marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅶ>姿を現した黒子たち:宗教を制する者は人身を制する・・・親愛なるXへ(その7)

2022-05-17 14:28:19 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるX 僕がブログをお休みにしているような時でも、僕はいつも黒子のことを考えている訳で、彼らは姿は見えないけれど僕らのそばにいつもいるものだから・・・。そして、それぞれ誰でもが気がつかないだろうけれど、それぞれのそばにいつもいるんだよね。

それは体の左肩の後ろあたりに。だから、というか、”見返り阿弥陀”という仏像を知っているかい。左後ろを振り返っているだろう。右ではないんだよ。ハンサムボーイの阿修羅像とか怖い顔の愛染明王とか、その他あるだろうけれど、横にも後ろにも顔を持つ仏像さんがいる。僕らは目は前に二つ、けれど横はまだしもうしろは鏡など使わないと見えないな。その見ない処に・・・そんな顔の像を造ったのは何かの気配、兎に角、見えない空間には何かが居ると感じていたからなのだな

黒子、彼らは守護神のように善いのも居れば、憑依して欲をその人間にこの世で満たそうとする奴らもいる。肉体が死んでなくなるとその善いも悪いも浮遊して、他を探すわけである。生きている人の思いに相応しい霊という黒子が自己実現に適応するその肉体に憑依するという訳なのである。仏教では輪廻転生が背後の底辺にある教えなのである。六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天国)をぐるぐる転生して生まれ変わるというのである。

そんな像もあるのに、万能である阿弥陀さんはどうして振り返られたお顔の像が造られたのか。それは心情的に解釈すれば、それほどまでに阿弥陀さんはぐうっと人間に近くなられたということだろうし、後ろを振り向かれて、もう衆生から浄土の世界への救いに漏れた人はもういないだろうな、と確認されておられる姿であろうという意味が込められているということなのである。(阿弥陀如来はキリストのことを指している、という学者さんもお在られる)

しかし、ここまでの話は、そのようだ・・・とか、これはこうだとか、思考の対象化があってのことで実際にどうかは検証ができない。しかし、検証できないが人の歴史を通してそれを思い巡らて見よ!と検証可能を示唆する宗教もある。

◆鎌倉時代になり宗教は、鎮護国家の為から衆生の救いへと変貌したのは、それが本来のあり方(源)であるとの黒子たちの思いであったからだ。彼らは古代、その後に入り込んで天皇をよいしょして国策を練った後発組とは異なって居たわけだ。しかし、後発組は、歴史の隣国での争いの中でこの島国が、ひとつの国家として同一化を諮らねばならないという強い思いがあったためでもあったのだが、その統一を諮らんとして天皇という政治的仕組みに道筋を付けたのは、紀元前あのペルシャからローマ時代にかけて東に離散した失われた10部族と言われた流れにそのDNAを持つ、日本に渡来し帰化して日本人になったユダヤ人の血をもつ多く民族だったのだな。唯一神の神道として定着する。

むろん先に来ていた部族の方が旧約の教えには純粋だったように思うよ。鹿島や香取神社を作り、体制に邪魔に思われた神は諏訪に飛ばされたけれど。黒子以外の純粋な彼らは関東に多く住んでいたのである。彼らは天狗とも呼ばれて浸透した。さらに神から割り当ての地を与えられなかったレビたち、彼らはそれぞれの統治者に神の御神託を伝える者たちであった。あの鎌倉時代、体制からはじかれた彼らは修験者となって、山形の今でいう出羽三山に集結(八千八坊と言われた)して修行を兼ね、神の御神託を受け、体制側であろうと大衆側であろと神が時代にあるべきことをこれが神意と応援したのである。ある時は源義家に加勢し、ある時は平将門に加勢し・・・。要するにこの時代から黒子の政治的ストリーが背後で行われていくようになるのである。歴史を動かすには時代の寵児が必要なのだ・・・と時代の歴史が統治者目線で黒子たちは背後で画策していくのである。いずれ、時代を動かすきっかけとなったのは武士、関東武士たちだったのだ。

◆神社の奥殿のご神体は鏡を模しているだろう? あれは天地を創造した唯一の神の具現化として太陽を模したものだ。アマテラスが太陽神と類似させられるのは故無きことではないな。あの旧約に書かれたモーセは、当時のファラオが従来の神々から唯一の太陽神に切り替えたことの政治的騒乱の時代に乗じて、イスラエル人はエジプト脱出を画策したというのが真意らしい。唯一の神と万物の生命エネルギーを与える唯一の太陽といういうイメージは当時マッチしたのであったのだから。

モーセに遡るエジプトの大臣にまで昇りつめたヨセフはエジプトの宗教を順応しなければならなかったけれど(それで彼は死んでミイラになったし、父親であるあの12部族の父親ヤコブもここでミイラになったのである)地上におけるそれぞれの人が持つ宗教性を超越して、人類は創造されし天の故郷に帰らねばいけないとの暗示をしている物語なのである。ヨセフは父ヤコブが死んで、あのカナンの地エルサレムに葬りに行き、自分が亡くなっても、必ずや神があの地エルサレムに上らせてくださるであろうと兄弟たちに遺言を託す。

350年以上近く時代も過ぎヨセフを忘れた代々のファラオは、多くなったイスラエル人を奴隷として扱っていく。そこで神は、モーセを起こすわけだ。モーセの十戒と紅海が割れてのエジプト脱出を知っている方もお在られるだろう。そのエジプトでミイラになっていたヨセフの遺体を彼モーセは脱出時に紅海を渡り、遺言どおりカナンの地に運んだのであった。その脱出時に起こったのが、神を信じた者達を救済したあの出来事、彼らイスラエル人には”死が過ぎ越す”とされる「過ぎ越し」と言われる出来事であった。地上における宗教なぞはそれぞれあろう、しかし、我らが死後に目指すのは天地創造来のあの永遠の故郷なのであると。

時代は下り、世界に流布した”聖書に書かれたのは私のことだ”と言って死んで、それからよみがえったと言われる男がでてくるのだ。モーセが書いているのは私のことであると。彼が死んだのは、古代から過ぎ越しの祭りとして祝われて来たその時節であった。それから2000年以上もたったのに彼は、信者の心に今も生きている。否、実際、目には見えないが神からの善なる黒子として生きているというのである。イスラエル人が過ぎ越しの時に食べた種入れぬパン、死が通り過ぎる目印としての家の入り口の鴨居に塗った血(これが日本の神社の赤い鳥居になったのだという謂れである)。今でいう教会での聖餐式のはしりとなった。イエスが十字架で死ぬ前、弟子たちにパンを与え、血の象徴としての葡萄酒を与え飲む。「これが私の体である、これが救いの為に十字架でながされる私の血である」と。

◆国の作りに関しては、非常にその政治画策する能力が優れていたから各地の豪族たちを蹴散らして、あるいは優れたまとめ役だった大国主などを出雲に封じ込めて、日本書記などを作成してこれが日本の歴史であるなどと歴史上に筋道を立てたというわけであった。その中で秀逸だったのは背後にいた藤原不比等である。そのような能力と芸当ができるのは、大秦(ペルシャ、ローマ)から流れてきたDNAを持つ彼らだけであろうと思われる。

旧約聖書(彼らにとっては聖書)には歴代誌や列王記などという兎に角、文字で過去から未来に渡り、なおかつ今というその時代も人民の支配から、また神からの啓示をいただいて未来をも物語るストーリーを文字に書き著わすという非常に優れた能力があったからなのである。そうでなければ、捕囚にあった彼らが、敵国のその国に大いなる貢献も施し政治中枢部にも入り込んで、自国に帰ることなど出来なかったであろうと(ここで母国に帰らず東へ向かった多くの部族があったのである)。古代、彼らは捕囚の地からイスラエルという現在の地に神の約束どおり帰って来る事が出来たのであった。エズラやネヘミヤ、あの第一イザヤも敵方の中枢に入り込んでいたのではなかったか。中国の秦(しん)という国に出てくる呂不葦という男はレビだったと言われる。始皇帝もユダヤ人だったのではないかと。

彼らの先祖は、政治を発揮するには法律を作り、そう東へ東へと来る途中で彼らは秦(シン)という国を律法で統一させCHINESE(英語で中国はシンからきている)、焚書坑儒でいらない文書は抹消し、これも厳しすぎたか自由を求めて漢が起こり・・・と。王が暴君となって衆生に目が配らないと見ると、その国さえも見捨てる。彼らには人を創造した生きた神の声を聴く能力があったのだから。そして、更に東の島国に来て体験を積んできた彼らはその経験を用いて理想の国作りに励んだのが日本という国であった・・・。旧約聖書には彼らは東の果ての島々までいって、木や石の神々を拝むであろう、という記述がある。

◆不思議な一族、藤原の家系は古代のモーセの律法を知っていたと思われる。藤原三代はミイラになって平泉に今も眠っている。(彼らは即身成仏というより、エジプトのミイラを知っていたのではなかったか。修行僧として死んだのではなかったのだから。)大宝律令、養老律令を成立させ、その刑罰で図る政治統一。さらに仏教をも手中にしようとした。それはの人身を制する手段としては唯一の教えとなった。平等院鳳凰堂などは藤原氏個人のものである。春日大社も。国中にある大社にタケチミカズチなる神を派遣するのは彼ではないか。菅原道真を飛ばしたのも彼ではないか。官僚の腐敗を漢詩に含ませた柿本人麿を刑死させたのも彼ではないのか?蘇我の聖徳太子の一族を滅ぼすよう画策したのも実はご先祖の藤原鎌足ではなかったかと言われる。

それが時代を経るにつれ、本来の大衆の救済に向かう鎌倉仏教として成立してくる時代、それは鎌倉時代であった。本来、後から作られた天皇の存在、それはそもそも国家統一に利用もされてきた関西以西の物語から、古代先に来て東に向かって歩んで住んでいた渡来帰化人のいる関東が武士として起こり(まさに源)、本来の大衆に向かう神の救済を望む彼らのDNAの心情に沿ったものだったからである。宗教は鎮護国家から、本来の衆生救済に変貌して来たのである。今や体制側に陥った延暦寺に学んだ、法然やその弟子、親鸞も在野に降り救済は衆生へ向かったのだ。法然の両親は、渡来帰化人の大いなる技術集団秦氏の継続に属す。父は漆職人の漆間国時、母は機織の錦織であった。秦系であったのである。弟子の親鸞は。漢文でマタイ伝を読んでいた。すでに漢文で隣国では空海のいた時代には基督教も大いに栄えていたのである。

ここで、聖徳太子のブレーンでもあった秦河勝。大いなる技術集団秦一族は、紀元前に国破れ東へ向かった一団であったが、先祖伝来、聖書に言われてきた基督が聖地に生まれたことを伝え聞き基督教に回心した。ネストリウス派キリスト教徒となったのである。しかし、今も基督者がそうであるように政治には決して直接の介入はしない。伝道を第一の旨とした所謂、大衆伝道者の信条を持ち合わせていた。日本中にある八幡(はちまん)という名前が至る所にあるのはなぜなのだろう。八幡神社は秦氏が創立の基をなしたものである(ヤー・ハタ)。稲荷神社もそうである。つまり、日本中に唯一神として八幡を伝えたのだった。神社ばかりでなく、いたるところの土地や山の名前にも・・・。鎌倉幕府の崇拝した社(やしろ)は鶴岡八幡神であったのは周知の通りである。

◆2022年今はちょうど復活節にあたる。キリストが十字架上で死に、よみがえった。2022年では4月17日、復活祭(イースター)、復活したイエスは40日間弟子たちと過ごし天に昇られた。そして10日後に約束通り、聖霊が信徒の間に下ったのであった(50日目:ペンテコステ)。人を創造せし、誰しもが永遠に招いていると言われる神の声が全世界に広まる教会の誕生日と言われている。今年は6月5日にあたる。・・・