marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(446回目)こういう苛立ちを世界に引き出すのも彼らが神の選民だからなのか(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-31 22:48:09 | 日記
 小説内の主人公の憤懣やる方のない愚痴、放言は今回で終わります。しかし「過越の祭り」は、この地上の歴史が終わるまで、決して途絶えることなく行われていくでしょう。
◆以下、これは僕の考えです。掲題の言葉に、白か黒かなど決して判断してはいけない内容、歴史の中でかなり複雑になっているのですから、上っ面だけであれやこれやは決して言えない禁忌事項ですね。特に知識に素人の方は・・・。彼らが本気になれば、この地上から国の一つくらい、政権を無くすことができる・・・そういう歴史が僕が生まれる近くまであったと・・・そして、彼らは(考えと言ったらいいいか)今もそういう考えがじんわりと世界に・・・そして昔から、すでに身近なこの国にも・・・ブログ7月1日375回目~を参照ください。落合信彦さんの著作も面白いかと思います。最近では評論家、副島○○の本も、彼はハーバード大学はユダヤ人の巣窟だなどと書いているのを読んだことがありますが、いずれ実際に世界を動かしてきた宗教(こういうジャンルからはとうに逸脱しているのだが)のように僕には思えます・・・。 さて、
◆この国の、平成3年2月25日発行に発行された新潮文庫、米谷ふみ子『過越の祭』の憤懣やるかたない放言は、今も同感する人がいるかもしれないし、僕ら異邦人は全く関知しないという人のどちらかだろう。彼女が書いたパス・オーバーの儀式の様子は、僕が知っている内容その通りだし、内容の説明も意味も間違いないと思った。
◆著者の体験の小説と見えるが是か非かは書きませんが、視点が全く異なっているというか、全く正当に批判するには、同じ土俵に立たないといけないということ。宗教の対立というのは、その上っ面はともかく、全部脱ぎ捨て同じ地球上に住む、同じホモ・サピエンスという種が行っている争いということなのだなぁ、その地点までまずは、同じレベルにすることが必要ではあるまいか、だから、神は言っておられたではないか「異邦人」とは結婚するなよ・・・と(これはあくまで旧約のことです)。これは差別ではなく、相手の事を思ってのことなのだなぁ、きっと。
◆で・・・不細工な義姉の「私たちは神の選民だから優れているのだ」との会話を聞いて異邦人である自分(主人公)は・・・
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 結婚前にもこの言葉を聞いたことがあった。それは日本に宣教に来たビリー・グラハムの説教や、アメリカの宣教師達であった。あの時、わたしは友人と「わたしらは神に選ばれなかった下賎な賎民なんやろか。全く馬鹿にしている。何というぬぼれ!」と憤慨したことがあった。自分が自分で神の選民であると呼ぶなんて、神が聞くと”へそが茶を沸かす”とあのとき二人で大笑いをした。西洋ではそれが当たり前のことのようにいわれ信じられている。ユダヤ教徒は自分達が神の選民であると豪語し、キリスト教徒は自分たちが神の選民であると豪語する。果ては選民が他の選民グループを殺すことになる。西洋人は自分のことを褒めそやす。自分が他の人より優れているのだ。自分のしていることが正しいのだから他の人も同じことをしなければならない。そこに何のわだかまりもない。そういうことの原因がここにあるのかもしれない。〔・・・・〕(p148)
 それから首を振り振りヘブライ語でわたしの続きを読み出した。得々として、選民らしく、如何にもクラスの秀才が教科書を読んでございというふうなのを見ると、20年昔の憤怒がますます募ってくるのを押さえられなかった。〔・・・・〕(p149)
 終わりのない苦しみが待っている。〔・・・・〕若い時に失った時間は永遠に失ったのだ。この一線を飛び越えると他人と同じ生活が、心構えが出来るなんて夢物語であると思う。永い永い回復期がわたしには要る。そしてその果ては回復しないかもしれないのだ。西洋のボーボワールの世界なんて絵空ごとだったんだ。彼女のさかしさだってわたしの問題は解決できない。(p150)
 残り少ない命を大切にしなくては。20年間をこの病んだ家族に注ぎ込んだのだ。少しでも自分を大切にすることを考えないと、何のために生まれてきたのか判らなくなってしまう。そうだ、今出ようと思えば出られるのだ。誰も見てやしない。外は聖書にあるように砂漠でも海でもない。タクシーもあれば飛行機もある。何とかしてこの家族から飛び出さねばならない。そうしなければ、わたしの一生は奴隷のように終わってしまうだろう。〔・・・・〕(p152)
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◆それから彼女は、気づかれないように儀式を抜け出し、夜の町へ抜け出していく。マンハッタンの、20年前昔わたしがやって来た時のように、希望に溢れた陽気なまちに見え始めた。〔・・・・〕あそこで明日からのことを考えよう と道子は思うのだった。・・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(445回目)異邦人には知らないと馬鹿に見えるか(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-30 19:41:47 | 日記
 掲題、小説の主人公、ユダヤ人を夫にもった、その親族の「過越の祭」という儀式にやむを得ず出なければいけなくなった「切れ」具合は続きます・・・・

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 パス・オーバー・セーダー(過越の祭)は聖会であり、儀式である。儀式というものは、知っていないと全く馬鹿に見える。間違いを起こすことも許さないかのように見える。逆に、儀式を知っている人々は、如何にも賢しげに見え、又、その知識を誇示して得々と振る舞うのを見るのは鼻持ちならないし、いつも無性に腹立たしくなったものだ。だから敢えて自分をその中に嵌まり込ませたくなかったのである。(p96)
 パス・オーバー・セーダーが始まるのは6時半だとアル(夫)が言っていた。
 そんなことは聖書の中の話と思っていたことが、20年前、アメリカにやって来た時、この摩天楼のにょきにょき立っているマンハッタンで未だに蜿蜿と行われているのを発見して愕然とした。他の民族が、その民族の古い書物に書いてある、嘘か真か判らないお伽噺めいたことを信じて三千年も祝っているのを見て驚愕するほうがどうかしているのかもしれない。自分の国にも似たようなしきたりがあっても、自分に関係のない人が遠方でいつもやっているので、大して気にもならなかっただけのことなのだから。唯、自分の親類がやっていると聞いて、なんと旧式な家族の一員と結婚したものだと、日本では他人ごとであったのが、ここでは我が身に降りかかって来たので嫌悪に陥ったのである。しかも出がけにそのセーダーが4時間も続くのだと聴いて、唖然とした。(p100~101)
 著名なユダヤ教徒が死ぬと、その葬式に知事や市長も参列する。それがユダヤ教のお寺シナゴグで行われるので、私たちがニューヨークに住んでいた時はユダヤ教徒でないリンゼイ市長とかロックフェラー知事がこのヤマカを頭に被ってシナゴグに入っていく写真をテレビや新聞で見たものである。(p108~109)
 西洋の女は皆ボーボワールではなかったのだ。”第二の性”なんて通用しない。(p132)
「旧約聖書であっても、新約聖書であっても一冊の本ですからね。東洋人から見れば同じ一冊の本です。それに西洋ではユダヤ教だ、カトリックだプロテスタントだと絶えず揉めているのが不思議でたまりません」
 そこに居合わせた伯父、姑、義姉が、座っている椅子から電気ショックを受けたように顔が引き攣れ、瞳孔が開き、やがて顔全体が硬直するのをわたしは見逃さなかった。(p133)
 日本で信者でもないのに、たまたま行ったバイブル・クラスでお祈りを言わされたのを思い出した。あの無理強いされた偽善的な言葉がたまらなく厭であった。 
ここに座っている人々は、どうしてわたしが、マリリン・モンローやエリザベス・テイラーのようにユダヤ教に改宗しないだろうと思っているに違いない。この人々にとっては他宗教は存在しないのだ。こういう排他性がユダヤ教からキリスト教や海峡に受け継がれ、その末はお互いに殺し合うようになったのだ。人の主義を黙って放っておけない御節介な西洋。それが植民地主義であり、宣教であり、ナチズムである。(p146~147)
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 ・・・アメリカに自由を求めて来たはずが、障害児を抱え自由時間も無く、頼りなさそうな夫、おまけに不細工な御節介の義姉、蜿蜿と続く宗教儀式、諸々の鬱屈が小説を書く原動力となっているようなのだが・・・この国の一般人と言わず、儀式めいた参加型のしかも、言葉が求められる宗教儀式に主人公は切れまくる・・・ 小説とは言えここまで書いていいのかなぁと心配になってくるが 続きます。 

世界のベストセラーを読む(444回目)米国トランプ大統領のブレーンはユダヤ教信奉者 (『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-29 07:45:05 | 日記
 この小説の道子という主人公が「切れる」部分を抜粋する前に、今も彼らは本気であることは、ニュースで現在、物議を醸している通りです。アメリカのトランプ大統領が、イスラエルにアメリカ大使館を作るような話をした、冗談ですか?という耳を疑うようなことがありました。トランプさんの政策ブレーンの一人とも言われる娘さんイバンカさんのお婿さん(夫)は、富豪のユダヤ人のお一人です。夫がユダヤ人であれば、お嫁さんは当然のごとくユダヤ教に改宗(もとのキリスト教、宗派は分かりませんが)されていますと。そもそも、トランプさんが国内の今もいろいろなところでの物議発言は、そして第一にどうしてそのような人が大統領に・・・と考えられた理由が、背後にそういう方々がおられたのかと推察ができたしだいでした。(これは、僕が勝手に思っているだけですけど・・・)
◆ですから、一見、宗教などと簡単にかたづけては決していけません。現在の状況の是非はともかく、今も途切れることなく永遠の命への脱出と繋がっているのです・・・ということになります。(おい!、嫌だなぁ、彼らの信じている神様って言う奴は、日和見、偏見、差別者なのかい? という声が聞こえてきますね。いやいや、それがキリスト者、イエスの言葉を信じている者の闘いでもあると思います。「神の許し」ということが言われますが、大目に見るというような甘えは、少なくともイエスの弟子となった人々には無いように思いますねぇ。)
◆それなら、今のキリスト教国の諸々のあの緩んだていたらくぶりは何なのかという声も聞こえそうだが、これは個人的な闘いでもあるのですね。時代は降って、傍目からは知り得ないですが質の課題ともなっていくものかと考えているのです。新約聖書には、後半「偽ユダヤ人」という言葉も見られてきますから、この方面からも経済ニュースを見ていくのも世界の動きが分かりそうです。が、善し悪しを判断する前に、世界のベストセラーは、人知を越えた神様の書でありますから、観念的な実態のない心の満足というものだけでは無論なく、世界の歴史を実際に動かしてきた書でもあることを(一応)僕らは心すべしです。

◆前置きが長くなった・・・では、小説『過越の祭』から主人公に言わせている部分の抜粋・・・
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 唯、宗教と聞くと、欠伸(あくび)が出て、うんざりするのは昔からだ。坊さんの「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」も情けなかったが、坊さんは、こっちが信じていようが信じていまいが、お構いなしであった。わたしの生家では、坊さんのお参りの日、クリスチャンである母がいつも挨拶に出て、それで済んでいたのである。アメリカ社会に住み出して、一番悩んだことは、キリスト教の宣教師が、異教徒を改宗させようとやっきになり、追っても追っても飛んでくるへ蠅(ハエ)のようにしつこいことであった。そのために、日本人の中には根負けして改宗する人が多くいる。自ら求めて信じるという純粋さなど何処にもないのである。ユダヤ教はキリスト教ほど宣教に重きを置かないが、それでも、自分たちの神は万能の神で、他の宗教の神は邪神であると決めつける。仏教は、法事の時に集まることはあっても、毎週礼拝に行くという掟はないが、西洋の宗教は、教会なり、ユダヤ教のお寺シナゴクに毎週行き、礼拝をする。そういうところにたまたま参列すると、その参列者全部が異教徒であるわたしの上にのしかかってくるように感じるのだ。その礼拝に集った人々が一つのコミュニティとなり、がんじがらめに団結し、同じ身振り、同じ言葉で話す。わたしは全く自分の異なっていることをいやがうえにも自覚させられるはめになる。それは恰も、子供達が仲間を作って遊ぶ、テェーン・エージャーがグループを作るということと何ら変わりがない。個性なんて育たない。 (p93~94) 〔・・・・まだ、続く・・・〕   



 

世界のベストセラーを読む(443回目)この国の『異邦人』も切れた!(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-28 22:45:30 | 日記
 カミュの『異邦人』は、アフリカのアルジェでアラビア人を、太陽が暑かったという理由づけで(つまり、理由つけなどどうでも面倒くさいからといいのだということだが)拳銃で殺害してしまったという主人公ムルソーに、死刑になる前に司祭が告解を勧めるのだが、全くその気がなく、完全に頭にきて切れて司祭に暴力まがいのところまで言ってしまうという話であった。その司祭は無論カトリック・キリスト教のである。
◆今回の相手は夫がユダヤ人、その家系が「過越の祭」をしきたりにそって行うことに対して、嫌であったが誘われその雰囲気にこれ以上我慢できないと夜の町へ儀式途中に飛び出していく場面で終わる話である。相手がユダヤ人なので、これは本来の異邦人は非ユダヤ人であるという定義に収まる。どちらにしろ、長い歴史というもとでの心からの先理解が必要であるのだが、いずれ主人公のその宗教に対する先理解がまるでない。僕は、その宗教観が異なれば、特に他人の心の中など、まして宗教観など他人から言われる筋合いは全くない!ということは今もこの国の殆どの人の考えだろうと思う。それはそうだな・・・。まずは、少し長くなるが、この小説の主人公、道子がキレてしまうその考えを抜粋して書き出してみたい。次回、444回目から・・・。
◆その前に先んじて結論を書いてしまえば、こういう事態が起こることは聖書(彼らが信じている聖書とは、今の旧約聖書に当たるのだが)に書いてあるのです。夫であるアルがだめでしょうということになる。彼らが信じている旧約聖書には、異民族との結婚を禁じているのだから・・・というのが結論です。きっちり書かれて、異民族の妻子との絶縁を奨励した(命じている)のがエズラ記第9~10章です。彼らは、今も本気です。彼らはそういう神を信じているということで多くの困難と試練を乗り越えてそれを守り通してきたのですから。
◆それで、この主人公(おそらく著者ですが)に対して言えば、この小説の中の冒頭で、「過越の祭」の由来の聖書の箇所、旧約聖書の「出エジプト記」を書いていますが、それであるなら、聖書は、中途半端に読まないで、そして、その祭りの由来だけを書くのではなくてですね、夫の親族が皆、結婚には反対だったと書いてありますが、その理由を彼らの信じている聖書から捜して書こうとはしなかったのでしょうかねぇ。 その夫の親族には、坊さん(つまり宗教の専門家、ラビのような方もいるとすれば)尚更、彼らは、それに現在でも命を賭けているといってもいいくらいですから、真摯にこれに聞かねばなりませんという事になる。
◆小説として読む分には面白いのですが、この国と言わず、異邦人はすべて、このようなものなのだろうか、しかし、「排除」ということばが「希望の党」の今回選挙で票を落とし理由のように、言い切ってしまったら、人という生き物として喜ばしい結婚にケチをつけることになり、大衆受けしないということになる。「屋根の上のバイオリン弾き」はユダヤ人の似たような話だが、キリスト者の闘いは、実はこのような処にもあるのです。
◆『過越の祭』新潮文庫(平成3年2月25日発行)(Book off にて100円)
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 20年前、アメリカ社会の自由を夢見て、あの因習的な男尊女卑の日本社会からやっと飛び出してきて、これから自分の好きなことだけをしておればよいのだ。と、夢と希望に胸を膨らませアメリカに来たものの、夫となった相手がユダヤ人、お互いだけならいいのだが親族がらみで、いやいや誘われ、「過越に祭」に参加させられる羽目になった。
 それでは、そろそろ、本文から・・・先に結論書いたので少し、覚めた感じになるかもですが、この国の殆どの人は、いきなり本題聞かされても、分からないだろうよ・・・という気持ちになり、主人公(筆者)の言いたいことに、それはそうだ!と同意する人が多くいることだろうと思う。・・・ 続く 
 

世界のベストセラーを読む(442回目)この国の人々に”命の言葉”を理解してもらうには・・・(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-27 06:57:13 | 日記
 結論から言えば、掲題の希望は無理である。人である自分という生き物がそういうことをおこがましく言うこと自体、「的外れ」というものである。しかし、そう成るように希望し、「祈る」とかの所作であれば大いに結構であるし、キリスト者はそれを行うことが望ましい。(あえて、”そうあるべきだ”となどということは書かない。)それを強く言えば、不完全でしかも消えていく人の言葉の強制となり、人世界の雑音がかなりしかも必ず混じってしまうからである。それは最終、神がその人になさることの範疇に入るからですねぇ。 
◆障害はここにあるのだと思うのですが、真の神の啓示によりと書けばいいいか(そもそもこれが僭越な考え方で限界なのだが)、真にイエスの言葉を伝道しようと選ばれた方達は、永遠の命を与えるイエスの言葉を伝えようとしているのであって、つまり自分の言葉で自律したイエスとの会話をし生きて行くと決断を頂く弟子達が増えてもらいたいと願うのであって、しがらみだらけの知識としてのキリスト「教」を伝えようとしているので決してないのです。 日本のかつての伝道者は、これで苦慮した、今の時代もと思いたい。キリスト「教」ではない、キリスト「道」であると話された牧師が多くおられた。(だんだん理屈ぽっくなったきたけど!)。ここが限界かと思います。
◆どの牧師さんにでもいいから尋ねて見て欲しいのですが「キリスト教を伝えようとしているのではなく、イエス・キリストを伝えようとしているのです、しかも、その今、生きている命を与えるその生きた言葉を・・・」ということは、その通りですというでしょう。そこで、こうしなければいけないとか、ああしなければいけないとか、周囲と自分のことが気に始めたらまさに、お弟子の入り口にさしかかったということかと思う。それがしがらみ・・・ああ、これが「狭き門より入れ」と言われていることなのかと理解されたらいい。
◆古典なのだが、ジョン・バニアンの『天路歴程』という本が、イギリスで書かれ、ピューリタンが発祥して自由を求め、新大陸に脱出を図ったことは、その事件を記憶に留めることが必要だと思う。それ以降の歴史がいろいろあるがそれに流されることなくです。罪深い人間はと言えばいいか、必ず以降のつまり今生きている時代の判断で過去を見ようとして、勝手に総括し分かったようになるものだが、時代が緩くよどみ易いものだから、自分という人間も含め今を生きる人間はなどという考えを無意識にも心の底に自己点検をしつつ、キリスト者は生きてるものなのだと思いたい。
◆イギリスに今も皇室の方(世界の・・・)が留学されている理由が、何故か僕の中では繋がっているんだけれど・・・。イギリスは伝統の歴史そのしがらみを法の下に断ち切った歴史をもつのです。これは、世界の歴史の中で、『法』のもとに人類の普遍性をレベルアップしようとした大変な歴史を持つ国だからと勝手に思っているのです。イギリスの首相の世界への発信のメッセージを注意されたい。「『法』のもとに」ということばが、今でもしばしば出てくる。こういう歴史を持つ国は、国が貧しくなっても廃れないだろうと思っている。
◆さて、アルバート・カミュの『異邦人』について書いてきたが、掲題の文庫本はこれも新潮文庫である。米谷は(こめたに)に読むことが、彼女が書いた表紙の絵のサインから分かる。カミュの異邦人は、アフリカ、アルジェであったけれど、これは、この国日本の女性がアメリカのユダヤ人を夫にもって、アメリカのユダ人の過越の祭の儀式に参加せざるを得なくなり、そこでまったく自分は、異邦人であることを感じて、切れてしまう・・・。それがこの小説を書く原動力ともなっていると思われるものである。いきなり、永遠の命を与える言葉・・・などと大上段に構えたブログでドン引きする方が多くいるだろうが、そういう多くの方が読めば、そうだ、理解できる! とこの国の殆どの人がそう思う小説だろう。「新潮」新人賞を受賞した・・・ 続く