marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(593回) 女優 北乃きいさんは「霊」が見えるんだって!?

2019-09-28 08:19:10 | 日記

こう言う時代になってきたのだなぁと 思わされましたので書くことにしました。

◆北乃きい さんという方が先日娯楽トーク番組に出てました。その会話の中で、私には「霊」が見えるのですと淡々という。私の中に入ってきて通り抜けていくのが分かります。このスタジオの中にも沢山うろうろ居ますよ、という。なんとも当たり前のように朗らかに。司会者などは、エエッ!と声をあげるが、彼女は日常茶飯事なので、いつも当たり前のように感じてますと。当たり前のように淡々と話すので、話は盛り上がらず、彼女にとってはそうなのかで・・・終わり。だから、そのためなのかはどうかだが、いろいろな国へ行っても、すぐに友達になれるのだとか、言葉も苦労しない2~3語覚えて友達作るのだとか・・・という。稲川淳二さんの(怖い番組)テレビには出れますね、と言われる。このことは、彼女名をネット検索すると読めますね。

◆このことを書き始めたのは、他でもない「霊」のことです。とかくこのようなことは、誰にも当てはまることではなく、見えていないとか、気づいていないことだからということになるのですが、普段あたりまえのように、僕らの日常にあることなのだと、イエス・キリストが語っていることです。それは、ヨハネ福音書の第3章に出てきます。(聖書をお持ち出ない方は本屋で立ち読みされてください。結論はこうです。) ************************

◇イエスは彼(ニコデモ)に答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、これくらいのことがわからないのか。「よくよく言っておく。わたしは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受け入れない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。」(ヨハネ福音書第3章10-12節) ************************

◆現代ふうに言えば、「あなたは神を語る聖職者でありながらこんなことが分からないのか」ということになります。ですから、さまざまなイベントや講演で来客を促す方々は、これを外れると巷の催しに変わらなくなります。気をつけなければいけません。当たり前のように起こっていることの悪い障害の霊の表れをイエスが直した話が沢山、聖書にはでてきます。だからこそ、わたし(イエス)が送る潔い『聖霊』にいつもつながっていなさいと、強くなんども言われるのです。亡くなられましたが 悪霊が見えたという”宜保愛子”さんという方もおられましたからね。そのままでは死後は大変ではなかろうか。悪霊のお友達がよってきて・・・。

◇仏教の法要などのや普段の住職のお勤めは、亡くなられた方のこの地上での霊の安住から時間を掛けて浄土へお送りする儀式となります。これを誤れば霊は悪い者に生まれ変わるのだというのがその教えです(輪廻転生)。実はこのことは聖書の記事を読むと当時の人々も事実それを信じていたということが分かりますね。しかし、だからこそといいますか、キリストを信じた者はそれ(以降)がないのです。地上で引きずるすべての障害をご自分が十字架の死によりすべて解消されてしまったからです。これは大変な「恵み」と呼ばれるものです。

願いは、一人でも多くの方がキリスト・イエスを信じてくださるを願っていることです宗教団体に属し自分の言葉を預けてしまうことでは決してありません。むしろ自分の言葉を持つことです(祈り)。ここで限界が生じます。人は文字や話す言葉で伝える手段において多くの<しがらみ>が邪魔をします。それは、信仰などは人から言われる筋合いのものではないということ。これは正解です。不完全な人の意見や思いに依存することではありません。最低限の知識を学んだら、後は、ご自分の言葉でイエスと話される事です。聖書を読むことです。あくまで自分の言葉でです。人の数ほど解説書はありますから。聖書に対して反論も大いに結構なのです。しかし、そこでやめてはいけません。天国は激しく攻められている、攻める者はそれを奪うであろうとあります。必ず時間を掛けても解決されます。その気づきはきっと驚愕となるでしょう。

◇キリストの霊「聖霊」というものに少しでも触れたキリスト者は、ですから霊的な戦いを日々行っているということですね。その時、からだのすべてが活性化されるように思われるのです。頑迷になることではありません。普段の生活の中で本当の自分に出会い、わたしの生まれた意味を知り心から自由になることを保証いたします。新約聖書の「エペソ人への手紙第1章」を読まれることを希望します。*******************

◆「・・・真理はあなたがたを自由を得させるであろう」(ヨハネ福音書第8章32節b)********** ・・・ Ω 

 

 


世界のベストセラーを読む(592回) ノンクリスチャンの方へ、『霊』のこと、少し立ち止まって緻密に今を考えて見ること

2019-09-27 12:33:15 | 聖書・聖句

 下記に宣べることは一般論ではありません。あくまで僕が経験から教えられたことです。当たり前のように工学系の仕事もしてきて、海外にも行かせてもらいました。日本中も出張で、北は北見から南は鹿児島まで、殆ど大手の電気系のメーカーに行きました。普段の仕事では行くことはよほどのことが無い限り日本中を廻り歩くことはないでしょうから今思えば感謝なことでした。ただ。一点教えてもらったこと。それは、漠然としか言えませんが、企業もすべては「人」にあると思わされたことです。

◆ブログを投稿する方も熱心に肉体的修行といわれるものを積んだ者でもありませんでしょう。キリスト教は仏教とは異なるのですから。しかし、若い方には今も、修行を行うような「道」を求めている多くの方がいるのです。時折、そういう若い人に会うのですよ。(キリスト者よ、時は迫っていますので急がねばなりません!。)

◆普段、人は生き物の習性として一般論の中の評価判断を頭の中で捜し、自分の意中の思いに波風がたつと、その反論をするように心が出来ているものです。ましてや宗教という魂の、霊の、命に関わるような言論についてはまず、言葉に出さないことが肝要であるということは、この国はその経験から学んだものであるようです。(このことについて教えられたことはいつか書きたいと思います)。

◆キリスト者は一番、理解しているのですよ。人に聞くな!第一には、まずあなたに語りかける声に聞けということになるのですが、その、そのまま根源の声を謝ると大変な事態になることは、周知の事件で見られるとおりです。「あなたは信じると言われましたね、誓ったんだからこの花を街角に立って全部売ってきなさい」などと昔、どこぞやの宗教団体が行っていた、いわゆるカルトと呼ばれるものとは、実はキリスト教は真逆の事柄なのです。キリスト者はまさに光を装った悪魔と戦わねばならないのです。

◆人に聞くのではなく、生きているイエスに聞くのです、と書けばあなたは笑われますか? 僕のブログで以前に書いたS・ヴェーユは「神を待ち望む」という本を著しました。そこで僕は彼女がカトリックではなくプロテスタントであれば、違った考えをもたれたであろうと述べました。神はあのときからすでに来て臨在しているのですよ! 我々が気づいていないだけなのです

◆我々は弱いですからキリスト者であってもすぐ横を見て一般論に解消して判断しようとしてしまうのですね。ヨハネの福音書の終わりに何のことかという不思議な話が書いているのです。この終わりに書かれた福音書としては不釣り合いのようにも考えられる物語が何をいっているのか、何を第一にキリスト者は自分のことばを育まなければならないかを考えてみる必要がありそうです。

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「ペトロは振り返ると、イエスが愛しておられた弟子(でし)がついて来るのを見た。この弟子はあの夕食の時、イエスの胸近くに寄りかかって・・・・尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見てイエスに言った。「主よ、この人はどうなのですか」イエスは彼に言われた。「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(ヨハネによる福音書21章20~23節)

 ******************************  長年、信仰を持たれた方(92歳)が24日夕 天に召されました。記念にこれを記します。・・・・ 

 


世界のベストセラーを読む(591回) ノンクリスチャンの方へ 「聖霊はすべてを教えてくれるであろう」

2019-09-26 08:52:07 | 聖書・聖句

◆「聖書、聖句」のブログカテゴリーに投稿の人々は、それぞれが上から促しがあって投稿をされるのだろうと思います。一般の方々は常識から読めば、失礼ながら少し良い意味でですが、考えが変わっている人々なのかと思われる方が多いのではないかと思うのですが(その証拠に投稿数が少ないなど)、人も一つの生き物としてのジャンルであるともっと高い次元でといいますか、イエスの言われた言葉のその意味を体験するようなことに少しでも触れると、その個人では創作できないが内からの言葉が湧いてくるという何とも言えない喜びのような感覚を持つものです

◆それは、生きている「霊」に触れているから、ということになるでしょう。ここでまた日和見的に考えれば、ある人々はそら、抹香臭くなってきたぞと思うかもしれない。しかし、そうではありませんね。この地上には不完全であるが人以上の言論を話す生き物がいないので、それは人が人に言葉や文字で伝えることの人間の限界かもしれません。しかし、キリスト者というのは、人間界以上のことを教えられている生き物として、どのような状況になろうと内からの促しのことばを発せざるを得ないのです・・・ということになりますね。一点、それは喜びであるからです。人は、そのことを批判できないのです。神はその人に語るのであって、巷に流布された一般化された固定化観念から判断する基準は持てないのが事実であるからです。DNAも含めた人それぞれに神は示されるから、ということになります。もし、そのことが誤っていればその人に神は人生を通して誤りを示すでしょうし、正しければ多くの人の「霊の次元」の共感を呼ぶでしょう。

◆心理学的には、それらの人は過去に心に傷を負っていた人なのかもしれない。そのことに気づいていないのかもしれない。あるいは、その肉(キリスト教では、霊と魂と肉体を人に対して用いることがある、一人の人を形成するものとして)を引き継いできてくれたご先祖からのDNAを誰でもが引きずっているわけですが、それらの今はいない人の促しによるのかもしれない。僕はそのことを無視しません。事実あるのではありませんか。聖書の中にもそのことを恐れた人々が出てきているのですから。ここから、律法戒律などの意味が読み取れてくる場合があります。一つはそれらの障害の「霊」が何世代にもわたり、後代に現れることがあるからです。(キリストはこれを遮断したのです!)

◆人には自分でありながら、自分の思いがどこから来るかなど考慮できないことがあります。その人の「霊」以外に誰がその思いを知ることができるでしょうとパウロの手紙にありますが、当時者はそのことには普段気づいていないものなのです。一人の肉をもつ人なのにその内に「あなたは神の聖者なのだ」とイエスを認めている墓場に鎖でつながれた一人の狂人の話が出てくる。彼はイエスによりその彼の悪霊を豚に乗り移されて正気にもどる。この男の中の矛盾!。今を生きている僕らは決してこの話を昔の話だったで済ませてはいけない。

◆キリスト者以外の方がこのブログジャンルを読まれるとすれば、ここまで読まれた方に説教じみた話にはならず淡々とお尋ねしたいのです。ほとんどの方は家の風習に倣い、この国は仏教だと思います。何宗ですか? キリスト教も歴史において宗派ができてきましたが、その時代の必要性に迫られ、同様に上からの促しにより起こされてきたものだからと言えましょう。天地創造のキリストの父なる神、人間をも創造した唯一の神は、ご自分のもとに、創造された人を永遠の不死の世界に共に過ごさんために帰還されようとして、「わたしが神であること知りなさい」と地上に災いをももたらす方であることを知ることです。だから、キリスト者には実に重い課題が負わされていることになります。

◆イエスは言うのです。「私は見なくなるが『聖霊』を送る。『聖霊』はあなたがたにすべてを教えてくれるであろう」と・・・・ Ω