marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その2)坂口安吾と矢田津世子

2022-07-29 09:45:15 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 22歳の時の写真と言われる。将来の夢や希望や人生の悲哀なども微塵もないと考えられる自分の可能性に向かって夢を持つ、人生で一番、輝かしい、美しい時間ではないだろうか。男子諸君、女性を見る目は、この時までだ!永遠のアイドル(偶像)という幻想の美しさ。安吾も悩んだ。初めのアダムも悩んだ。”知る”ということは、幻想が壊れるとき。ポール・エリアールの詩を思い出した。(おいおい、大丈夫か?・・・という具合に、若い男のロミオなら誰でもジュリエット思う)。何からの束縛もない未来に希望を持っている(ように見える)時が一番、美しい。

 川端康成から持ってる美貌で女優にでもなったらどうか、と言われたとの記事がある。秋田には芥川賞をとった女流作家もいるのだが、顔まで知らない。その作品は知っているが、顔を知らない。探せばあるのだろうが。けれど、美人はとくだねぇ。作品内容を知らんでも、美人さんだと目から入る印象は永遠に残るねぇ。

 このように永遠にというか、人々から忘れられない人になっている。近くの高校の男子たちが全体のレイアウトを再配置したと紹介があった。あぁ、若者たち、君たちの居たこの田舎の町にもこんな美人さんが居たんだ、との記憶は生涯忘れないだろうな。

五城目は市内から北の田舎ですが是非、いらしてください。無料で入れます。古来かられ歴史のある朝市も開かれます。

  安吾から送られた本や手紙や葉書が展示。無論、もらった方の展示だから津世子が安吾に返事を書いたかどうかの痕跡も見当たらない。それらを暗示するものが微塵も見当たらないので、彼女自身、文学仲間に噂されるのは迷惑ではなかっただろうが、個人的嗜好としては、内心迷惑だと思っていたりしてね。きっと、先に書いたけど、作家の写真で安吾が、書き損じの原稿を周囲に散らかし、丸眼鏡をかけてシャツ一枚で煩悶している姿は、普段の考えにも何等か反映されているのだろうから、志賀直哉を尊敬し机の前には小説の神様と言われた彼の写真も貼られていたという津世子にしてみれば、根本的なところでは安吾とは、相いれなかったんと違うかな。けれど彼女の美貌もあって安吾から片思いを寄せられていたという、ささやかなドラマは、このように永久の記録となっている。

 津世子が着ていた着物、それから机、小物の展示が少し。

 先のブログで、娘が「幸うすく」と安吾にしたためた、二人でならんだお母さんの写真も。お母さんも鼻筋がとおって美人さんである。・・・・

ここまで書いて、何故、秋田美人といわれるのかなどとあらぬ方向に思いが湧いて来た。

話がとりとめなくなりそうなので、人生で一番美しい時が、偶像であろうと、幻想であろうと永遠に持てることを願って終わることにします。・・・


坂口安吾と矢田津世子

2022-07-26 16:25:18 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 このくそ暑い今日の日、短パンひとつで二階の本を整理していたら坂口安吾の「堕落論」の文庫が出て来た。なぜに彼の本があるのか。書き損じの原稿を丸めて周辺に沢山ちらかし、丸眼鏡をかけ飯台の前で頭を掻きむしりながら煩悶している安吾の写真を見てから、どうも僕の心情とはまったく違う作家だと思っていたので。彼の本は買った記憶がないが、堕落という表題に引かれたのだろう。栞が挟まれた箇所を見ると・・・

”戯作者文学論”という項目の7月14日(晴)と15日(晴)に津田津世子のことが書かれていた。その日も猛暑で水風呂に何度も入った、という記事から始まっていた。

僕の田舎の山手に、ひそやかな誰も来ない川の流れる避暑地にいく途中や、五月には山菜取りの途中に昼食に立ち寄る五城目町の五城館というレストランの中に矢田津世子文学記念館が併設されている。若い時の写真で秋田美人である。そこには坂口安吾からの葉書も展示されている。・・・文庫本の安吾のその個所を読んでみる。(素子という名前は、安吾が自分の作中の女の名。)

*****

◆7月14日(晴)・・・この素子に私は、はっきり言ってしまおう。矢田津世子を考えていたのだ。この人と私は恋こがれ、愛し合っていたが、とうとう結婚もせず、肉体の関係もなく、恋こがれながら、逃げあったり、離れることを急いだり、まあ、いいや。だから、私は矢田津世子の肉体などは知らない。だから、私は、私の知らない矢田津世子を創作しようと考えているのだ。私の知らない矢田津世子、それは私の知らない私自身と同様にたいせつなのだと思うだけ。私自身の発見と全く同じことだ。私はしかし、ひどく不安になっている。どうも荷が重すぎた。私は素子が恋をするような気がするのだが、それを書けるかどうか、私は谷村の方を主人公にして、それですませたい。私は素子がバカな男と恋をするような気がして、どうにも、いやだ。こんなことが気にかかるというのは、いけないことだと考えている

◆7月15日(晴)・・・昨日、私は、素子は矢田津世子だと言った。これは言い過ぎのようだ。やっぱり素子は素子なのだ。手を休めるとき、あの人を思い出す、とても苦しい。素子はあまり女体のもろさ弱さみにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にはならないのではないか、と書いた。あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらったとき、まだ、お母さんが生きていられるのがわかったけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、という一句が、私はまったく、やるせなくて、参った。お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考えるとき、いつも私を考えているに相違ない。私はもちろん、葬式にも、お悔みにも、墓参にも行かなかった。

今から10年前、私が31のとき、ともかく私たちは、たった一度、接吻ということした。あなたは死んだ人と同様であった。私も、あなたを抱きしめる力など全くなった。ただ、遠くから、死んだような頬を当てあったようなものだ。毎日毎日、会わない時間、別れたあとが、悶えて死にそうな苦しさだったのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから5年目だった。その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。私はあなたの肉体を考えるのが恐ろしい、あなたに肉体がなければよいと思われて仕方がない、私の肉体も忘れて欲しい。そして、もう、私はあなたに二度と会いたくない。誰とでも結婚してください。私はあなたに疲れた。私は私の中で別のあなたを育てるから。返事もくださるな、さようなら、さようなら、そのさようならは、ほんとにアデューという意味だった。そして、それから私はあなたに会ったことがない。・・・・私はあなたが死んだとき、私はやるせなかったが、爽やかだった。あなたの肉体が地上にないのだと考えて、青空のような、澄んだ思いもありました。・・・・

私は筆を休めるたび、あなたを思い出すと、とても苦しい。素子の肉体は、どうしても、汚い肉欲の肉体になってしまう。素子は女体の汚さ、もろさ、弱さ、みにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いて、筆を投げ出したとき、私はあなたの顔を切なく思い続けていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。

素子は矢田津世子ではいけない。素子は素子でなければいけない。素子は素子だ。どうしても、私は、それを、信じなければならない。私は4枚書いた。筆を投げ出してしまう方が多いのだ。

*****

◇注釈:矢田津世子・・・明治40年ー昭和19年(1907-1944)。小説家。秋田県南秋田郡五城目町生。私立麹町高女卒業。『日暦』『人民文庫』の同人となり、「神楽坂」が『人民文庫』創刊号に載って出世作となった。代表作に「茶粥の記」「家庭教師」などがあり、『文学界』『改造』などに作品を発表。『中央公論』から原稿の依頼があった時には、もう肺患がつのって執筆不可能となり、38歳で死んだ。彼女は凝り屋で、繊細な感情と技巧を持ち、文芸復興の掛け声の高かった時勢に、市井を描いて客観的な作風を志した。戦争中『婦人倶楽部』の特派員として、大陸にも出かけている。坂口安吾は片思いで彼女に恋をし、悶々とした一時期を持っている。

今度、田舎にいったら又、立ち寄ってみよう。・・・


(その2)善👽のセンターができるまで:神、悪魔と人の原罪のお話

2022-07-26 10:16:28 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 人がこの地上に創造され、適応させるためにずいぶん長い時間を要した。試験期間、宇宙船のラボ(実験室)では実にうまくいった訳だったのだが。創世記1:1には、”・・・天地を創造された。” とあるでしょう。これは、アクアリウムやテラリウムという具合に実験場ではうまくいったことを示している。しかし、それから、この星(地球)に適応するかどうかの試験期間がこれまた、とほうもなく必要だったわけだ。

宇宙歴時間の6日目に人をこの地球に、神の似姿に創造されたわけだが、地球内で自己完結するようにそのシステムを構築するにあたっての手順が、第一日目から象徴的にシンボライズされて書かれている訳。

創世記の1章から2章までのところにおいても、いろいろ想像を掻き立て多くの書物が書かれて、本当に今の人間界の一週間であるとか、人はサルから進化したものであるなど、進化論はあるやなしやが大きな問題となったりする。

人は、創造者から鼻に息を吹き込まれ生きる者になった。で、この星は実にまれな貴重な星なのだ。この途方もなく広い宇宙に、自己完結型にアクテラリウムが存在しえる実にユニークな星だったから。それで初めての地上の人、アダムに助け手としてエバを与えて地上に住まわせたときに、創造者は忘れてはいけない約束を与えられた。

それが住まわせられた園の中央の木で、”命の木” と ”善悪の知識の木” を生えていたんだが、”善悪の知識の木”の実を食べてはいけないと仰せられた、という。死んでしまうから・・・・。ところが、エバは悪魔(天上から地上に落とされた天使で、悪い宇宙人と一応書いておく)にそそのかされて、その実を食べてしまう。

そもそも、善悪の知識の木の実を食べてはいけない、と言われたのは、初めの人アダムだけだったのだ。このとき、エバはまだ、いない、と創造の順番ではそう書かれている。きっと、エバはアダムから神からの禁止事項を聞いていたんだな。

しっかり、エバに話していなかったのか、頼りないと思われたアダムより狡猾な蛇の方がそれは魅力があったのだろう、その蛇にエバはだまされてしまう。「死ぬことなんかないよ。神様のように目が開かれて賢くなる。」と。・・・それでアダムも勧められて一緒に食べてしまう。人の命に死が介入した。・・・

人を創造した神と創造された人と、神相当の役割を持っていた天使の長(まったく神と同等の権威、権限を持たんとして嫉妬し堕天使となり地上で悪魔となった)のこの話が、地上のドラマのすべての始まりとなっている。その部分を読んでみよう。

*******(創世記3:9-19)

主なる神はアダムを呼ばれた。

「どこにいるのか。」

彼は答えた。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

神は言われた。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

アダムは答えた。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

主なる神は女に向かって言われた。

「何ということをしたのか。」

女は答えた。

「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

主なる神は蛇に向かって言われた。

「このようなことをしたお前は

 あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で

 呪われるものとなった。

 お前は生涯這い回り、塵を食らう。

 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に

 わたしは敵意を置く。

 彼はお前の頭を砕き

 お前は彼のかかとを砕く。」

神は女に向かって言われた。

「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

 お前は、苦しんで子を産む。

 お前は男を求め

 彼はお前を支配する。」

神はアダムに向かって言われた。

「お前は女の声に従い

  とって食べるなと命じた木から食べた。

 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

 お前に対して 

 土は茨とあざみを生え出でさせる

 野の草を食べようとするお前に。

 お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に返る時まで。

 お前がそこからとられた土に。

 塵にすぎないお前は塵に返る。」

*******

この会話の中にすでに既に キリストが痛手を負うが、悪魔の考えは粉砕され抹消されるのだ ということが書かれているのだ、という。お分かりか。

それから・・・善良なBig Boss の管理センターの設置まで、実に多くの時間が費やされたのだ。

次回は、ずぅ~と昔の善なる宇宙人の心の管理センターともいうべき、Big Bossを紹介しようと思う。・・・つづく


善良な黒子のBig Boss(その1改) :超古代に超高度な👽宇宙人が人を造った話

2022-07-25 06:47:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  屁理屈込めた長い長い物語の始まり。

お話する前の舞台設定のことを話す、その屁理屈だけで終わりそうなのだけれど・・・。

人を創造した宇宙人がいつから神様と呼ばれるようになったのか。まず、ここから語りましょう。

ご存知ように、それまでにも長い長いお話があるのだけれども、そしてそれはある程度までは解読されているのだけれども、地上に生まれた僕らには限界があり、ある程度のところで納得しなくてはいけない。見、聞き、知られうるところ以上のことを理解しようとすれば、どのような形でか宇宙人に教えてもらわなくてはいけない。

ずぅう~と、そのことを願っていれば教えてくれるかもしれないけれど。否、必ずや教えられるであろう!!

*******

◆「神は御自分にかたどって人を創造された。・・・」(創世記1:27) 

 それに、アダムとエバさんは、草食主義者、ベジタリアンだったことが書かれている。(同1:29)

*******

造られた人が(造られた、というこの「造」という漢字を使うのも意味のある事と理解される方はうなずくかもしれない、物体として形をつくったのそれでなく、作者つまり創造者(宇宙人)の生きている意図が込められているということを含むという意味での漢字の用い方)。

そもそも創造者を語ること自体すでに論理矛盾、当初から限界のある話であるということ。・・・これは、人としての生物学や歴史や哲学や、その他もろもろのことがお互いに知られて、無論、自分という生き物もかなり厳密に考察されての前提に立っているのだが、それでも理解するということ、ましてや納得するということなどは、その人が意識としてか無意識としてか体に染みついた先理解(先理解の疑問と言ってもいい)に一致した時に”分かった!”ということがいえるものではないのか?・・・

ところが、世界中の宗教のありやなしや、人が思いをもつその方便に多々あろうが、何もその介在物を取り去って素直に一人一人に尋ねてみると、その願いも次元が低そうなのから高いものまであるけれど煎じ詰めると、

思うところは自分の命(ここでも”自分”というややこしい言葉がでてきて数冊本が書けそうなのだが)、人々の平和、永遠の命などなどでおおよそその願いが最大公約数的に同じ傾向を示すのは何故なのだろうか。無論、時代的に歴史のとてつもなく長い時間が流れて、被創造物としてのその地上での思いが広範囲にシェアー(共有化)されて来たことはいうまでもないという舞台設定が形成されてきたという背景があったということなのだが。

神は自分の似姿に人を創造された、その過程はその物体に”息”を鼻から吹き込み、初めて生きる人になった、とある。その”息”とはつまり、一応それは”霊”のことであるとする。(”・・・とする”、と書くのはそれがよく分からないからである、おそらく誰もが推測されているものであろうことは確かであるが、一応こう書いておく)。

実は、イエスが語っていて分からない矛盾したような話は、この次元から話していることなのである。水平次元で僕らがそのまま受け取ると受け取る側によって、かなり問題を起こす言葉がある。ここに悪い宇宙人が漬け込むわけだが・・・。

*******

◆「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方エデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創世記2:7-8)

*******(ちょと余談)

この唯一の神が天地を創造されたお話が、日本にも遠い昔伝えられていた痕跡は、今もこの国の神社の石灯篭にも見ることができるな。お社の両側の石灯篭のかかり火の為に彫られた穴の形、太陽と月だ。日本は太陽が昇るのを一日の初まりとしているが、あちらでは、日没(お月さんが出てくる夕方)から一日が始まるのであった。日本の国旗の日の丸が太陽を表しているのはすごいことなのである。・・・

神は恐竜を創造されたのかという疑問。宇宙人は、人と同じで、地上に創造物の繁殖に相応しいか否かを見出し、いろいろ思考錯誤されたり、ナスカばかりでなく世界のいろいろな場所で、地上絵を描いて遊んでいる?、否、地上の人にその存在を知らしめんとコンタクトを図っているということなのであろうな。一応それらの痕跡は、人に地上のことを管理させる前の動物の試行錯誤の長い時間に、余裕があってその余暇に遊んでしまったという愛嬌もあったということなのだろうけれど。

*******

◆「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、・・・・創造された。」(創世記1:21)

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Naze otoko ni onna wo HAGU sitai kimochi ga okorunoka・・・sore ha otoko no muneno abarabone wo totte onna ga tukurareta node otoko ha motoni modositai to itumo omotteiru kara nanoda.

Kinndann no Mi wo tabeta toki futarino Me ga hirakarete hadaka datta koto wo siri, kosi(Seiki no koto) wo " itijiku no ha" de kakusita nodaga, Kami kara hanare chijyou ni okarete jiritu siteiku toki "Kawa no koromo" wo kiserareta noha doubutu no Seisyoku no sisutem wo mini matowasarareta to iukoto・・・nanoda.

*******(余談、終わり)

初めからこのように書いていくと、道のりがまったく順調のように思えるが、実のところ、他の裏話があった。聖書の冒頭から、あれやこれやの模索があったのだが(例えば、何故に天地創造のお話が2回書かれているように読めるのか。2章の4節から、また天地創造の由来として話が簡略化して始まるぞ?)今や宇宙人のBOSSのお話なので、かしこまってそれを受け取らねばなりませんぞ、ということになっている。

限りも無く遠い昔、宇宙人は、天文学的な広大な宇宙の揺らぎによって時空を旅することができたし、現在もしているのだが、宇宙にエネルギー資源を探査しに飛び回っているうちに、ひょいと時空がゆがんで、ふさわしい惑星に飛び込んだ。その中に実に生き物が自生し生死を繰り返す自己完結に持続維持できるであろうと推察された星、つまりそれが地球だった訳なのであるが、それを見つけたのだった。

彼ら宇宙人の技術は有機物の自力で動く人をも創造して、それが自分で物事を決め、繁殖し、天のごとく(善い宇宙人の実在する被造物としての国)あるように地にもなさせ給えと、最もふさわしいと見出したこの地球に自在物を現在化させることにその目的があったそうだ。

で、先に述べた裏話をそのうち書いていくけど、今の人の判断でいえば宇宙人の地上での使用人、労働者として造られたという話もあるのだが、その場合は地球資源の採掘労働者として造られた、という話である。その場合は、人は労働としての手段であるな。こういうことも人を動かすOS(オペレーション・システム)に組み込まれて形成されていたということだ。

さて、僕らの日曜日がお休みとなった一週間のことは、神様が天地を創造し六日目に人創造され、まったくVERY GOODだったのに満足されて安息をとられたことから来ていることは、みなさんご存知かと思うが、僕が小さい時は一週間の最後が日曜日だったけど、カレンダーが日曜から始まったいきさつは、キリストが日曜の朝に復活したことに由来するらしい。一週間は復活から始まるのである。月曜日から又、仕事かぁ~とくたびれ感覚ではなく、日曜日は休息の時、創造せし方を思い休養をとるためぼぅ~とする一日でもあるのだ。

くだくだと書いたが、冒頭の疑問はなんだったっけ? 創造物である人が、対象として天地を創造した宇宙人を神として意識し始めたのはいつからか、だったな。

*******

◆「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創世記4:26)

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セトとは、アダムとエバの子のカインがアベルを殺したので、神が彼に代わる男の子を授けた(シャト)から来た名前。その子供の代から主の御名を呼び始めた、と書かれている。いづれ、遠い遠い昔のお話である。・・・が、天地創造は次の言葉が肝(重要)なのである。

*******

◆「主なる神は、・・・その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。・・・」(創世記2:7-8)

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ここに、『命の息(つまり”霊”)』のことが書かれ、『生きる者となった』とある。人類が生存する限りこの言葉が世界のベストセラーの大切なキーワードなのである。・・・ここにあるのだ!  続く 

 


<Ⅸ>宇宙人じだんだを踏む 気づく人は気づいている 神の人類の救済の時代・・・親愛なるXへ

2022-07-20 07:29:28 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 あれ❣、前にブログに掲載した「ファチマの預言」のマリアの写真が微笑んでいる。・・・

しばらく、ブログが更新されていないが元気なのか、と知り合いから連絡が入った。感謝なことである。確かにひと月ほど更新しなかったが、できるだけ多くの人に読んでもらおうと思ってね、僕のは過去から引きづる深層があって、それを理解しないと将来に続く今が観えて来ないようになっているんだよ、と話す。この方も最近とみに良い宇宙人とか悪い宇宙人とかからの内的コンタクトがあって、いろいろ教えられるということであった。

言葉ではっきり書くと、どうも都市伝説のような滑稽な語りになるのであるが、実際にこのような時代になって、多くの人が気づき始めているのだろうと推察する。内容は暗い・・・ブログに掲げようにもそれはその人の思いとかの特殊能力になるとか、でしかも、その内的啓示は、悪い宇宙人からと思われる実に暗い内容が多いのだ。したがって、一般にシェアーできない、つまり共感性を持ちえない。最近はとみに暗い暗示が多いらしい。”つづき希望”のクリックはあるいはあるかもしれないけれれど。

先日、祈り会が終わった後の雑談で、旧約聖書の天地創造(14章17節~)に出てくる有名なアブラハムが、彼ら以前の宗教があったと推察されるメルキゼデクに十分の一の捧げものをする場面がある。いきなり出てくるこの方はどなたなのだ、という話になった。新約のイエスにも例えられる”いと高き神の祭司であったサレムの王”とされる、この人?。

結論、わかりませ~ん、なのだったが、古代神の名前は”エル”とも言われたし、”サレム”は”シャローム”ともなったと思われるわけで、つまり”エル・シャローム”でこれが、今のエルサレムになったともいわれるわけだ。”神の平和”、つまるところ現代のような争いの中で歴史に残るような場所ではなく、実に平和を仕切る宇宙からの派遣された善い宇宙人の都市だった、ということらしいな。

古代メソポタミアには、ノアの箱舟のもととなった洪水の話もギルガメシュ物語にあるし、シュメール文明には、宇宙との交信がなければ分かり合えないだろう遙か遠くの惑星などの軌跡なども石板に刻まれていたという話もある。・・・などと話が進むと、そういえばと牧師の口から出てきたのは ”キリストは宇宙人だった”という本もありましたねぇ、と。

それに合わせて僕からは、エゼキエル書の冒頭に書かれているのは、あれはどう考えてもUFOですね、宇宙人が乗ったなどと話がとりとめなくなりそうなので、最後は真摯な気持ちで黙とうして終わったのであった。いずれ、いかような形でも彼らは、地球の破滅を望まれていない。地球が灼熱地獄になりそうなこの夏にも、なんらかのコンタクトを多くとり始める宇宙人が顔を出し始めることだろう。

人は言葉を屈指し、ある先入観がなければ理解し納得しない生き物であるから、人が神を創造して、様々な宗教というジャンルに区分し話を始めざるを得ないが、基本は全く逆で、人は神に創造された世界の中にあるのである。ここれが大前提なのだ。ここに、人という生き物の種が地上に存在する以前の先理解という雲をつかうような想像力が必要なのだ。しかし、それは人よりもともと先に存在してあるのだから、その世界にコンタクトさせようとして語り掛けているのである。

う~む、小難しい、とうか、人が創造されたのだから、その人が人ひとり自分の足でこの地上に立つようにと、その基本プログラムソフトを導入していたのだが、まぁ天使の長から悪魔に転身してウイルスソフトを入り込ませた奴がいて、そもそも被創造物と完璧につくった人という生き物を愛された創造主なる神は、一度期は地上から汚染された人類を滅亡させようとしたんだが、基本OSが汚染されたとはいえ簡単に人を抹消させるに忍びなくてしかたがなかったという訳だった。

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気が付いている人は気が付いている。語りがある。人は命の息(霊)吹き込まれて生きるものとなったことを。

「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようとキリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙1:4-5)

人が地上に誕生し生涯を送るという意味は、ある人々には、このことを気が付かせようとされている存在を知り、気づくことにあるのかもしれない。しかし、ほとんどの人は気が付かずに生涯を送るようだけれど。いろいろな宗教があっても、あの世で亡くなった人にあってずっと楽しく暮らしたい、とか 世界が平和でありますように、とか その思うところは同じように思う。永遠の命や涅槃や極楽を。

人がジャンルに分けざるを得なかった宗教において、僕はキリスト教が最も優れていると思う。残念なことだが、ひとりの人(イエスという)に対しての出会いのあまりに膨大な言葉による人の数ほどの本が出回って、かなりのかさぶた状態で実態が分からなくなってしまい、直接、彼の声を聞こうとしなくなってしまった。

それは、実際に歴史を動かしている、動かして来たという、その”わたしはいる”という存在に対しての旧約時代の先理解が必要だからであった。しかし、キリストが来られて人に命を吹き込んだ創造主との新しい契約が提示されたのだ。文字としてではなく霊(聖霊)として。今も語る・・・。自由主義神学とか、人の言葉、文字が先行しての自己納得は一見、自由とみえるだろうが、僕らが無意識の上から啓示されていると考えるのが本当なのだろう。

専門の修行者も必要なく、人生を通して天上との媒介者としての彼を信じて(何を?ーそれが新約聖書が語るところである)普段の人生生活自体を修行とみなして生きればいいのだ。自分の言葉で生きている彼と語ればいいのである。気が付く人は気が付いている。彼は今も生きているのであると。

僕はプロテスタントだが、先のブログに書いた「ファチマの預言」とはいつのことを言っていたのだろう。ソ連時代、”収容所列島”という本を著したソルジェニー・ツインはノーベル文学賞をもらったけれど、あの時代も多くの人々が命を落としたと言われる(ソビエトの中で監視社会となって国の中にあちこち収容所ができて列島をつくっているという題である)。ローマ法王庁が公開しないで秘密にしていたその予言を修道士がフランスの飛行機をハイジャックしてまで公開要求をしたことを、そういえばそのようなことがあったな、と改めて思いだした。法王の暗殺事件も計画されたというのもその関連だったか、闇にマネーロンダリングやマフィアの動きなどがあってか、当時、世界のあちこちでマリアの肖像画の目から血の涙がこぼれたという、少し怖い写真も見たことがあった。

僕の住んでいる遠くの山側に添川湯沢台というところにある聖体奉仕会のマリア像”は、101回も涙を流す現象があって”涙を流すマリア像”と言われ世界的にも少し有名になった。秋田大学医学部や岐阜の法医学分析では人間の涙に非常に近い成分だったそうである。

調べていくとNational geographicに世界中にマリアの顕現があったのは、周期的にあって僕の生まれた年に多かったという記事があった。地上から多くの民族が取り去られるだろうという預言は、現に今、世界でコロナウィルスで635万人の人が命を落としているという進行形に現れたであろうし、ロシアが戒めの鞭となって人類を苦しめるであろう、という預言は、インターネットで世界の裏側のことが一瞬の内に知ることが出来るようになった昨今において、現在起こっている現状のことを気が付く人は気が付きなさいとの再三の警告なのであろうと思う。キリストご自身が語っていたではないか、戦争が起こる、飢饉がおこる、地震が起こる・・・と。

ここに来て、飛来しているUFOから人になって同期している宇宙人のことをまともに考えなくてはならなくなったのである。命を奪う、悪い宇宙人の策略との戦いでもあるのだ。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6:11-12)

人類は、日常においても心を静めて、人とはどういう生き物であるのかということを一人一人が考えてみることが必要であろう。我々は命の霊を吹き込まれ、地上から次の世界、永遠に生きる天地創造以前の世界に招かれているものなのである。

時間はあまり残されていない、と思うようになったな。・・・