nabe語録-スペシャルティコーヒー専門ショップ サーカスコーヒー

京都北山にオープンしたスペシャルティコーヒーショップ「サーカスコーヒー」の熱い日常をご案内します!

私がコーヒー屋として独立するまで③〜私が東ティモールにこだわる訳〜

2021年04月09日 07時31分02秒 | サーカスコーヒーの軌跡
おはようございます!

今朝のサーカス家のコーヒーは
7⭐︎9ブレンドです。

コクと深みが心地よいです。

東ティモールの豪雨の被害が
日々明らかになってきています。




遠く離れた日本から
想いを届けたいです。

昨日も
東ティモールを
たくさんの方に
選んでいただきました。

ありがとうございます!


さてさて
昨日の続きです。

上場企業を退職して
実は
ほとんど語ったことはないですが
コーヒー業界を離れようとしました。

でも
改めて
自分には
コーヒーしかないと
知ることになりました。

そして
自分が本当に希望する
カフェに転職しました。

そのカフェは
自分での大好きなカフェした。

大阪のカフェです。

今でも目標とすべきお店です。

お客として行った時の
おもてなしの接客と
コーヒーの専門性が
とても好きで利用していました。

学生時代は少し
居酒屋でアルバイトもしていましたが
30歳を超えて
はじめての本格的な接客業。

はじめは
学生さんなどに
テーブルの拭き方から
教えてもらいました。

慣れていくうちに
接客の楽しさを
感じるようになりました。

体力的には
今までの
10倍ぐらいキツかったですが
お客様や
若いスタッフたちとの
やりとりも楽しかったです。

「ありがとう。美味しかった」

と言われると
全ての疲れがぶっ飛びました。

それまでは
「製造業」として
コーヒーと
関わってきていました。

カフェでは
「接客業」として
いかにおもてなしするか
喜んでもらうか
コーヒーの楽しさを伝えるか
を考えて
仕事をすることにも
とてもやりがいを感じていました。

お店以外でも
広報として
今までのコーヒー業界の繋がりをいかして
コーヒー講座の開催を
企画したりさせていただきました。

ただ
なかなか体力的には厳しく
家族との時間が
十分持てない年月が過ぎていきました。

そのしわ寄せが
子育てにいくことになりました。

ほとんど
長女に関しては
幼い頃の子育てに関わることが
できませんでした。

それで
子供が小学校にあがる前に
京都に実家の方に帰るか
西宮で子育てをするか
決めようと
考えるようになりました。

そんなタイミングで
妻が京都の実家に帰省していた時に
たまたま
散歩しているときに
実家のすぐ近くの
今の店舗物件が売りに
なっていることを
たまたま知りました。

私も小さい頃から知っている
日本茶の販売店で
とても素敵な
雰囲気がありました。

そして
妻はある意味、
一目惚れしました。

金銭的、
仕事的なもろもろ
たくさんの問題がありましたが
縁があって
京都に帰って
その物件に住むことになりました。

引き継いだころの店内

それから
独立することになります。

ということで
また
明日に続きます。

ちょっと延び延びになった内容に
なっていますね。
すいません。

いろいろ思い出していくと
当時の想いがよみがえり
なかなか進みません笑

今日もよい1日を!





私がコーヒー屋として独立するまで②〜私が東ティモールにこだわる訳〜

2021年04月08日 07時58分38秒 | サーカスコーヒーの軌跡
おはようございます。

今朝のサーカス家のコーヒーは
7⭐︎9(紫竹)ブレンドです。



東ティモールの水害被害に関して
たくさんの方がご支援いただき
誠にありがとうございます。

引き続きよろしくお願いいたします。

昨日の続きです。

そんなこんなで
真珠会社を退職して
インドネシアから
帰国してきました。

たった2年間でしたが
私にとって貴重な時間でした。

帰国してからは
次にどうすればいいか
悩み迷走した期間でした。

そんな中で
たまたまハローワークから
来た会社紹介で
なにか気になる会社がありました。

営業の募集だったのですが
とりあえず面接を
受けてみることにしました。

面接で
その本社の横に建設中の
コーヒー焙煎工場でも募集で
お誘いいただきました。

新設の工場の
立ち上げに携わることも
貴重な経験だと感じました。

また
「ブラジルに行けるかもしれない」
というお誘いに
即答で「ではお願いします」
ということになってしまいました笑



ほんと何かに導かれるように
コーヒー業界に入ることになりました。

それも
新設工場の品質管理研究開発を
任されることになりました。

コーヒーに関して
全く知識のない私にとって
それはそれで
かなりのプレッシャーでした。

当時は
専門書を片手に
頑張って勉強しました。

佐賀県鳥栖での研修を終えて
神戸の工場に配属になりました。

工場の方は
九州出身の方がほとんどで
工場内の共通語は
博多、佐賀弁でした笑

幸いとてもいい方々に
恵まれました。
未だに当時の所属長をはじめ
たくさんの方と繋がりを
もたせていただいています。

コーヒーを勉強する中で
コーヒーの栽培の歴史や
経済的な南北問題など
私がティモールで感じてきた課題と
ほとんど共通していました。

たまたま
コーヒー業界に入ったのですが
なにか強い縁を感じました。

そのころから
今までは
正当な評価をされていなかった
コーヒー生産者が
努力したら
正当に評価される仕組みを
広げていくことが
おおげさにいうと
「私の使命」
ではないかと感じるようになりました。

工場では
コーヒーのことを勉強することが
お仕事のような
夢のような立場で
働かせていただきました。
もちろん色々ありましたが笑


無事?
ブラジルの研修にも
いかせていただきました。

初めてのコーヒー農園は
感動しました。

このころから
今度は消費者に近いところで
コーヒーの魅力を伝えたい
という思いになりました。

そして
5年ほど在籍した後
カフェに転職することしました。

そのころ結婚して
長女が誕生したばかりで
私も30歳をこえていました。

乳飲み子を抱えて
上場企業を辞めて
パパは大丈夫なのか・・・

っということで
今日はこの辺で。
つづく。

ほとんど写真がなくてすいません。








サーカスコーヒー誕生までの軌跡シリーズ①

2020年04月20日 10時49分33秒 | サーカスコーヒーの軌跡
おはようございます。

今朝のサーカス家のコーヒーは

7★9(紫竹)ブレンドです。



ほっこりコーヒーが進みます。

さてさて

突然ですが

だれが興味をお持ちかわかりませんが

週1ぐらいで

「サーカスコーヒーまでの軌跡」をだらだら書いていこうと思います。


私は、1974年6月に京都で生まれました。

私の実家は、

西陣の帯を作っていいました。

機織りが5台ほど

糸を紡ぐ機械(おそらく)もありました。

毎日、「カットン、かットン」機織り機の音を聞き

両親の働く姿を見ながら小さい頃を過ごしました。

ただ、おそらく西陣全盛期は終わっていて

いつも両親のピリピリ感が感じていました。

幼いころに覚えているエピソードとして

両親の仕事がとっても忙しかったので

今でいう待機児童で家に居た年て言うと年少の私が

姉の通っている保育園に一人で迎えに行って

「さすがに・・・」っと親が言われていたことが

面白エピソードとしてかすかに覚えています(笑)

そう、私には姉がいます。

おそらく

父のきちっとした性格は

姉が引き継ぎ

母のちょっと面白い性格は

私が引き継いだと思います。

ですので、

ちょっと甘やかせて

いい加減なところのある私を許せない姉に

幼いころは、かなり怒られていました。



保育園の卒業アルバムのコメントには

「怖いものは?」という問いに

みんなは「おばけ」とか「お母さん」とか書いてる中で

「おねえちゃん」とリアルに書いていたのは

私だけでした。

今考えて見れば

おねえちゃんのおこる気持ちが良くわかります。

今では仲良くしています。


ちなみにその卒園アルバムの

「好きな人は?」の問いには

「ザ・ぼんち」でした。

以前、お店を始めて

その「ザ・ぼんち」のおさむ師匠が来られた時は

感動しました(笑)



こちらから

そんなこんなで

幼少期を過ごしていました。

続く