marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(646回)  (その3)宗教改革は終わっていない「われらの戦い」

2020-03-27 16:42:45 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆宗教改革は終わっていない・・・実はこの言葉は、イギリスからアメリカを目指したピューリタンの人々に贈った説教の中で語られたものでもあった。考えてみれば、神の言葉が一人一人のものになるとき、困るは”反逆する者”であろう。つまり、悪魔。カミノコトバを手にしたがゆえに(錯覚としても)、人々が語りだしたはいいいが、イケイケドンドン、自由だ自由だと収拾が付けられなくなってくるわけだ。自由を獲得した民衆に委ねるか、それとも管理社会の中で統制をとらないと収集がつかなくなる・・・というか、それからの地上の歴史の思考はさまざまのアクシデント、第一に豊かな経済基盤を規定に求めて・・・が様々な哲学(イデオロギー)、特に政治経済学なるものが首位を占めるようになっていったのであった。世界中に張り巡らされた市場経済、物や人ばかりでなく多くの情報流通がおこることによって、神が求めていたものは自分を認めるかいなかの人の魂の質のありようだったのか?

◆キリスト教の歴史といえどもヨーロッパにおいてはその後、プロテスタント同士でも実に多くの争いがあったのだ。悪魔の行き場は狭くはなったろうが、いよいよもって苦しくなれば、どのようにしてか人類の命を消滅させようか、あるいは多くを手下にして大逆転を図ろうかとあれこれ試行している訳である。当時、民主主義を破壊するのは民主主義でもあるだろうと早くから見通していたのは、若きトクヴィルという社会学者ではなかったか。良いと思われるなかにも闇への緩みがあるものだと。(先日、BSのワールド・ニュースでオランダの環境担当の部署の一室が映されたときその壁には彼の大きな肖像画が掲げられていたな、なかなかの好青年の顔立ち。)

◆神が霊であり目に見えない。悪魔は無論、目には見えないが、人を媒介とする、神の与える生命エネルギーに寄生して、そのエネルギーを真逆の命を滅する方向へ引き込み抹殺しようとする。これは、身近な様々な子殺しの親とか、通り魔殺人とか、あるいは役に立たない人は抹殺しても構わないなどの事件などを見れば、確かにいるのかもしれないなどと思ってしまう。さらにスケール地球代に広げれば、これもやっぱり目には見えない、しかもやはり人を媒介とし生命へのエネルギーに寄生しその起動力に同化し、その生命自体を蝕み、破壊する、第一に目に見えない形で内でも外でも増殖する。う~む、ウィルス・・・こういう手があったか、なのであった。部隊の主人公たる人という舞台、その土台が全体に消滅してしまえば、それ以上、舞台は続かない。地球上の人類は争っている場合ではあるまい、ということだ。演じる者も観客もいなくなるのだから。最後は、人の地上での宗教論議ではなくなるのである。だが、今を生きる我らに真の神はと真剣に問われた時は、それは、人の姿をして現われ、消滅し、現れ、今も霊で語るその実体というようなことで 語る以外無いないように思われる。その父なる神は世界を動かされているという、すべては有機的な繋がりの中で動かされている世界。そういう中で生かされていることに我々はもっと覚醒しなければならない。

◆だからなのだ、と改めて書かねばならないように思う。パウロが、あの手紙でエフェソ人への手紙に、”最後に言う”(6章10節~)としたためて激励したように、我ら神の似姿に創造され喜ばれし我らは、そういう生命という最上のシステムを破壊すべく、天地創造来から堕落してしまったもう一方の破壊システムにこの地上でそれに対抗すべく一人でも多くが参与し戦っていかねばならないのであると激励するのである。それは無論、今も語られているのである。これは、天地創造来から、天上のパラダイスに帰還すべく招かれた人々の地上での戦いなのである、と。そのような壮大なドラマの中で僕らは今の世界を生きているのである。********「我らの戦いは血肉にあらず、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものなのである。」(エフェソ信徒への手紙6:12)・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(645回)  (その2)宗教改革は終わってはいない!「現代に生きる教会の使命」

2020-03-20 11:23:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆なぜか恐れおおい内容で表題をぶち上げてしまっているが、もともと僕がブログを始めた自己紹介に書いてある ”すべてのしがらみから解放されて” と言わんとしていることを 所謂、評論と神学論文ではどのように述べられているかを改めて紹介したい。まさに、その通りなのであると僕は、いまでも思う。だからブログを開始したのであるし納得しているのです。この日本国では、この地上の上に立ち、そこから生きる術を学び、当たり前の常識ごとき事は文字には残してはこなかったことも多くあろうけれど、地にすむ人々の生業(なりわい)にしっかり根付いてきた人々の歴史をこれからも代々伝えて行かねばならないと思うし、そうされるであろうことを信じている。この地球上の僕ら、少なくとも自分や自分に関わるすべてひとには「どんなことがあっても生き延びろ」とうメッセージを宣べ伝えていきたい。(ここで他人ごとは分からない、そのときには死にたいと願うものも出てくるのだから、そう思う人にはお節介だとおもわれるだろうから。)イエスは、宙ぶらりんに中に浮かんで聞くに心地よい事だけを語ったのでは決してないのだから。

ひとつめの評論は2016年6月11日(21回)で紹介した評論家、若松英輔著「イエス伝」である。表紙の文章のみ改めて書く。***「わたしのイエスは『教会』には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄りそっている」***二つ目は2016年11月13日(176回目)新鋭の神学者W・パネンベルクの本の紹介である。そのブログの後半に記載。その本の題名が「現代に生きる教会の使命」である。まさに、僕が”しがらみ”と呼んでいるものが神学的に述べるとこうなるのだという思いなのです。*** 神のコトバとはどういうものか、真の神は居られるのに、我々にも声が掛けられているというのに・・・と、どのような人が心に思う浮かべるであろう疑問や思いに「教会外のキリスト教」と名付けて考察しているのです。

◆生きて働いておられ、すべての人を招いておられるイエスの言葉に、その歴史、伝統や教派的伝統があまりに、”しがらみ”を形成し、瘡蓋のようになり、その教会組織に依存して安穏としている中に、しかもキリスト教の維持にはそれに結びついて居なければ核心の保証がなしえないという現状に、会員であっても礼拝に出席ししない欧米の事情、あるいは日本の未信者にも実は、多くこういう”しがらみ”が意識として障害となっていること感じている人が多くいるのではないか・・・。

◆M・ルターの改革は「神の言葉をひとりひとりのものに!」であった。イエスのコトバにひとりとして対峙し語り合うこと、その不明なコトバ(不条理なコトバ)の中に自分なりの回答を得られるとき、それは尽きることが無い”大きな神からの恵み”というものに変換されるであろうことを信じる。自分の言葉で回答が得られること。例えば、イエスは弟子達に「信仰があれば、山でも動かせるのだ」と語られ、天に帰られたが、実際、霊的体験のような状態でしか地上においては出会うことがなかった使徒となったパウロは「預言の力、あらゆる知識、山を動かすほどの信仰があっても<愛>が無ければ全く無意味である」とコリントの人々にその真意を伝えたのです。(イエスの厳しい言葉に対して「基」と「派生」ということも神学的に考察したくなりますね。) 生きて働き、神からいただく人を活かすコトバというものはこういうものなのでしょう。・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(644回)  (その1)宗教改革は終わっていない !

2020-03-16 18:43:37 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◇カテゴリーを「キリスト教神学」なんぞにしてブログを書いてきてしまった。・・・で、これって面白いのです。とても・・・。真摯な課題から、冗談?みたいな都市伝説ごときものもありますからね。真摯なものと言えば「哲学は神学の僕である」という言葉があるけれど、それらも含めれば古代から数限りない書物が並ぶ。どう見てもまがいもんという論説まであるが、今から言えば都市伝説の分類となるだろうけれど、古代では真面目に考えられていたことなのだと言われれば、それはその時代であるからなぁというところに落ち着く。現代では無視されるが、その時代その時代で人はそう解釈した、でいいわけである。そこから学ぶことは、同じ地上の人としてそういう時代にはどのように解釈されたのかという学びにはなる。似たような時代になってもそこから前進する見解を持つために、知識としてだけで、知の教訓として学ぼうとしない人も居るけれど。

◆近代以降の小難しい神学論文といえども、時代の要請だろうな、その神学者当事者の時代環境で啓示を受けたものだ、とか考えればよいのであるが、実はまったくの信者、未信者が聖書やキリスト教に疑問に思うこと、つまり、神が実際に居られて今(その時代)、この世界を動かされておられるとするならば、何をか語り給うやなのです。実にこのことを小難しい言葉で並べることを世界中の神学者は行っていることになるのです。ここに小さなひとりの灯火から、果ては巨大なカテードラルを持つ大組織においてもただ一人の人を巡っての議論を行っているのです。断っておけば、この世界中とはキリスト教ベースの世界観を持っておられる社会に住む(あるいは個人でそれをベースに考えを持つ)、神学者、哲学者、社会学者、科学者、医学者、物理学者、文学者・・・・・なのです。これは、キリストの死の意味を知らない人にも、どの国の人にも目覚めた人には、実はその心の基底からの(実は神への)切実な求めになっているのです、否、なっている筈です。未信者かもしれませんがあなたもきっとそうでしょう。

◆僕が”しがらみ”と書いてきたことについて それは意識せずとも組織に、環境に、あるいは自分の肉に依存してしまっている意識、考え と言っていい。そのしがらみが、剥がれてきている時代になってきたということなのですね。神の似姿に創造されて、神が喜ばれたその”人”のありようが詳しく知られて周知されてきた時代になってきたからなのです。若い牧師さん達、キリスト教神学に頭を少し突っ込んで、とかく、その先進国である国外に勉強に行かれるけれど、それはいわゆる箔をつけるという意味か、権威付けか、そういう段階はそろそろ卒業しないといけない。自己訓練の修行の為にであれば、それなりに意味がその人にはあろうけれど。しかし、権利に義務が伴うように、特権には責任が伴う、ことを特に知るべし。社会経験をし、人の生きる世界を知り、そこから世界を知って、つまり自分の肉体の存在(これがまさに実存論的となる訳だが)から、地上に来られた神の子イエスを知る、ということの方がどれほど多くのことを学ぶことだろうと、キリストの存在を肉体で体験すること、少なくとも今の僕は思う。

◆聖書が語る人と言う生き物が神に創造されたとするならば、生んでくれた全知全能の神に、塵以下の人があれやこれやと分かったような語り部となるのは本来、不可能なことなのだといことが理解されるが、「神のことを学ぶ学者は善きものと悪いものを分けて取り出すものに似ている」とイエスは言われた。だから再臨の時まで神学者は語り続ける。あのルターが神の言葉をすべての人にと格式高いドイツ語で聖書を翻訳し、神の言葉が大衆化されたことは実に驚くべきことだったのだが、時代がくだってそれがひとり一人にすべて読み切れているかといえば今も決してそうではなかった。それ、ひとは罪人であり、かつ、神のみ言葉が大衆ひとり一人に行き渡るとすれば猛烈に悪魔は働くからであると言えるだろうか。それは歴史を見ただけで分かるではないか。

◆我々の戦いはどこに向けられるべきだったのだろうか。パウロは、エフェソの信徒への手紙6:12 でその答えを書いている。イエスは来られた、目には見えないが働いておられる。イエスが戦われた目には見えない悪魔は居ないとあなたは思うだろうか!? だから、宗教改革は終わってはいないのだ。すべての人が信者に、そしてすべての人が弟子になる時代なのである。何度でも書く、それは優先する組織ではない(実は教会においては啓示を受けた誰でもが語るものだったのだ)。教師はただ一人であるとイエスは言われたのである(それはイエスおひとりであるということ)。すべての”しがらみ”から抜け出して、自分の言葉でイエスの声を聞かないといけない。天上界の戦いにパウロは(イエスは)我々を招いているのである。組織にのっかることが到達点ではないのだ、今ではかえって悪くなっているのではないか。黙示録の指定された7つの教会のどれかに属しているのではないか。安穏としては居られないのだ。描かれているごとく、我らは天国を激しく攻めなければならないのである。(「天国は激しく攻められている、攻める者はそれを奪うであろう」) 誰でもが、である。 「あなたは、わたしをだれと言うか」・・・彼はいつもそう問うている。聖書の中の”不条理な彼の言葉”への答えは、全てこの回答の中にある。

◆神学は面白い、と書いたのは、神が語ったとされる過去の言葉、イエスが生きて今、聖霊として語る言葉、しかもそれらの中には、未来を語る言葉が含まれていることに対して、今という現在を生きている自分はどのように読み、考え、生きるかが常に問われるように思わされるからなのだ。肉体が死を迎え、地上を去るときまで誰でもがその回答を求め続けることを辞めてはならない。 ・・・  

 


世界のベストセラーを読む(643回)  神学、う~む、難しいか、実は普段着の思考でいいのだがなぁ~

2020-03-10 20:34:07 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆旧約聖書において、神の罰、いわゆる天罰という奴は、疫病だったのである。「我の神たるを知れ!」ということで??・・・。それに、アフリカではバッタが大発生して食物を食い荒らして食料確保が困難であるとのニュースでこれも見られる。これも旧約聖書に出てくる・・・。「天には印が現れる」と、これも書かれている。・・・そう思って太陽の活動をみれば、不気味なほどまったく黒点の発生動きが無いのだそうな・・・。雪が降らないのはその為かと思うが、終末には旧約聖書黙示録によれば人類の4分の1が死ぬようであるから、いよいよ終末の前兆が見られてきているということか。変なウィルスが流行った上に、ここ数日多少、僕は風邪きみとなった。おまけに今日はうっとうしい雨模様である。本来、この季節の雪も全くなく、寒いのかそうでないのか、はっきりしろい、という環境の元で、身体の対応が少し狂ってきている模様である。

◆さて、キリスト教神学なのだが、そもそも、限界のある(と僕が思っているのだが)人の言葉で、何とかしようとしているところに問題があるのではないだろうか。被創造物の人がそれを創造されたという神を語ることなぞ、本来できんだろうに、と思う。けれど、あれこれ考えるのは楽しいものだ。しかし、権威主義を生むなぁ。別にギリシャ語やヘブル語などを覚えなくても、例え、何も知らなくとも・・・といっても、どんな神なのかと問われた場合は、それなりに理解してもらうために、「使徒信条」と言われるものは、その中に短く語られているからその神を信じているのである、といえばいいし、どんな祈りをしているのかと聞かれれば、イエスが教えてくれた「主の祈り」なるものがあり、それで十分と言えば十分なのである。「信じ、いつも繋がっていなさい、必要なことは聖霊が教えてくださるであろう」・・・である。 

◆とかく、西欧での長い歴史はあるし、さまざまな暗黒部分もあったからね。しかし、考えて見れば、そんなことはまったく知らなくても、今、彼(イエス)が語っているその言葉と自分との会話であるということにつきるのだ。直接、彼が語るであろう言葉を求めるのである。何にも頼らず(多々ある本は頼ったとしてもピン、キリであるから)究極は自分の言葉で、聖書を読み、考えることである。自分にまとわりつく”しがらみ”を全て取り払っていくということ。これが、人という生き物は実に難しいのである。第一、自分というものに気がついていないから。

◆イエスにストレートに天国行きを保証された、ただひとりの男が新約聖書に出てくる。十字架に共につけられたひとりの男である(ルカ23:41~43)。彼がイスラエル人なら誰でもがそうであるように小さなころから先祖の話を聞かされていただろう。しかし、当時のイエスの言動は、殆ど知らなかっただろう。何故なら牢獄に入っていたのだから・・・。難しい事はわからない。しかし、彼は、イエスに一緒に楽園にいると保証(はっきり言っておく、アーメン)されたのであった。実に信仰とは、命を与えておられる唯一の方を信ずること、ただそれだけなのであるが。みなさんも実は心に感じているものだ。・・・それは真の自分を発見することに他ならない! イエスは言われる、「真理は,あなた方を自由にする」。 ・・・ Ω 


世界のベストセラーを読む(642回)  キリスト教神学を少し・・・「救いとは」(その5 終わり)

2020-03-08 19:03:52 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆ゴチック文は僕の返信コメントです。今回で終わりです。

(五)救いとは

 脱落存在としての人間を再び神の愛の内へと戻させる神の働きです。人間が神の愛の「外」にあるが為にsomething wrongという矛盾が生じていたのですが、今や、人間が神の愛の「うち」へと回復されることによって矛盾が調和へと回復され「あるべきはずの状態」に戻されるのです。

 創世記3章に示された人間の原罪は人生の「はじめ」(出生)、なか(労働)、終わり(死)の全てに矛盾と問題が孕んでいるのですがその矛盾を残したままで救いの中に入れられるのです。羞恥心を伴わずにおれないような行為を通して生起した人間の出生は文字通り矛盾ですが脱落を内に包み込む神の愛に入れられることによって祝福に満ちた出来事として受け取られています。重荷として受け取られている労働もそれ自体は矛盾ですが脱落存在を内に包み込む神の愛に入れられることによって神の祝福に満ちた出来事として受け取られます。労働それ自体は神の罰として否定的な重荷の性格を持つことを素直に認めしかも人間を仲保する救い主によって再び神の愛の内へと回復されて労働が祝福に満ちたものに化せられるのです。最後に「罪の支払う報酬は死である」としての矛盾的性格において受け取られていた「死」も脱落存在を内に包み込む神の愛によってその姿を一変し、罪の刑罰であった死が神の御元へ帰るという帰郷の意識において受け取られるようになるのです。神の愛の内へと回復された信仰者も現象として(実生活においては)老・病・死の苦しみを経過します。しかし救いなき不信仰者においてはその状態が全てであるのに対して信仰者はこの矛盾的現象の背後に調和的な帰郷の意味を悟るのです。このような調和の光が背後にあることよってのみ私たちの日常生活は矛盾として認識されるのです。以上の説明をあくまで人間としての角度から見るという態度で語りながら、超越者としての神の光を映し出さざるを得なくなったのは飛躍や独断によってではなく「人間」という事柄そのものによって迫られたことなのです。

◆ここはエッセンスですね。未信者の方にイエスという方を受け容れてもらうために、どのように語りかけたらいいだろうといつも思います。ルターは神学には試練が必要だと言いました。肉体において困難が、それがあるときは心理学的にはストレスと呼ばれるものであったとしても、その中から神との会話を自分の言葉で模索する者は動かぬものを得るでしょう。僕は今、日本の隠されてきた古代史に興味をもっています。それは紀元前、捕囚にあったイスラエルの部族が東を目指して移動し、時代、時代それぞれの国に同化しながらも多くが、この日の昇る国に来ていたというものです。確かにそうだろうと僕は確信を持つようになりました。あの困難の中、神がパウロに語り掛けたように「恐れず語れ、この地には私の民が多くいるのである」と。・・・ 終わり