marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

〈Ⅰ〉人生を決定したある個人的な体験:親愛なるXへ(その1)

2022-03-31 17:56:58 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 「山に向かいてゆうことなし、ふるさとの山はありがたきかな」:石川啄木

親愛なる君(善なる黒子、良い宇宙人)の元へ帰って来た。やはり、君の懐の中であれやこれやと考えるのは楽しい。長い時間がたってしまった。そろそろ、戻って残りの「世界のベストセラーを読む」に取り掛かるとしようと思う。

1000回で終了予定も950回で中断し、日本の古代からの黒子(神からの使いと書いておこう、あるいは宇宙人と思う方があってもいい、無論、人の意識にはかかわるが決してその存在自体を知りえないという)について書いてきたが、今回以降は、そのベストセラーの中にしばらく、その黒子を探してゆこうと思う。(それは最も知性が進んだ地球外生命体のようにも思われてくるのだが)

僕らの町の周辺のこの国の人々の信仰なるものや、古代から遺跡どうのこうのは、ブログを始めたきっかけでもあったのだが、目に見えぬ信仰とやらを生きている間に何とか少しでも知りたいと思ったからだった。そこに少しでも近づいているのだろうか。

キリストは「死んでも生きる」との給うたという。次の世界をも信じて、多くの殉教者も出たというが、常識から言えば、まったく馬鹿なことだと思わないか。しかし、使徒パウロは書いている、復活のイエスに会い、第三の天にまで挙げられたと言うのである。生前のイエスには会ってはいないのに。彼は、全く馬鹿げたことだと思い、信ずる弟子たちを殺すのに加担し歩きまわっていたのだったが、突然ひっくり返って真逆にイエスを述べ伝える人間になったというのだ。

小さな時に僕は一度、沼に嵌って死にぞこないになったのだ。母親が何度も胸と腹を押して絞り出すように口から尻から水を吐き出した。翌朝、何事もなかったかのようにひょうひょうといつも通り遊んだらしいが、それは幼稚園にはいる前の田舎での出来事である。山の手前には、その沼が広がっていた。

今は団地になってしまっているけれど。家のすぐ脇を沼から堰を流れる水の音を聞きながら、台所の大きな窓から朝日の昇る山を見ながら育った。毎朝、ラジオ(TVなど無論まだ無い時代)から流れる、カバヤ兄弟の集めた小鳥のさえずりを聞きながら、それからコウチモモコという人が ”暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう” という言葉と音楽を聴きながら。夜には、時折、浪花節が流れ、爺さんがいい声だと好きだった島倉千代子の歌声が流れ、窓のカーテンに映る道路を行きかう車の影が流れていた。

僕の人生での追及は、この小さな頃の事故がきっかけであろうと思っている。よちよち歩きに近い自分がなぜ、あの沼に近づいたのか、姉がいたような気もするが、他にも姉の友達がいたので、沼の側に僕を置いてどこかに行ってしまったのか、鼻がジーンとして、沼の水のかび臭いがして、意識が遠のいた。沼に浮かぶ僕を見つけたのは僕の母親だったのだ。

気が付いたのは、日が昇るいつもと変わらぬ翌朝だった。その事件以来、つかず離れず僕は誰かが側にいてくれたのである。爺さんがもっともかまってくれた。あぁ、後継ぎだからね。家系で男は僕しかいないのだから。そこでだと思う。その時はなにかは知らなかったけど、爺さんは、僕をお寺に連れていき、膝にだっこされながら、暗いお堂の中で火がたかれるのを眺めていた。今思えば、二度とこの子に事故などおこらぬように守ってください、と護摩をたいたのであった、と思う。現在の僧侶は今で三代目になる。

宗教は妄想であるとか現在では言われるけれど、実に人というのは、これこれと言わずとも命がある間は、誰でもが宗教的人間であろう。僕にとっては、やはり東日本大震災で多くの方はなくなったこと、それから、両親を天国へ送ったことなどの体験によるが、自我のめざめという頃からか第一は自分とは何か、ということだった。思えばそばに誰かがいつもいる。僕のそばにはいつも誰かがついて生活しているような気配があるのだった。

あぁ、あの時、沼に誰かに突き落とされて(と自分では思っていて、それは飛来し、ビームを発射した宇宙人だったかもしれないが)、僕のその時打たれた跡が、背中に青いあざとして残っている。ちょうど心臓の後ろなのだ。時折、痛くなる。これが原因なのか、大きくなって死を意識し始めた。

この事故が、将来の自分を決定した事故だったように思われる。自分を失って、本来、生前の宿題を背負わされたその当事者にふさわしい霊魂を吹き込まれたのだろうと。晴れた陽気な日でも、異界を感じて非常に寒く感ずることが時折あった。情緒不安定という奴か、外には表れないが内面はかなり体と思いが分離する気分の悪寒を感じたのである。いまも時折・・・

これも言い訳がましい理由となろうが、前頭葉で意識して、これを行おうと意識すると途端に心臓が痛くなる時があるのだ。従って、これはどうも積極的な人間にはなりえない、つまりいつも ”待ちの人間” になっているのだ。生命、財産の損失にかかわらない限り相手の意向にそう、そういう生き方をしてきた。自分の積極的な意見も持たず、なりゆきに任せる。これはまったくもって男らしくない。まさに変革は求めない平和な時代の縄文人思考であった。・・・しかし、それでは、あなたが子供の時、打たれた意味(宇宙人に?)がないと成長するにしたがってしきりと自分探しを行うように促されてきたのだ。いつも死はとなりあわせ、という気配を感じて来たからだった。・・・つづく 


<Ⅹ>黒子の戦略:信長、秀吉、家康:親愛なるXへ(その26)

2022-03-28 17:46:38 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 添付写真は副川神社(そえがわじんじゃ)といって、その登山途中の常夜塔(塔にもそう書いていたが誰が夜中に火が消えないように努めたんかいな。かなりしんどい登りだぞ。それを修行にしてたのかな。)

遠くに見えるのは男鹿の寒風山。八郎潟湖がかすかに見えるが昔は、ずっと手前まで海(潟)であった。高岳山の頂上にこの神社はあり、ネットでも検索で出てくる歴史ある神社である。(・・・天気も良く、風も穏やかで頂上でcofeeを湧かして一服する。無論、こんなすさびれた田舎の山の上、誰もいない。)

◆”風が吹けば桶屋が儲かる”という言葉。その意味は、風が吹けば砂埃が舞い目に入りメシイが多く出るだろう。その生活の手段は三味線を弾いての歌を歌い歩く流し(ゴゼと呼ばれた)をする人が多くなる。三味線を作るには猫の革が必要だ。猫狩りが行われれば猫が少なくなりネズミが多くなるだろう。ネズミが多くなれば家々の桶を齧り、使えなくなるだろうから桶屋に作ってくれと依頼が多くなるに違いない。桶屋は儲かるはずだというこじつけのような・・・。

このような考えで今までの古代からこの国に上陸して帰化した、あえて黒子の戦略としたのだが、その理屈でいうと、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と神々が存在して古来からその背後に隠れているようなそれ(黒子たちの戦略)は、現在まで続いているように考えられてくるのである。誰でも知っている徳川の時代が約270年ほども続いたのだけれど、そこに至るまで古代からの黒子達が背後でプロデゥースしていたのであると思われてきた。

その会議がすべては本人に了解のもとではなかったが清州会議(その後、何度か面に出て来ないで行われていた)であったというわけだ。なんと、末の世の徳川の安泰な時代になるまでに、例の黒子が背後で演出していたというのである。無論、当人たちも理解はするところもあったが、個人の思いで有頂天になって無謀なことをし始め黒子の歴史を予見する意図からずれてくると(つまり、バックヤードとしてのサポートはするが、当の本人構わず他者を起こして戦火を起こし、成敗するという具合に。ここに義理や人情も犠牲にする世界があった。)

例えば、織田信長は、キリスト教を新しい教えとしてサポートしたのである。本来の仏教が堕落し始め、非常に政治にかかわる勢力となってきたことは本来の宗教にあるまじきことであると。宗教が政治にかかわってくるのは世が堕落すると考える武将であった。尾張のうつけものと言われた信長はそういえば肖像画では鼻が高い。古代、古事記にも出てくるその祖は忌部氏なので神祈職であった(つまり、古い時代からのあの鹿島、香取の著名な神社、それは太陽を求めて東の島国へと渡来し、東の端にたどり着いた渡来帰化人レビであったといわれる)。

宗教なるもの、本来、世のため人のためにあると心から思って、何の宗教とか気にしなかった。信長の前で渡来宣教師と仏教僧正の確か日乗とかいう僧侶が問答しあい、日乗が「魂が死んでも無くならないというのなら、見せてみよ」と宣教師を切りつけようとするような大変な修羅場があったらしいのだが、信長は本来、仏に仕える身ならば殺生はよくないのではないか、おかしいぞ、とたしなめたという話が記録にあるらしい。

延暦寺を焼き討ちにした織田信長、楽市楽座など行い大衆人気のあった信長が人々のよりどころの宗教の寺を焼き討ちにしたらいささか以降、問題を引きずるのではないか、門徒宗も多いし心の根深い問題だ。(ところで最澄が亡くなってから途絶えることがなかった燈明がこの戦乱で消えたのだが、今は途絶えずついているな。どこからこの火が運ばれたのかと言えば、山形県の立石寺、芭蕉が、静けさや岩に染みいる蝉の声、と詠んだ、あの奥の院からなのだそうだ。)しかし、それでもこのままではこの国はダメになるのであると、古代からの黒子のDNAの血が騒ぐ。

この影響甚大な大衆の敵となるような騒動に対して、一度、信長を歴史上から消えてもらうように画策したのが、黒子の一人、明智光秀であった(しかし、すごい名前ですねぇ)。つまりこうだ。一時的な歴史上の覇者たる優位性で時代を終わるか、それともこの日本の遠い将来を見据えた深層の土台つくりをするか。旧約の民のDNAをもっていれば、遠い将来のありようも預言者が見据えていたことを知っていたに違いない。

歴史上からは消えた織田信長は実は生きていたというのである。宣教師に布教を赦し、国外からの世界大陸の王者が描かれた大きな屏風ももらい受け、宣教師からヨーロッパのへの旅行をプレゼントされたという訳である。あながち尾張のうつけだったら、下天は夢か、と海外を見て回ったのかもしれないから、嘘ではないかもしれない。

無論、これを画策した黒子の面舞台にでた明智光秀も生きていた。(つまり、すべては黒子の地上の演出という訳である。)慎重だった光秀が百姓の槍につかれて殺されるわけがないというのと、あの自画像は、死んだといわれる年から3年後に生きた本人を目の前に描かれたものである、と言われているのである。そうすれば、門徒宗もこの衆生の混乱は起こるまいと。当時の仏教の僧兵勢力は大変な力をもっていたのであったから。

おぃ、おぃと思われるかも知れないのだが、世界のベストセラーの聖書の旧約の歴代誌や列王記などの部族間の切った貼ったを読んでいると、それぞれの部族には神の言葉を取り次いだと言われるレビ(日本で言えば神主)がいて、預言し政治にも関わっていたのだが、結局、すべての部族が離散する。時代を経て、ヨーロッパはパウロがすべての道はローマへ続くと言われたそこをめざし、今のように知られるようになったが、アジア大陸に太陽の昇る東へひたすら異動した部族もあって、日本に順次、到達する、というのが縄文から弥生時代に関わるあらすじ。この時代、モルモン教で言えば大西洋を渡り昔のアメリカ大陸に渡ったということになっている。こんな膨大な将来の世界観が旧約聖書を書いた預言者たちには見えていた。彼らの流れがこの国来ていたのである。

*いわく、この日本国が表面上、仏教をとりつくろいながらもほとんどの人が無宗教を語るのは、そもそもが古代からの深層に流れる宗教戦争があっての故なのであると思われる。考えてみるとこの国の民意が高いのは限界ある地上から消えゆく肉なる人が、言葉以上の神の存在を引きずりおろすようなことをしなていないのは、こういう争いが絶えず深層で行われてきたからなのではないだろうか。誰でもが命を与える神を畏敬しているのであろう。

後に、後継者となった百姓から関白太政大臣にまで上りつけた豊臣秀吉も、いくら”人たらし”とはいえ、背後のブレーン(黒子)がいなければ天皇に近い地位まで決してのぼり詰めることはできなかっただろう。こうゆう時代の逸脱者が演出側には必要なのであった。秀吉は大変な出世者であった。

信長はキリシタン(伴天連)が日本に来てから擁護したのに対し、その後、秀吉はこの宗教の背後に「害毒となる大変な異国の黒子」があることを知ったのだった。このままでは国が滅びると彼は知った。武力に関与しない大衆がその宣教の背後に黒子達は国を滅ぼし、無理やり従わせる武力をもって制圧しはじめることを知ったのだった。

*キリスト教殉教者が多く出たことは残酷ではあったが、深層を知らなければいけない。今のフィリピンという国も当時のスペインポルトガルの宣教師が来てキリスト教国となったが、国名は当時のフェリペ二世からつけられたのではなかったか。国の名前が乗っ取られたのだな。今の大統領は国名を変えることからしなくてはいけないのではないのか。

*今のフィリピンでも国外から不純なものがもたらされたとイスラム教を信ずる民族自決団が存在する(向こうの紙幣の絵柄にとてもおかしなのがあるんだな、この自決団の絵ではなかったかと今でも思う)。僕が知っているのはマルコス大統領がやめる数年前だったが、マニラの都市でものほほんと一人では歩けないところであった。銃を店で買うことができたからね。あの当時、アジアの安い人件費を求めて会社を現地に建てるんだがと日本の派遣者がその出張時にタクシーにのって銃で殺害されるという物盗りが横行した。

*今でもホテルのテレビでは、定期にカトリック司祭の聖書の話が流れるね。いずれ根がつかない所に種まいても育たないという訳で、大きく信者と未信者が区分され、スラムでない街の中には鉄線で区切られた大きな区画におまわり姿の門番がいて遮断機を開閉しながら、きれいな家々が並ぶその中へ車が入る許可が必要なのであった。ビバリーヒルズか何かかと思われるような家々の並びは、今までとは場違いな感じで道が清掃され、私の家はきちんとしたカトリック信者です、と表明するかのように聖家族のレリーフが家々の門に貼り付けられていた。

*現地採用の女子は国内における2年ほどの訓練の時、日曜礼拝に行きたいから教会を紹介してほしいと言われ、寮から一番近いカトリックの教会を紹介したが、毎週日曜、熱心に礼拝に通っていたことを思い出す。日本で訓練を受けた女子はフィリピンに戻り、僕が引き連れ日本で大手の電機メーカーの品質監査を受ける。これが聖書の思考の訓練なのかと感心したのが、この仕事上のことであった。決して学歴は高くないのだが、監査の質問事項に対して、迷うことなくストレートに答えが返ってくるのであった。雪のカマクラの小さな置物お土産に対して、帰りに先方からフィリピンの古代からの人形の彫り物をみやげにいただいた、今も玄関に飾っている。

しかし、天下統一を果たした秀吉も結局、黒子の思いに沿わず、道が外れてくる。黒子の一人、千利休もその手を見破られ晒くびとなる。金の茶室などがあるように、大衆から、その黒子の真髄からは外れてきたのであった。

家康は、幼少時代から人質にもなり辛酸をなめてこの時代のありようを体現していた武将だったろう。何が、そして誰がこの国を動かしているか。その秘密は、松平から徳川となったことに秘密がある。黒子集団はこれからのヒーローは彼しかいないと目をつけていた。彼の祖は、徳阿弥という旅の僧なのである。彼を養子に迎えることによって、松平から徳川となのるようになる。旅の僧?(ここに阿弥という名がついている、先のブログから読まれた方は何かつながっているのを感じないか?そういえば、みすず学苑の創始者、深見東州とかいう人のトト阿弥とかいって能をやる人で万能人のような・・・)まさにこの国を思いやる脈々と流れる黒子の一族なのであった。

豊臣から関東への配置換えを言い渡されたとき、多くの武将たちの不満を抑え、むしろ嬉々としてその地に赴いたのではなかったか。何故なら、東国武将の発祥の地へ向かったのであったから。徳川も源を名乗っていたのであったから。傲慢になった豊臣家に対して、この国の行く末を思いやる家康は豊臣家を滅ぼさなければならなかった。すべての宗教も重んじた人なのであった。(キリシタン弾圧に対してはいつぞや)

徳川家康のブレーンはご存じ天台宗の天海(長寿だった103歳?)と言われる。彼は、実はまさに徳川三代まで仕えた黒子の背後のブレーンだった。実は歴史上からは姿を消した明智光秀の子供だったのではないかと言われているのである。当時、識字率も世界でダントツに高かった江戸は今の日本の主都、東京になっている。

◆僕は日本の国に生まれて本当によかったなと感謝している。・・・


<Ⅸ>Sから電話が来た:親愛なるXへ(その25)

2022-03-25 15:00:46 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるSから。多少、調べてくれたようで、暇なのか? と訊くと熱と咳がでてきたので、検査を受けたのだが陰性だったが、一応大事をとって休んでいる、と。テレワークで毎日PCに向かっていて、気晴らしにブログを見た、と言う。出勤はないがレポートは書かねばならないようで、何についてかはあえて聞かなかったが(聞いてもわかんないだろうから)と思いきや「人間にとっての遺伝と環境」という今風の調査レポートを今までの検体から考察せよ、とか何とかだそうだ。詳しくはもっと知られた遺伝病のようなものを研究していて、遺伝と言えば、古代人からの骨がどうのこうのと、つまり彼は、遺伝に関することを研究しているらしかった。いずれ内容は暗いらしい。事実と言えばそれまでなのだが。

Sはそもそもそういう話が、まぁ医学部目指したからなのかどうかは不明なのだが、最初の出会いでの会話が、今でも覚えているが、高校時代にいかに博識とは言え、読んだことないのか?と真顔で言われた、それはハイゼンベルグの不確定性原理という奴だった。知らねぇ、というのが第一印象。当時は、これからは原子力の未来エネルギーの時代ということで、湯川秀樹や朝永振一郎とかノーベル物理学をとった時代で、ひとしきり原子核の講義をその時、受けた。

そんなこともあって、一応お互いの思考の傾向をしっているので、ぶちゃけ面白くないだろう小難しいような話も大いに興味の対象となるのであった。で、彼と話を始めるとしきりとその小難しいと思われる内容となるのであるが、こちらの理解如何にかかわらず、お前も何かの足しになるだろうからと切れ目なく話し始めると止まらなくなる。ただ、普段の仕事のガス抜きをしてるのか、と思われなくもないのだったが・・・。

おおぉ、脳みその神経系のドーパミンがしきりに放出されるのか、もともと知能が高いのは、その知識の神経系のつながり持続がとぎれないのか、そういう意味で医者にならんとする奴は僕のような縄文人とは違うのやな。時折、あぁ、今日はいい天気だ、やはり太陽がまぶしくなると嬉しいな(と、時折コーヒーをすする音もして)そのうち山に行こうぜ、と言い始めたかと思うと、急に声の調子も変わり始め、

ハドリアヌスはローマのお風呂好きで有名だな、平たい顔の日本人がでるテルマロマルエでその名が出てくるけど(これは僕がブログに書いたものからなのか)まさにあの遠い国からシルクロードを移動してきた、血が混じれば鼻が高いのも中和され、うりざね顔になってくるという訳だが、まさに東北は北方からの移民で混血し、”涼しまなこ(目)”の美人が生まれるということだな。木村伊兵衛の写真があるやろ、あの秋田美人の相撲取りの大鵬とか、最近では高校野球金農の吉田投手なんかの涼しげな眼は、ご先祖が大陸から混血のDNAのためだな。似てんじゃん。(それってブログに書いていたことやん)・・・

そうそう、お前が書いてた太秦(うずまさ)が映画村なのは、そもそもユダヤ人の血を引くお前の好きな秦氏が、芸能関係も秀でていたから、やはり大衆操作(否、大衆の喜ぶ芸能)の劇場を造ったのではないのか。ローマの五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニウスは中国で大秦王アントンと言われていたしな。・・・こういう話がでてきたのは、彼の家の本棚に辻邦夫の「背教者ユリアヌス」の1冊の分厚い本があったからなのかは分からなかったが、そのチクチクと気にかかる細かな博学であろうことをひけらかすようでもないのだが、時折気になる詳細な知識に、こちらも、お前本でも書いたら、とこちらも言ってしまうのであった。

秦氏がさぁ、能の観阿弥、世阿弥、音阿弥らがその一族であることは知られているわね。特に世阿弥が有名だけど、なぜ、観世音なのかね。観世音菩薩というのがあるやん。阿弥とうのは梵語からきているらしいけど、阿弥陀如来とうのは、そもそも秦氏が日本仏教に固定化したものではないの? 阿弥陀如来は、キリストのことだ、という人も現れてきたし。紀元前に離散し東へ向かった部族で秦一族はキリスト誕生を伝え聞き、キリスト教に回心したといわれ、日本に渡来したのだな。

あの日本に多くの技術集団で渡来帰化し貢献をした秦一族は、殆ど日本の歴史上に名前としてはのこさないな。聖徳太子のブレーンだった秦河勝が知られているが。秦(しん)の国で多くの国つくりの辛酸と教訓を得て、この日本にわたってきたのではなかったか。中国での景教(ネストリウスキリスト教)は大秦寺を本拠地として大変、流行した。ローマ寺ということになるな。(空海は留学時、この寺にお師匠の恵果の勧めでこの寺も訪問している。それで高野山には「大秦景教流行碑」のレプリカが建立されているのである。)

お釈迦さんが、何かの仏典でしきりに阿弥陀仏は、阿弥陀仏は・・・。と褒めちぎっていたというのを学者から聞いたことがあって、釈迦も将来、地上に建言する救い主、つまり浄土(キリスト教では天国)へ導きいれる方の存在を認めておられたということなのだな。つまり、地上に実際に顕現されるその救い主のことを、だ。・・・でこれから先は、お前の得意とするところだろうから・・・ キリスト誕生の東方からの三人の博士の内の一人は仏教徒だったに違いない、と言っている学者さんもいるからな。

浄土宗、浄土真宗は、つまるところ天国にいくための祈り(本願)が第一であるわけだ。阿弥陀如来の仏像も、親鸞はあれは方便である、つまり対象がないから顕現した手段であると言っておられる。実は地上にお墓も不要と実に合理的な考えをされていた。年齢、男女問わず、南無阿弥陀仏と唱えなさい、と。阿弥陀仏は浄土へ必ず救ってくださるであろう。「主のみ名を呼ぶものは皆、救われる」(これは旧訳聖書のヨエル書だったか)、新約で言えば、「絶えず祈れ、絶えず喜べ、すべてのことに感謝せよ。」という言葉になるかな。

徳川家の菩提寺でもある増上寺の入り口に法然さんの幼少のころの像がある。法然の父上は秦一族で漆間国時といって漆職人だった、で母は錦織で機織り職人だったらしいから、つまり真のキリスト教に沿っている。やはり、天地創造来に宗教性はその深層で、肉体的にも人のDNAにもずうと流れているのだなぁ、と思ったしだい。

言いたいことは、こうだった。正倉院の宝物にも当時のペルシャのガラスコップがあるし、あの時代の諸々の影響が日本にも伝えられていた、彼らが来ていたのは確実であり、当時のゾロアスター教(拝火教)は、そもそも日本に来て、護摩法要になったものだろう。奈良の大仏殿ではインドから僧正をよんで行うし、あそこも元はペルシャから来たゾロアスター教の流れなんだな。しかし、この地上の見える所作はさまざまであろうと、天地創造の人をも創造した神は、それ以来、歴史上の人におけるDNAをも通してこの国の精神性を形成してるのであると。肉体的にも精神的にもその吐出するきっかけとなったのが東国武士の出てきた鎌倉時代ということなのかなと思う。


<Ⅷ>黒子への招待:親愛なるXへ(その24)

2022-03-24 18:31:29 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ◆この写真は僕の生まれた隣村にある諏訪神社である。与謝蕪村の句が残されている。僕の生まれた部落の北の端には、正岡子規が来て八郎潟を見て読んだ句碑が建てられている。こんな田舎は、昔の人に行ってみたいロマン語る地であったのだなぁ。・・・本題へ

◆織田信長の祖は古来、渡来し鹿島、香取での神祈職の(つまり渡来したレビ)忌部氏だったそうな。忌部氏はタケミカズチが中臣だからフトダマノなんたらだったな。信長は飛躍して考えると宗教に関しては極めて合理的な考えを持っていたエピソードがある。時代のうつけものと呼ばれた彼を時代の黒子は選んだわけだ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、間に明智光秀を挟んで、この時代も黒子の演出は深層で画策されて進んでいたようなのである。

◆舞台に現れた始まりとしての鎌倉時代以降の武士のあからさまな武力による日本の改革について、古代からの(僕に言わせると)天地創造来の紀元前の失われた離散したイスラエル10部族の先陣隊に引き連れられて東へ向かったレビ(ラビ)集団が、この地で山や岩や木をご神体としてあがめ、やがて後発も大和や北九州に上陸し、モーセの幕屋のような礼拝所を作り神社となって広がったのだろう。もともとの古い考えの根は同族ではあるがそれぞれの古い神々を出雲に一度退散ねがって封じ込め、新しい時代の神々に国譲りをして天皇の歴史に統一していくべく神武東征が八咫烏(新時代の黒子)に導かれてこの国の統一がなされていった、という筋書きのようにしたのであった。(鹿島、香取神社が太陽が昇る東に向いて建てられているのに、出雲大社は西を向いて建てられている。そもそも、仏教で西方浄土と言われるけど、その地は神があのイスラエルの地に呼び戻すと、聖書でも書かれたその地のことではないのかなぁ、と思ったりする。)

◆んで、時代が下り新しい目に見える仏像などは目で分かりやすいし天皇が好んでしまったので、元からいた物部氏が仏教なるものを取り入れた始めたとき、あだし神を取り入れると国が亡びるぞ!と頑張って、確かに災いが何度か起こるのだけれど結局、仏教の蘇我氏に敗れて東北に逃れるという筋。まさに物に関しての技能があったから、鉱山知識も併せ持ち、銅から鉄の時代を作った部族でもあった。東北には鉱山が多いのはその由らしい。

◆それは各地に修験者となって、あるいは山伏や行者などと呼ばれて、特に東国や東北地方に分散。その一つが先に書いた出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)だったわけで、大変な数の非常時のバックヤードとして武士の時代に活躍していくわけです。鎌倉殿の13人にも「呪い殺しましょうか」などという快僧が出てくるのは、まさにそうだった。だから、武将は怖い顔の仏像を守護神にしたりしている。彼らのもともとの土壌だった東国から。京からの政だけではない新しい時代と感じて、体制側からの離反のようにそれぞれの武士が派生して祈祷者もついて回ることになったわけだ。時代をプロデュースする黒子は、ずうと存在していたのである。つまり一極集中ではなく、この国は、すべての衆生のものにという、どの国でも非常に難しい難題の解決に動き始めた時代だったのである。この国の黒子たちは、遠い将来、つまり今、僕らの住んでいるこの不思議な国の行く末を画策していたのである。

◆これほど、ひとりひとりの民意の高い国は世界のどこにもないのではなかろうかと思ったりする。この国は無宗教であるといわれるが、今も流れるこの黒子の思いはこの国の精神性にしっかり根付いているのだな。宗教が政治において肯定されればその宗教家も政治家もろくなことにはならないと知っていたんだな。ところで、旧約の民のDNAであれば、新約の精神?はどうなのか。まさに、僕はそのためにずうと書いてきたのだよ。これは非常に高いハードルのようにも思える。それは、一人一人が黒子になり世界人類を永遠の命に導こうではないかという、一見とほうもないビジョンに置き換わったからなのだ。

◆今はレントの時期である。イエスの受難を迎える季節である。彼が十字架にかかった時、ローマの百卒長がこの人は本当に神の子だった、述べる記事がある。その時、神殿の幕屋が上から下まで裂けた、とある。これは何を意味しているのだろう。幕屋に似せて作られた神社から言えば、拝殿と本殿があるその仕切りであった垂れ幕が裂けて、神の基があからさまになって、我々も近づき真意を知ることが出来るようになった、それを成し遂げたのがイエスの死であった、ということなのです。世界のベストセラーを自分の言葉で読もうとすると、壁にぶち当たるが、それを解析し、時間と空間との軸でさらに思考する階層を意識しながら読んでいくと、時間がかかるかもしれないが、黒子が分かってくるし、彼らが今も存在し、ある方向に向かわしめて働いていることが感じられてくるのだ。その時あなたも黒子の一人にいつのまにか加わっていることだろう。


<Ⅶ>黒子たちは神を恐れ「天になるごとく地にもなさせ給え」と動いていたかもしれない!?:親愛なるSへ(その23)

2022-03-23 17:47:14 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるS:これだけは言いたかった。私的な事だが、姉の旦那から電話があった。かけ放題だから気にするな、と2時間以上も話し込んだ。お話がとても好きな方なので、古館一郎のような感じの方。で、その顛末はこう・・・

J:「てっきり、俺はイエスを裏切ったのはユダという名前だったから、そこからユダヤ人というのかと思っていたのだ。」

G:「いやいや、イエスもユダヤ人ですよ。(と、話はじめるとこちらも止まらない。)話せば長い話と、世界のベストセラーの天地創造からの長い話をつらつらと、話しきれないので、アブラハム、イサク、ヤコブ。。。そのヤコブから12部族はでてきて、最終、その中のユダ族はそのレビが強かったのだろうそこから出たBC1000年頃に統一したダビデ王。その子ソロモン王の時、一番栄えてのだが神の言葉を取り次ぐレビの言葉も。神の戒めを守れずやがて、北イスラエル、南ユダに分裂。北イスラエルの国が先に消滅、世界に離散。南ユダが頑張るが結局バビロン捕囚は知られているが・・・。しかし、そこで後に起こされたペルシャによって帰還することができたユダヤ人達であったが、・・・ここで、優秀だったからその国に政治にまで関与したであろうレビが、その国の中枢において画策し、神の戒めを律法化して二度とこんなことになりませんように誓いますと、律法遵守の新たなるガチガチの民族として帰還する。そこで初めて公になったユダヤ人となったらしいのですね。肉体と精神に悲惨を経験し、痛い目に遭って、後のバビロンを破った宗教に寛容であったペルシャからこう言う我らの戒律を守りますからと公にして、帰還を許されて苦労の末、神殿を建て直す。我らの先祖の神の預言通りではないかと・・・けれど、そうなったから結果から事後預言ではないかと思われるところもあるが、詰まり、結果から遡って昔、預言者はこうなると、そのとおりになったと、あとから聖書を編集したと。(古代飛来した宇宙人にまで遡るような存在の黒子は既に失楽園になった時から人間の世界に存在していたらしいのだが・・・この話はややこしくなるのでそのうち。)いずれ、信ずる先祖から伝えられてきた神は生きておられ、我々の世界をプロデュースされているのであると、そのお方の戒律に従わないと悲惨な目にあうと心身に焼き印された。一般に昔から分かりやすくするためと一概にユダヤ人と言っているけれど、詰まり頑迷な・・・。ですから人種というより、男は割礼をし律法を守るというその生き様をなす人々がユダヤ人であると言えるでしょう。・・・日本人でもこう言ういみでのユダヤ人になった方はおられますよ。で、僕が何を言いたいのかというと、そのような歴史の事実は結果として書かれたものですが、それを演出し動かしておられる神が、『それ行っているのは私だ』とのたもうておられる方がいる。それを信ずるか否かということになります。

 今も生きて働いておられると・・・現実、地震も又、あったばかり戦火で人命が損なわれてこの21世紀でと驚くようなロシアの発生も聖書に書かれているのですから。・・・古代からこの日本においてもでね、僕が書いてきたのは・・・。古代流れ着いたユダヤ人が個々にその部族はレビ(神主のような)がいて、しかも彼らは専門職で、もともと割り当ての地がなかった。山にこもってひたすら神のご神託を聞き、当時の政の行く末を祈祷して実現させ、あるときは僧兵となって(これも神道でけでなく、仏教でも、所謂、宗教ごときにはすべてにな何らかのこのご神託を祈祷する所作でもって、当時の武将を支えた。)天になるごとくこの地にもなさせたまえ、とあるときは時代のヒーローをしたてあげ、世相を操作し、日々、修行と祈祷に励んだという不思議な国がこの日本という国であろうと思われる訳です。それが東国にいた彼らが天皇の指令によって蝦夷制覇などの依頼後、この国にあからさまに起こったのが鎌倉時代からだと僕は思うわけです。古代その中で、日本に来た後発の最も強靱な黒子集団が、神武東征を導く”八咫烏”らしいのですねぇ。今までの日本の国の武士発生の切った貼ったの争いが、実はこの背後で、各、黒子が生き延びようと画策していたらしいのですねぇ。」

◆ともかく彼らは、預言者であって、天地創造の神を信ずるDNAを持った血の流れの元にあったわけ。そこで暗躍した大きな集団であったのが、先に書いた山形県の出羽三山にいた大きな集団だった訳です。調べられると実に多くの歴史上の武将がここに関わっているのです。この衆徒は、平将門の場合は朝敵に組し、義家の場合は国権の側に従ったことになり、羽黒山には立場の一貫性がないようなんだけど、実は時代の人気の側に立っていることは同じだった。将門も義家も庶民を魅了する英雄名将なのだ。羽黒山はいつも社会一般の与論を身に帯していて、民衆の願望を表現していたのだな。先に書いた岩手平泉の藤原氏もここを崇敬した。しかし、彼のご先祖は古代から歴史を自前に画策してきたからな。秀衡は黒子を操作し時代のヒーロー牛若丸義経をつくり、鞍馬山で6歳から16歳まで天狗によって修行したといわれ(鼻が高いのはそもそも渡来人<ユダヤ人>だったろう。)壇ノ浦の戦いの後、頼朝に負われる義経が自ら行者に姿を変え奥羽に入ったのはの修験者の庇護のもと、勧進帳で山伏姿で一行が安宅関を通ったという歌舞伎は誰にでも知られているでしょう。ストリーテラーだった三代目藤原秀衡の大いなる庇護のもとにあった義経。修験者?あの弁慶ですよ。

◆黒子集団も時代の行く末を占い、聞くのは御神託であった訳、これは彼らの古来からのDNAだった。だから、時代を誤った流れを作ろとする画策者は信託によりこれも排除しなくてはいけないと動いたのだね。彼らは知っていたんだよ。旧約時代からの彼ら神の選民族としての血が騒いだのだ。遠い先祖が長い長い歴史をとおして、時には国を作り、戦禍を交え、部族間の争いもしながら、この国のさらに東はもう海であり、ここで理想の国を実現しなければ後はないとね。”つわものどもが夢のあと”、芭蕉がよんだ平泉での争い。奥州に仏教による争いのない国を作ろうと見込んだ四代目泰衡を源頼朝が成敗したのは何故なのか。深層に流れるその黒子たちの昔からの思いがあったのだと思うよ。

◆仏教の守護神聖徳太子が亡くなったのが622年でなかったか。今年没後1400年。聖霊会は行われるのだろうけれど。日本書記(不比等<鎌足の子、関与>)においては、入鹿に聖徳太子一族は殺害されたと書かれ太子を持ち上げているが、実のところ首謀者とされる蘇我入鹿と軽皇子の利害を結び合わせたのは中臣の鎌足(後の藤原鎌足)大化改新の陰の演出者があったのではないかと言われている。中臣(藤原)の祖はあの古代渡来していた太陽の昇る方角、茨木の鹿島(神社)なのだ。渡来し帰化した神祈職(所謂、レビ)だった。

◆旧約聖書の創世記のヨセフ物語の最後に大臣まで上り詰めたヨセフは、エジプト宗教を執り行いつつも自身も親父のヤコブをもミイラとなって、故郷へ帰還し葬られた。それはまさに神の摂理に従った人生でだったのだが、ことこうして天皇に近い存在まで上り詰めた藤原は、恣意的に画策し天皇の地位に入り込んだのである。そして仏教を信じて藤原三代は平泉にミイラとなって眠っている。しかし彼は、仏教を今生の大衆迎合の操作として自らの安寧のみに利用しただけではなかったのか。今生で利用すべきは仏まで、と。ヤコブと同等の実利哲学である。我らが行く末は天地創造の天の故郷である、と思っていたかどうかは・・・。