marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(402回目)「罪」について偉そうに書いてしまう 〔創世記第3章〕

2017-07-31 02:00:00 | 日記
 キリスト教会では、罪のことをよく「神の道筋からの的外れである」と説明される。そう言われて説明されてきているからであって、「的外れ」と言われても実はピンと来ない。牧師先生にも訊かれよ、簡単に返答される方は教科書通りですねと返答しましょう。「的外れでない」ということは、どういうことか言葉で定義して欲しいとお尋ねしてみましょう。「罪」とは実は、それは僕らが天に帰還できるか、出来ないでそのまま地上の放射能で汚染されて(これは少し大げさなに書いた)死んでいくかの重要な個人の自覚の鍵となっているものなのだ、だから簡単に返答してもらいたくないし返答できないはずである。
◆先、加藤隆先生の著作ではp170で少し説明されているが、刑法に例えればわかりやすいだろうとの説明書き・・・例えば「人を殺すな」という規定に対して、人を殺めた、それは規定外れで「罪を犯す」ことになると。それを神との関係に捉えれば分かる・・・とある。つまり神との関係が正しければ「罪はない」、正しくなければ「罪がある」ということになると。
◆・・・僕がひねくれているのか、よく分からん。ドンピシャど真ん中はこれだということを示さなければ、比較するものがあるまいに、ここでいう三次元的なこの世における殺人のようなことを実は語っているのではないだろうに。だからこそ、誤って人を殺してしまったような人が逃げ込む「逃れの町」というのも旧約の物語には残されているのだ。
◆だからこそというか、その基準となる律法が問題とされたのである(ここでは殺人は論外としても、それ以上のもっと深い意味がある)。それは先祖伝来の言い伝えとして神との関係のあり方の基準となってきたからからだ。イエスが否定した律法は、それが守られての「罪がある」「罪がない」ではないからである。しかし、これは律法の一点一画も崩れることはないと言われたその事を熟知してのイエスの言葉なのである。パウロは、自分は(人間は)律法をすべて守り切れる者ではないとの自覚に立ったのだ、あぁ、わたしはなんと惨めな者なのだろうと・・・。ここで、イエスの十字架がわたしのためにあった(そしてイエスの十字架はすべての人のためと理解したのだ)との深い自覚に立ったのだ。今までのすべての学び、すべての規律、すべての完全、すべての頂点がここでイエスの十字架で総崩れで、今までの人生一転、全く180度、イエスを最も伝える文字を残した者になったのである。
◆さて、端から見ていて、見えない心の問題(実はこれは大切な事だしそれだけではない、まさにそれを認めるかどうかのひとりひとりにとっては重大な瀬戸際の話なのである。僕であるならこう説明する。神との霊的な断絶が起こることを「罪」と呼んでいるということです。それは、永遠のいのちに帰れるかそうでないかの重大な基点にもなることなのである。それをまず第一に聖書の「罪」と考えなくてはいけない。それは、人の世の国が異なれば、道徳観念や基準の善し悪しが異なるような浅薄な事ではないのである。
◆以上のことを念頭に常に於いて、聖書を読めば、神の第一の目的、イエスを信ずる事による永遠のいのちへの導きが示されていることが、聖書全体にわたり、天地創造来、人間が罪を起こして神からの霊的断絶からイエスが再来されるであろう時まで一貫している我々(神)に帰ってきなさいと声をかけられている内容であることが理解されるであろうと思う。
◆肉体を殺せても永遠のいのちに行く魂(霊)を殺せぬ者を恐れるな という言葉が聖書にある。我々は地上においては旅人なのである。
・・・ 次回は、このように「罪」という言葉の意味として新約でのイエスの説話を通して読んでみたい。・・・  

世界のベストセラーを読む(401回目)400回を越えて少しバチ当たりなことを・・・〔創世記第3章〕

2017-07-30 12:15:00 | 日記
 前回からの続きです。旧約聖書を解析することは、貴重な記録でもあるし、たいそう研究対象として、ふしだらな僕のような者もその研究成果を目にすることには、バチがあたるのではないかな・・・と今から何十年も前の僕であれば思ったかもしれない。それはM・ウェバーさんが言うところの「呪術からの解放」がなされていないということなのだろうけれど、多くの教会では、旧約聖書のアブラハムさんから、あるいは、出エジプト記、もっとも多くはヨセフ物語あたりからが、最も信仰的に「神は何を考えられておられるのか」で、お話がされるものと思われます。そのお話で新約のイエスの言葉に素直に会われ、信仰をしっかりもたれる方はgoo!です。福音主義的アプローチと言ったらいいでしょう・・・が、僕はモヤモヤが残っていると特に神様の事については知りたくてしょうもなくなるので、自分の内省も無論含め常に神にお尋ねをしているという状況なのです。
◆それで、先ブログ「旧約聖書の誕生」加藤 隆著(筑摩書房)は、かなり研究も進んだんだなぁとかなりの驚きでした。僕が手に入れたのは2008年1月25日初版第1刷発行ですぐ購入したものですが、旧約聖書編纂の内容が巻末に付録 モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)資料表が掲載されていて、例の資料の引用されたと思われる聖書の箇所が一覧表になっていてJ(ヤーヴェ資料)、E(エロヒム資料)、P(祭司資料)、D(申命記資料)にまとめられています。それぞれの話、聖書の箇所がどの資料から引用されたものであるとの照合ができるようになっていて、これでだけ、ちりぢりのものを一つに結集すれば、文章読んでよく分からない感はでてくるわなと不謹慎にも思ったり・・・(読みやすくではなく、それぞれの資料は神の啓示により表されたものですから文字自体も当然、そのままに採用で)したものでした。
◆すると、僕は又、大枠は一応掴めた・・・と、それでその意図は・・・などと又、考えてしまうので神様の勉強は興味が尽きないと言えばいいいか。このような本が出るまでは、そのままとにかく読みこなすとして、どうして同じ内容であるべきところが、逆のことに書かれているのか、どうしてこちらが詳しいのか・・・など悪戦苦闘して、おそらく何種類かあるのだ、記者が異なっているなとか、北と南に分かれた時にそれぞれで大切に読まれたものだったのだろうなとか、エルサレムに帰還しておそらくそれをエズラやネヘミア当たりがまとめたのだろうか・・・というようなことはド素人の僕でもなんとなく推論することができたのだったがそれ以上はアウトだった。いずれ、感謝なことである。
◆このような専門書ごときも脇において信仰的には、読みやすくアウトラインを掴みつつ、古典の部類に入ってくるかなぁ、比較的手に解説も入り著者の受け取りの思い著した本に「旧約聖書物語」(歴史に働きたもう神) 北森嘉蔵 著 講談社学術文庫 がありますので今のところのお勧めです。「神の痛みの神学」で知られた神学者でした。・・・・   さて、創世記に戻ろう。 Ω 

世界のベストセラーを読む(400回目)400回を記念して少しバチ当たりなことを・・・〔創世記第3章〕

2017-07-29 21:41:43 | 日記
 今までのキリスト教史の中で、旧約聖書(ユダヤの方にとってはこれのみが純粋な「聖書」です)はいらない、イエスの事が書かれた新約聖書のみが必要であるから・・・というようなことも言われたことがあったようですが、新約聖書のみを読むにしても、やはり天地創造が書かれ、それ以降の神の選民族と言われた歴史が書かれているので、旧約聖書は気になって仕方がない。
 新約聖書の多くの手紙を書いたパウロさん自体は、生前のイエス御自信の生の声は聞いていないにも関わらず、キリスト・イエスを知る以外の知識は糞土のごとくに思うと手紙に書いているのだからという訳ではないのでしょうが、かといって、彼は、旧約やその他の律法も熟知していたスーパーエリートのような男でしたから、その否定すべき内容も知っていたのです。イエスという新しい、しかも父を見たのだといようなとんでもない男が現れてクリスチャンという集まりごときになってきた、これは成敗せなあかんということで、その理由たる先祖伝来の知識は誰にも負けないくらいの男であったのです。ヘブル語、アラム語、ギリシャ語、ラテン語(ローマ市民権を持っていた)は話せてガマリエルという当時の大学者に師事していたようです。で、つまり肯定できる先祖伝来の基礎知識を知らなければ否定もできない訳で・・・。
◆それで、異邦人の僕らも旧約を読み始める訳だが、何せ先理解がまるでないと機械的に読んでも実は意味が良く分からないところもある。おまけによく読まなくてもというか、文章が理屈的にあわないところが見られ、これはまずい。先のブログ少し読まれたし・・・。世界のベストセラー聖書もやはり、ただ読むだけではというか、周辺の予備知識というものがなければ、さじを投げ出しそうだ。
◆しかも初心者には、それでなくても神様の事が書かれた神々しい書物だ。どうしようっという訳だ。それで、教会でも聖書は読みましょうと読書日課にも入れてくださるのはいいのだが、なにせ書かれていることが、なんでだ~というようなことが書かれている。一応、字面は、つじつまがあわないと正直者が丁寧に読み始めると、それなりに文句も言いたくなる、しかし、大切な神様の本だし文句も言えなさそう・・・、さもありなん、それが旧約聖書というものだ・・・とその道の先生方がおっしゃられてもなぁ。
◆分かるところも多い。しかし、それは今の僕らには関係ないようだし、万物を造られた神様であるけれど、大切に読まなければいけないようでもある。その道を求めている方に実は、神様の使いのグループがいくつかあって、その昔からの資料を似たようなところをつぎはぎして編集したものなのです・・・というようなことを教会ではおそらく間違っても言わない。
◆先の旧約の大家であられた関根正雄先生当たりの時代(昭和51年頃)は、旧約でのその資料はヤハウェ資料、エロヒム資料、祭司資料が少しと諸々、旧約聖書の物語のはっきり言ってつぎはぎ(これは大変失礼な話だから)資料を編集して、ある程度、字句もとても大切で意味のあるもであったからそのまま、そのそれぞれの個別に書かれていたであろう資料(貴重でとても大切な資料であったと考えられる)を編集(当時としてはきちんと整理してそのまま書き留めた)したと思われるのです。この先生は「神の霊」のことを強調されていたので尊敬。
◆それで、引き延ばしてきました「誰の目線で書かれたのか」なのですが、ここまで来ると詰まるところ元の基本となる資料は、天地創造に加わった、あるいは人を創造するに際に加担していた御使いの記録者なのであったということになるのでしょう。ここで言っているのは無論神話があったという事ですが、もともとのそのものを書いた方々という意味です。「神は霊である」と言われていますから、その御使いが僕らも読める個別の記録を書いたということはかなり波長の荒い地上の人の次元と霊の世界との空間を行き来できていた御使いが記録したものを残したものと考えられるのです。
◆で、聖書の研究は現在でも当然、行われているわけで、イエスが再び来られるまで止むことはないのですが、聖書のそれは、学習すればそれで卒業ですということでは決してなくて、共に彼と歩み、また無論、知識だけでの学習ではなくて、個々人の課題、人生のすべての宿題というものをともに学んで地上の生涯を終えるという意味合いが含まれている訳です。生きた、イエスの言葉に触れると言うことは、実に多くの慰めとなるのです。・・・ 続く 
 

世界のベストセラーを読む(399回目)天地創造、そもそも誰の目線で書かれてるんだ!? その宿題、実は・・・〔創世記第3章〕

2017-07-28 02:00:00 | 日記
 まだ、旧約聖書の第三章をうろうろしています。畏れ多くもこのブログの主旨はすべてのしがらみから解放されて永遠のいのちの言葉(これは新約聖書のイエス<キリスト>の言葉になります)をひとりひとりのものに・・・という僕の勝手な願いで始めました。それで、イエス御自信が聖書(ユダヤ人の方にとっては今も旧約聖書がそれのみに当たります。イエスの当時は、新約聖書は無論ありませんから)には自分の事が書かれているのだと言われたので、旧約を読み始めましたが、何とかこれ(旧約の読みにくさの障害を解放するには、→ なんだそれはただの神話物語のかき集めた創作だろと言われないために)を消化するためにどうしたらいいものかいなと勝手に思案しております。
◆実は、天地創造のお話のそれはそれはとてつもなく古い時代は、第一に僕ら人間の「種」自体が姿を現していませんから(地球ができて45億年、人間の種ができはじめて38億年?)とういうことは、人間の種を形造った僕らに似た(実は逆で神の似姿に創造されたのは僕ら人間)方々は、どういう人たちで、どのような目線で書いたのかということが気になるのではないでしょうか。(無視もせず気にもならない方は感謝なことでそれ以上、ほじくらないこと・・・こう書く僕は罰当たりなのだろう)
◆これは、専門的になりますから一般の書店でも目にすることはまずほとんどありません。それは、はっきり言って売れないからです。旧約学やユダヤの歴史やイスラエルの思想などの書物は、実は沢山ありますが一通り聖書をマスターした上での知識がありませんと真面目に取り組めません。オタク学になります。裾野がまた実に広い。学研(学習研究社)のミステリーマガジン「ムー」から(「たま」出版というのもあるなぁ)、神話や考古学、古代の文字まで実に難しそうな(売れないであろう、「たま」は売れているかも・・・)本があります。やはり、すべての科学がとてつもなく進化した天空から飛来した方々が僕らをこの地上に創造されたと考えても無理ないなというものまでありますが、違う道にそれますのでそれはブログには今後あまり出てきません。)
◆・・・で、まずの理解は、第一、人間の種がようやくさ出始めの物語なので、困難を覚えても無視するどころか逆にこのような物語が人類ができて編纂されてから世界中の人が、あれやこれやと考えて読まれてきたことに僕は畏敬の念が出てくるように思ってしまうのです。そういうことが書かれた文字が全世界のベストセラーとして読まれて来た、今も読まれているそのものに参加できるなんてたいそう祝福されるべきことではないかと・・・それで天地創造のその始原からの言葉を信ずることにより永遠のいのちに入れるなんて!。・・・・・・・
◆表題の回答をそろそろ書かないと字数が不足してきたので、いのちのことば社の新改訳聖書(1981年9月1日発行)のから創世記の著者と成立過程を書いて見ます。
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 現存の「創世記」自体には、本書の著者が誰であるかを示唆する箇所はなく、既存の資料が集められ、編集されたと思われる痕跡がある。2:4(2章4節の意、以下同じ)で「経緯」5:1で「歴史の記録」6:9、10:1、11:10・27、25:12・19、36:1、37:2で「歴史」、36:9で「系図」と訳されているヘブル語「トーレドース」ということばがそれである。多くの学者は、このことばが創世記が編纂される時に使われた資料の表題であったと考える。これらの資料がどのように伝わり、いつ頃まとめられたのか、また、その編集過程において、編集者の見解がどのくらい入っているかも確かでない。編集者としては、伝統的にモーセが考えられたきた。原初の歴史記録を通して、神が御自信の御旨を啓示されるに当たり、モーセを編集者として用いられたと考えることはふさわしいことと考える。しかし、現在、それを歴史的に立証することは不可能であろう。*************
◆最近の僕らが巷の書店で読める専門書 筑摩書房(最近、文庫でましたネ)「旧約聖書の誕生」加藤隆 著 古くは大家、関根正雄先生の本、他ありますがちと難しいし専門的に・・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(398回目)神が造られしネフェシュ(人)・・・宿題 〔創世記第3章〕

2017-07-27 02:22:22 | 日記
 神様の始原のお話なので、畏れ多いのか誰でもが口をつぐんでしまう。それは、おそらく不完全な神のかたちに創造されてもあまりに脆弱だったために、実は「われわれのように・・・」と対等に独り立ちにするための、人に多くの試練を経させなければならなかったという・・・きっと、それは、神のパラダイスへの帰還へ仕組み(つまりは、地上に使わす神の独り子イエスをキリストとして信ずる者は永遠に生きるという契約を受領する魂)に全人類を預からせるための神の大逆転の壮大なドラマが、このときから始まったということなのだった。
◆さて、前回のブログの中のヘブル語の「ネフェシュ」という言葉についてなのですが、詰まるところ、今ではデカルト(フランスの哲学者:「我思う、故に我あり」の有名な言葉を残した)の肉体と精神、霊と肉(これもギリシャの影響を受けたパウロさんの手紙にも採用)とかのような考え方の方が言えばなんとなく理解されるのかもしれないのですが、実はそれではなくてそれ以前のというか本来のと言ったらいいか、その言葉の意味は、むしろそのような言葉には分けられない全人的な、魂も肉体も総括的なその人・個人という、つまり神からの霊とのつながりがあるひとりの造られた人間そのものをいう・・・とのことでありました。僕らは、あれこれ恣意的に考えて納得するけれど、むしろ創世記の人の創造場面からすれば、このことばの意味が当たり前のように心に響いてくるなぁ。
◆なぜなら、創世記第2章7節 「〔・・・・〕神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生き物となった。」とあるように、神は特別な霊を人にのみ吹き込まれたのであった。それは、脆弱性があるが、尊厳のある人間と見ることができるのだな。・・・で、少し話がずれたが、ネフェシュとは、神との霊とのつながりのある被創造物としての人というイメージを持たなくていけないなと思わされる解釈のすすめなのでした。例えば、創世記第2章4節は「生きたネフェシュとなった」と書かれており、人の息が絶えたとき、つまり屍だけはそこにあるが息していない人は民数記第5章2節の「死んだネフェシュ」と書かれる、つまりそう言えるということなのだ。だから旧約聖書でここで使われているネフェシュというヘブル語は、本来、大きくあいた口を意味するところから、食欲、欲望、それを起こさせる生命を具体的に指示し、その他、顎、魂を指すのに用いられる。しかし、同時にネフェシュは個々人を指すためにも用いられる(参照は、並木浩一先生の著作からちょい勉強で・・・)という特別な意味合いを持つ言葉のようでした。それが使われている日本語訳(今見ているのは、いのちのことば社の新改訳聖書)は「たましい」と訳されているようです。
◆詰まるところ、神から特別な息を吹き込まれた死ねばちりにかえる神のかたちに似せて造られたのが人ということ。重要なのは、三次元的に目で見て、その姿が確認できる人ということではなく、生きるか死ぬかかは、神の霊に繋がっているかどうか(無論、人がちりに帰ったとしてもの話です)そちらの方が、神にとっての生きるか、死ぬかの話でとても重要な事なのであるということです。死んでも最後の審判で霊の裁きがあるし、パウロに言わせれば「霊の体」と言われているものの方なのです。所詮、誰でもが地上の目に見える肉体は消滅します。しかし、神に対して、地上での生存時、与えられた霊(肉体との一体をこのとき僕は「魂」と言いたい)が死後も、永遠に生きるか、死ぬかに関わってくるのです。聖書でいうところの、永遠の霊に生きるということが、重要な事となるのです・・・。今回は、大切なこと、少し脱線してしまいました・・・ 続く