最初で、マタイ、ルカ、ヨハネ伝の順番です。人生に例えると、マルコは少年、マタイは青年、ルカは壮年、ヨハネはとても長生きし長老という感じです。

マルコ伝は、福音の初め、と書き始め、マタイとルカはそれを参考にもっとお話を追加して書かれたと言われ、同じ視点からという意味で共観福音書と言われます。マルコが口火を切り、マタイは同族のユダヤ人向けに、ルカは異邦人のギリシャ人へ、最も長生きしたヨハネは、ロゴスなどというもっと内面の全人類へのメッセージとしての普遍的な広がりを持って書かれているように思います。

黒髪でくりくりの目で、前歯を出してパウロを見ているマルコは、名前の響きからも僕のイメージにぴったりです。12弟子の中にはマルコはいないのですが、最初に福音書を著したマルコは、福音書ばかりでなく、その後に書かれている手紙にも時折、顔をだして、学問的にはまったく成り立ちませんがそれを深読みし繋げるとなぜが、小さなころからの性格までが何となく理解できるような気がしてきて、親しみを持ってしまいます。

マルコ伝だけではありませんが、現在読める聖書の細かな解説を読んで実際、疑問に思う箇所も多々あるのですね。取り上げてお話した箇所はマルコによる福音書16章1節から8節でした。イエスの復活する場面ですが、実際、マルコは、イエスの復活後マグダラのマリアに現れたとか、二人の弟子に現れたとか、弟子たちを派遣する、とかの9節以降の文章は書かれたギリシャ語からも分かるものでマルコの死後、後から追加されたものであるというのです。

実際、マルコがどういう文書で終えていたかというと、8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という文章で終わらせているのです。ここでマルコは、福音書を終えていたのだというのが学問的にも定説となっているのです。

さて、読者はどう思われるでしょう。ミステリー?

ここからが、読者の現在の(読んだ時点での)霊的感性を、つまり語られる善き宇宙人👽からのメッセージを受け取る完成を研ぎ澄ませてください。僕が彼から教わったのはこういう事でした。今月は、ご先祖の霊が帰って来られる月ということですから、より理解しやすいかもしれません。

彼が福音書を書いたのはイエスが天に帰られてからおおよそ20年後であったことになります。当時、イエスが十字架に掛けられ亡くなられてからよみがえり、40日間弟子たちと過ごされ、天に昇られ、その後10日経って聖霊が降った。よみがえりから50日目なのでペンテコステ(ラテン語、ギリシャ語での50)をお祝いするが、その聖霊体験をした人々が当時、マルコが福音書を著した時には、まだ大勢いたのですね。

イエスが語られた真理の霊、父なる神の霊、イエスの霊、それらなどは、いくら他人から話されても分からないものでしょう。マルコ伝をはじめて読んだ人は、聖霊体験していない人は、そこで途切れている福音書に疑問を持ったのではないでしょうか。体験した人々に尋ねるのではないでしょうか。あるいは、もっと知りたく思うものではありませんか。第一、死んだ人が復活したなんて。復活して天に昇られ、代わりに聖霊、神の霊が降ったなんて。彼は霊として生き続けているなんて・・・。

疑問とは、誰かれがもつものではなく、自分がもつもので、答えを得ようと不快に思う事象となるものでもありますね。マルコの狙いはそこにあったと考えます。マルコがというより、善なる宇宙人👽からの促しによったということですね。

『語っても理解さない物事の事象をどのように語るか』

当時、その答えを体験していた人々は大勢いたのです。ですから、その表題の答えはマルコは『文字としては語らなった。』ということになります。つまり、以降のひとたち、今の僕らも含みますが霊的体験として、聖霊としての彼は今も求める人には答えをくださるというのですから、聖霊として生き続けておられるというイエスの霊を求めることです。これは、漫然としてではなくやはり、それは恐怖を覚える体験でしょう。僕らは生きて霊をもっている訳ですから、異界を感じた時の恐怖です。

『求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて、求める者は与えられ、捜すものは見出し、門をたたく者は開かれるであろう。』

これは、まさに、『聖霊!』のこと、それは、父なる永遠の命の宇宙センタークラウドとのコンタクトをし続ける強く清い霊派のことでもある。なりふり構わずそれを求めなさい、と。人が創造されたが、コネクトされえなくなった(バージョンアップされなくなった)人類が、永遠の世界(それは天地創造以前からあるものですが)に入るための、大切なシステムを回復するために。天の父は求める者に、必ず与えてくださるのです。(ルカ伝11:13) 彼は目には見えないが、今も聖霊として生きて語っている、ということです。・・・それは、分かりますよ。

それでは、時間です。私は帰ります、と宇宙人👽は消えた。 5:00am