今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

ノラたちとの共存を目指して その6・原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、駆除と保護活動)

2018年08月31日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
人間性って何だろう。人間らしく生きるとは、どういうことなのだろう。そもそも人間って、何?

地球上の生物は「自分らしく」なんて考えることもなく生きてきた。そんな必要もなかった。自然の法則に従っているだけだから。でも人間は、その進化の過程で自然に抗い始めた。医療しかり、物造りしかり。自然では生じえないことを起こし、あり得ない物を生み出してきた。そしてついに、想念という地球上とは別の世界まで造り出し、自分自身を見つめ直すことができるようになったのです。

広辞苑などの辞書で調べると、“人間性”とは「人間としての本性、人間らしさ」とか「人間として生まれつき備えている性質」とある。これじゃあわからないので、”人間”そのものについて調べてみると「人、人類、人格」などと言葉の遊びみたいでやっぱりわからない。言葉を使うといった生物学的な解説は別として、この問いかけは禅問答のようなものなのかもしれません。

でも”人間性を失う”というキーワードで調べてみると、その元になる考え方が見えてくる。わかり易いのは、「人間性を失う=動物的になる=本能で行動する」という説明。だから犯罪を起こす、というわけです。これは明らかに人間を他の動物の上に見ていて、本能に生きる様を見下した考え方です。本能に基づいた行動が犯罪を招く、果たしてそうでしょうか。本能って悪いもの? 本能で生きる動物たちは、悪い存在?

日本人はかつて、「血の滴るビフテキを食べながら人間性を説く」と欧米人を揶揄してきた。農耕民族だった日本人は、家畜を文化とし動物の屠殺に身近な彼らを野蛮な人種だと考えた。一方欧米では、日本の代表的な料理法である活け作りや踊り焼きほど残酷な仕打ちはないと訴える。今では文化交流が進んでいずれも共通の人気料理となり、このような訴えはあまり聞かれなくなった。

日本人は鯨を食べるし、イルカを食べる地域もあって世界から非難されている。中国では犬を食べる文化がある。地球上のどこかには猫を食べる民族もいるかもしれない。本来なら資源の問題を別にすれば、何かを食べるのはよくて何かを食べるのはダメ、ということはないはずだ。

食べるということはその生物を殺すということです。前章その5で、愉快犯的な動物の殺傷は無条件の死刑に値すると訴えました。それは日本人が、家族同様に暮らしてきた家畜を殺して食べることで常に命と向き合ってきたヨーロッパの民族と違って、(特に動物の)命というものに対する意識が薄いと思えたからです。

我々は肉を食べるときに、「その肉がどのようにして目の前に来たのか」ということを意識するだろうか。家族のように育ててきた牛や豚を殺すということがどんなことか、理解できるだろうか。命の尊さを知るということは、そこから始まるのだと思うのです。日本人が悪いと言っているのではない。日本では畜産農家は別として、そのような経験をしてこなかった。それが、私たち日本人なのです。

人も動物も食べるために命を奪う。しかし動物は、基本的にそれ以外の目的で命を奪うことをしない。狩りの練習はするがそれも結局は食べていくため。食べること以外の目的でたやすく命を奪うのは人間だけです。それでも私たち人間は、動物より上の存在なのでしょうか。


「いろいろあったけど、結局この家で暮らしてます」(もうすぐ1才のキーとクウ)

話は変わって、私たちは小さい頃から「他人の物」を奪ってはいけないと教わります。そして人間社会には、窃盗罪をはじめ数々のルールがある。それは「人の物を奪ってはいけない」のであって、動物の物は対象外だ。

わが家の周辺ではいまだに大規模な宅地開発が進み、毎年1万戸以上の住宅が建設されている。(千葉県全体では5万戸以上) 大きな丘陵がまるまる削られ、深くて見晴らしのよかった谷間が埋め立てられ、鬱蒼とした広大な森林が開墾されて、住宅街に変わっていきます。最近この地区では、タヌキやハクビジンなどを路上で見かけたという話を聞くようになりました。

昨年末は京都で、学校に”危険害獣”であるイノシシ2匹が侵入して騒ぎになった。校舎やプールで暴れまくるイノシシを追いかけて大捕り物を展開。イノシシは麻酔銃で撃たれその後捕獲されたが、それがどんなに怖いことだったか、各報道はそこに焦点を当てていた。一体イノシシは人を脅かそうと悪意を持って侵入したのでしょうか。そのイノシシが結局、麻酔の効いた状態で溺死あるいはショック死したことは後で知りました。

昨年の春頃、青森県で日本鹿の全頭駆除が決定されネット上で賛否が議論された。森林保護の観点から決定されたとのことだった。千葉県でも、増えつつある外来動物キョン(鹿のような動物)の防除が策定された。キョンは県内の倒産したテーマパークから逃げ出したものらしいが、防除の理由のひとつに日本鹿の生態系を守るというのがあった。

実際、鹿やイノシシに農作物の被害を受けている農家さんは少なくないし、街中でクマやイノシシに遭遇するのは恐怖だ。だから安易に動物愛護を語るつもりはありません。だが、家族や生活を守らなければならないのは人間も動物も同じだ。住宅街に迷い出て怖かったのは、人間も当のイノシシも同じなのです。もっと前の開発開墾の段階で共存の道を探ることは、知恵者たる人間にもできないことなのだろうか。

先住者であった動物の住処を奪っておいて、追われた動物が街中に出て来れば住人の安全を危うくする害獣だと駆除(殺処分)する。日本だけじゃない、ユーカリの伐採でコアラが激減したり、森林伐採や焼畑農業でマダガスカルの希少動物が絶滅の危機に瀕したり、常に加害者は人間だ。そもそも爆発的に増えて地球という母なる大地を破壊しているのは他ならぬ人間です。さて、「地球上の犯罪者、駆除されるべきは人間なり」なのでしょうか。もう一度書きます。食べること以外の目的でたやすく命を奪うのは、人間だけなのです。


「1才過ぎたからオジンの手伝いもしないとね」(まだまだ子供のちび太)

自分は3年ほど前からノラ猫の保護を意識するようになりました。それはやはり猫が好きでノラが可哀相だと思ったからだけど、猫族が人間の産物であり人間社会で暮らし、人間と意思の疎通を図れる身近な動物であることを、かつての3匹と暮らして理解したからだと思います。

だが現実は厳しかった。人間社会には(特に日本には)動物を器物とする法律があり、自分たちと異なる生活観を持つ動物を簡単に排除抹殺する風潮があった。何より命そのものに対する意識が薄い。餓死寸前の子猫が目の前で慈悲を求めてきても、「責任が持てないから」と無視できる。誰もが「当事者」にはなりたくないし、「死」には直面したくないだろう。だが、見て見ぬ振りの行為は多数決の下で正当化され、やがては当事者非難へと変貌した。

TNR活動はノラ猫のためではなく、人間(住民)のためにあります。ノラ自身はこの活動で幸せになることはない。むしろ手術によって命の危険さえ被るのです。手術後の十分な回復を待たずにRされれば、そのリスクはもっと大きくなる。それでも、「不幸な子を増やさないために」とTNRする。殺処分よりはましだからだ。でも、手術の危険を被ったノラがそれで市民権を得るかと言えばそれもない。効果が出る(数が減る)までタイムラグがあるから当面の反論や苦情が絶えない。ボランティアさんたちは、身を粉にして活動し出費も少なくないのに、何とも報われない日々を送っているのです。

さらにおかしな風潮がある。少なくとも日本では、猫を捨てる人ではなく捨てられた猫(ノラ)を救おうとする人に非難が集まる。確かにノラの自然増も無視できないが、それに匹敵するくらいの数がいまだに捨てられているのです。(シリーズ過去記事で推定、迷子含む。)  しかも人間社会には、必然的に猫を捨てる仕組みを持った業界がある。猫の生産、流通、市場、小売の過程で、しかも採算第一主義のビジネスで、病気になったり売れ残った猫たちはどこに行くのか、尋ねるまでもないことだ。

この命に対する意識の低さ、モラルの低さを放置する限り、ノラたちやノラ保護ボランティアの人々が救われることはありません。どんなにノラを保護しても、次から次へと現れてくることになるのです。そして、ノラがいるのはお前のせいだと言われる。罪を被ってくれる人がいるから、この国では安心して猫を捨てることができるのだ。

ノラの存在は、人間が命を軽んじたことの結果です。その猫が死ぬことを意識せずに「エサをやるな」と言うのは、と殺という感覚がないままステーキを食べるのと似ている。特に日本人は動物の死体を見ると気味悪がるが、自分が死体を食べているのだという感覚がない。ステーキは、スーパーできちんと包装された切り身だと思っているのです。
※エサやりに関しては、1週間前の記事「続・エサをやるなは殺せと同じ」も参照して頂けたら幸いです。

宗派的な例外はあっても、人間は雑食性だから肉も食べる。食べるために命を奪う。だからこそ、どんな宗教も慈悲の心、そして命を大切にしなければならないと説く。慈悲とは、「苦を除き楽を与えようとする心」です。それを、私たちは「人間性」と呼んできた。保護活動は人間性の象徴です。”命を慈しむ心”がなければ保護活動とは言えません。対象は当のノラはもちろん、ノラのために悩んでいる人たちも含みます。そうなってはじめて、「ノラたちとの共存を目指して」の第一歩になり得ると思うのです。

最後に、動物の被害に遭っている農家さんや恐怖に怯えている住人の方々には、手厚い保護と補助が必要だ。その原因が開発した側、さらには開発を許可した行政にあって、被害者の方々には何の罪もないからです。同時に、動物たちとうまく住み分ける提案と施策が重要だ。特に今後は、事前調査や対策を開発者に求め、罰則や規制の強化について早急に検討する必要があると考えます。

ただ、いまだに箱物行政しかできない役人たちにどこまで頼れるかは疑問です。そこで自分としては、科学の進歩に期待したい。ノラの問題も、増えすぎた動物対策もこれがあれば一発解決、それが経口避妊薬(動物用)だと思うのです。もう何年も前にFeralstatという薬が米国FDAに認可されたと聞ききました。しかしいまだに日本で発売されないのは、何か理由があるのだろうか。

この分野にこそ十分な補助をして開発を促進させ、安全で汎用性のある薬ができれば、動物たちのみならず人間社会においても、その見返りは十分すぎるほど大きいのではないでしょうか。


「オジン、ごくろうさん。ずいぶん時間かけてまとめてたの知ってるよ」(ニャー)


「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1 資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
     2017.2.27
その2 現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
     2017.5.31
その3 エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
     2017.8.31
その4 一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
     2017.11.30
その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
     2018.4.29
その6 原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
その7 形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8 地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)



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空気になったみう

2018年08月28日 | (故)みう(おかあさん)
みうの前記事でも触れた"空気のような存在感”、いよいよ本物になってきました。

別に逃げ隠れするわけでもなければ他の猫を怖がるわけでもない。たまにニャーに追われることはあってもさほど執拗でないし、今ではみうも慣れたもの。 とにかくみうは普通に生活していても、空気のように目立たない猫なのでした。


最近はリラックスポーズもよく見るようになったみう

他の猫を刺激しない、何かされても怒らない。平穏なときは誰かにそーっと近寄ってくんくんしたり、運動会中のチビたちを見守ったり、たまに巻き込まれてひとりハッスルしたり、要は斜に構えることなく嫌味のない存在なので、誰からも気にされないのです。ニャン騒動の横でも寝られるようになったのは、いまや8匹となったわが家では必須。食事は皆が食べ終わった後にこっそりと行く。空だったら諦める。食べてる途中で誰かが来れば譲る。まるで奥ゆかしさの権化のような存在は、空気という表現がぴったりです。

保護者に対してはどうかと言うと、信頼関係は少しづつだけど深まってきたと思います。撫でてあげれば頭を擦り付けてくる。でも立った状態で近寄ると反射的に逃げます。最近はオジンの後追いも影を潜めました。リンに加えてハリーも後追いになったのでみうの出番がないのです。オジンが寝るときはお決まりのニャーが一緒でリンが遠まわしに。かつてパソコン作業中にはいつも足元にいたみうだったけど、今ではオジン部屋に入ることすら殆どなくなりました。


オジンがパソコンやってるといつの間にか椅子下にいたのだが・・

そんなみうは1日の大半をかつての自分の部屋(今は開放)で過ごしています。朝夕になると下りてきて2~4時間ほどリビングで過ごし、また自室に戻ります。自室ではベットの上だとチビたちの運動会に巻き込まれたりするので、ベット下や本棚の上にいることが多い。もうひとつの理由としてみうは人工の冷気が嫌いで、常時弱冷房の効いているリビング、オジン部屋、保護部屋を避けて代わりにより涼しいところを探しているのかもしれません。この異常な猛暑が去って冷房が不要になれば、また居場所も変わると思います。

奥ゆかしくて目立たない。でも健気に一生懸命暮らしている。思えばみうに対しては1年半前に「もしも人間だったなら」を書いて以来、ずっとこんなことばかり書いてます。保護者までがその奥ゆかしさに甘えて、みうの病気をそのまま放置してしまいました。でも先日はようやく一念発起、いつもの病院に連れて行った。耳のただれは周期的にやや治まっているものの、赤い目やにが相変わらずだったのです。


拭いても拭いても目やにと涙が
(こんなになるまでほっとくなんて保護者失格! )

先生の診断は前と同じ。耳のただれはダニや真菌ではなくアレルギーだと言う。何でも家裏でのノラ生活時代に蚊に刺されたのが原因ではないかと。そう言えば家裏は夏になるととても蚊が多いのです。(今では持続性の蚊除けスプレーを時折散布。) それで「蚊刺過敏症」という蚊アレルギーの疑いがあると。いやいやネットで調べるとたくさん出てくる。でもこれ、冬になると自然消滅するらしいけど・・。 とりあえず今回は少し治まってるので様子を見ることになりました。大丈夫なのかちょと心配。

一方目の方は、前回の液体点眼薬ではやはり効果が出難いと。当時1日3~5回は点眼したけど、先生に言われたのは最低でも1日10回以上だった。要は薬の持続性の問題らしい。そこで今回は軟膏をもらいました。しかし、これをみうの目に入れるのは気が引けるな。先生がデモしてくれたときはみうはさほど気にしてない様子だった。でも自分がやると違うんだよね。ちなみに、それでもダメなら今度は結膜炎を起こしている菌の種類を同定して対処するらしい。

みうの目やには血が滲み出てるのかと思っていたら、そうではないようだ。何でも目やにの色にもいろいろあって、茶色や赤黒い目やには(色的には)問題ないそうだ。逆に白っぽいのは要注意、特に緑っぽかったり黄色系は即通院した方がいいと。この問題はネットにもたくさん出てました。


深刻な病気ではなさそうなのでひと安心

ところでもうひとつの気になる点、みうの手術跡については、やはりどう探しても見つからないと。でも、最近の術式では溶ける糸など使って、後からはわからないのだそうだ。「発情しないんだったら手術されてるんじゃないですか」と至って単純な返事。発情しなけりゃそれでいいみたいな姿勢は何だか気になるなあ。それにもしみうが手術されていたとなると、家猫か地域猫か、みうの過去も気になるところです。

通院途上や待合室でのキャリーケースの中で、小声でミウミウ鳴き通しだったみう。家に着くと安堵したのか、自分(オジン)の顔を恨めしそうに見つめていた。本当にお疲れさまでした。 だがこれからしばらくは、また目薬をめぐっての嫌われ役です。


みうのリラックスした姿を見るのが何よりです



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テリーとハリー、里親さんの募集です

2018年08月26日 | イエチビとテリー(新チビ)
テリーとハリー、元気な2匹の里親さん募集を始めました。


              
テリー:推定4、5ヶ月♂、元気でやんちゃなキジトラの子猫です。FIV-、FeLV-
     ものおじせず人間も猫も怖がらない。じゃれついたりくっついたりの甘えん坊。
     何でもよく食べ、トイレも問題なし。

              
ハリー:推定1才半♂、ボスキャラなれどやや気の小さいおっとりさん。FIV+、FeLV-
     大鳴きがようやく収まって落ち着きが出てきた。とっても穏やかな性格です。
     ウェットも食べるがカリカリ大好き、トイレ問題なし。去勢済。


テリーはまだまだやんちゃ盛り。成長すれば落ち着いてきます。性格形成もこれから。遊び相手がほしくて仕方ない年頃。いつも遊んでくれる保護者さんがいたら最高です。

ハリーはこの1週間であの破壊的な大鳴きが影をひそめました。大鳴きが嘘のように消えると、とっても可愛いハリーの素顔が出てきたのです。FIV+なので、1頭飼いでいつも保護者さんに甘えられる環境だったら最高です。

今はテリーもハリーも、保護者がいるときは保護部屋から出て他の猫たちと一緒に過ごしています。テリーは早くもお兄さんたち(キー、クウ、ちび太)と遊ぶのに夢中。特に付き合いのいいちび太は飽きもせずしつこいテリーの相手をしています。でもテリーは何かと言うとハリーに寄り添って、どうやらハリーを自分の保護者と決めているようです。

ハリーは自分から他の猫に仕掛けることはありません。逆に結構気を遣いながら自分の居場所を決めています。ただ、存在感が大きいので当初は他の猫たちが警戒気味でしたが、最近はお互いの存在に慣れたようです。

ハリーの特徴は保護者の様子をいつも気にしていること。このタイプの猫はニャーやかつてのテツのように、(訓練すれば)保護者とのコミュニケーションがとれる猫です。ハリーは今でも保護者に怒られたときはもちろん、保護者のそのときの気分をある程度読み取っているように見えます。将来はきっと、相棒のような猫になるのではないでしょうか。

              

ご関心のある方はお気軽に、メッセージからご連絡下さい。
千葉県千葉市からの募集になります。


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続・「エサをやるなは殺せと同じ」 ~理屈で勝負の巻~

2018年08月23日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
勝負と言っても、勝ちたいわけじゃないです。みんなが手を取り合うにはどうしたらいいか、と考えるうちにこうなっちゃいました。だから喧嘩はご免だけどもちろん反論大歓迎です。

トシをとると、とにかく理屈っぽくなっていけません。元のタイトルはもう1年以上も前に書いた記事ですが、未消化の部分が随分ありまして、もっとダイレクトに書いた方がいいかなと。何しろこのブログを通してのテーマの核心部分なので、何度も何度も反芻しているわけです。

「理屈で勝負」と書いたのは、このようなテーマのスレッドに必ず出てくる"動物愛誤"の連中の中には、汚い言葉を使う感情的なのは論外として、理論武装した人もいるからです。すると、正統派動物愛護の人たちの分が悪く見える。それではいけないと立ち上がろうと思ったわけですが、立ち上がれたかどうかは読んで頂いた方々のご判断です。


「オジン頑張れ、おれたちの仲間の問題だ」(テンちゃん)

次のスレッドを見て下さい。(ちょっと古いです。)
1年半前の記事「ノラたちを守る道づくり」で紹介したスレッドの再掲です。"動物愛誤"の輩に荒らされることなくいろいろな立場の人が意見を寄せていて、その比率も諸般のアンケート結果に近いので参考になるスレッドです。

スレッドの「エサやり否定」意見を集約すると、「エサをあげるなら(そのノラの)行く末まで責任を取るべきで、取れないなら(かわいそうではあるけど)エサをあげてはいけない。」 その理由は「エサをあげるだけでは他人迷惑になるから」ということでしょうか。しかも避妊手術を自費でしたくらいでは責任をとったことにはならないとも。ちなみに、私自身がスレッドに投稿したことはありません。

どのようなアンケートを見ても、「猫は大嫌いなので殺してしまえ」みたいな人が少数います。(5%程度?) 自分にはこのような人たちを説得する自信もないし、そうなるに至った経緯には多少の興味はあるけど、まあ、"ミハン"にリストアップしてもらうくらいしか思いつきません。(「月9」ドラマより) 一方大多数を構成しているのは、「ノラは可哀相だけど他人の迷惑になるから何もしない」人たちなのです。

さて、本題。
誰もノラにエサをあげなければノラは死にます。今ではゴミ置き場のガードも固く、簡単にゴミを漁れるような環境ではありません。ではエサをあげるなと言う人に質問です。あなたはそのノラが、エサをやらなければ(何処かで)死ぬことを意識して言っていますか。かわいそうだけど死んでもやむを得ないと・・。 だとしたら、あなたは「殺せ」と言っているのと同じです。いやもっとむごいかもしれない。仮面を被っているだけで、堂々と先の5%の仲間入りです。

いやいや、エサをあげなくたってノラはちゃんと生きていく? 根拠は別にして、実はこれが大方の人の考えです。だからエサやりを非難する。わざわざエサをやることでノラが居つき、周囲の人たちが糞害その他で迷惑する、それが非難の理由です。「迷惑なのはノラじゃなくてあなたのような人間だ」とか舌鋒鋭く非難する。これには人のいいスレ主だったらたじたじでしょう。自身を"猫好き"と標榜する人やノラ保護ボランティアの方も多く、「自分もノラ自身も、エサやりというあなたの迷惑行為の被害者だ」と訴える。

しかし猫だって生きていくためには食べなければならない。確かに田舎には人間と関わらない野生化した猫もいるらしい。(公的には「野猫」と言います。) 彼らは昆虫や小動物を食べて生きている。一方人間社会の中で暮らしているのが"ノラ"であり、たとえそこそこの公園や野原があったにしても、住宅地として整備された環境の下では生きていけるほど自然の食料源はない。しかもノラの大半を占める脱走猫や捨てられた猫は、自然界でのエサの捕り方すら知らないのです。飼い猫が虫を見つけても、じゃれるだけで食べないのを見たことがあると思います。

ノラの主たる食料源は人間からの施し物です。この問題を考える上で、まずそのことを認識して下さい。もう一度書きます。みんながエサをあげなければノラは死ぬ。だがエサやりを非難している本人は、ノラが死ぬなんて夢にも思ってないだろう。つまり死ぬ(殺す)ことを想定しないエサやり非難は、自分の知らないところで誰かがエサをやる分には構わないと言っているのと結果的に同じなのです。

さらに、生きていることを前提にすれば当然ながら糞もする。エサやりで居着かなくても地区のどこかにはいるわけです。そして糞をし、悪戯することもあるでしょう。それが自分の庭でなければいいのでしょうか。自分の庭がたまたまノラのトイレに使われても、運が悪かったと諦めるのでしょうか。まさか、エサやりを止めればノラが糞をしなくなると思っているわけではないでしょう。殺さない限りはです。

前回も述べたように、いわゆる規則やマナーを守らないエサやりは別。しかしエサやり自体を自己中と言うのなら、知らない場所で糞をするのは構わないというのもやはり自己中、そして事なかれ主義の賜物だ。それは単に、問題解決のために試行錯誤で何かをしたいと思う人と、自分は何もせずに他人に文句ばかり言う人の差でしかない。

エサをやらなければノラは死ぬ。死なない限り何処かで糞をする。・・・もう一度問います。糞害根絶を目指すあなたは、ノラは徹底的に殺すべきだと主張するのですか? エサやり非難は、そこまで突き詰めてはじめて成立するのです。

「不幸なノラを増やさないためにエサをやるな」というのもおかしな論理。"不幸なノラを増やさないためにノラを殺せ"ということです。この言い方が猫ボランティアの人たちに多いのは意外だ。もちろんこんなのはノラ想いでも猫想いでもない、迫害そのものです。はっきりと「殺せ」と言った方がよほどわかり易い。しかしそうでないのなら、今すぐに言い方を改めてほしいのです。そのために勘違いする人が何人もいて、ノラが本当に迫害されているのだから。

ノラの問題は地域住民全員の問題です。「興味がない」とか「関わりたくない」とか言ったってノラはいる。人間のエゴの副産物として生まれたノラに贖罪の意識を持てとまでは言わないが、ノラを可哀相だと思うのならエサやりを認めましょう。そして、生きている限り糞もする、ということを認めましょう。どうしても嫌なら「殺せ」とはっきり言って下さい。人間性の仮面を被って、エサやり非難に矛先を向けるのは筋違いです。ノラなんかに自治会費を使うな? いやいやそういうことのために自治会費はあるのでしょう。ノラを減らしたいのなら、まず猫を捨てる人間をやっつけることから始めましょう。


「騒々しい家にもやっと慣れてきたんだニャン」(みう)

さて、上に掲げたスレッドをもう一度見てみて下さい。
このスレッドは建設的な提案が多いスレッドですが、スレ主のエサやりに迷惑だと言っている人は、本人が如何に猫好きや博愛を標榜しても結局は「殺せ」と言っているのと同じです。でもそのことに気付いていない。都会の真ん中で、冬であっても、虫やトカゲを食べて生きていけると思っているのです。そして、エサやりを止めれば糞害もなくなると思っている。それが「殺せ」と言わずにエサやり非難している人たちの、自分でも気付いていない本質なのです。

一方スレッドを見ればわかるように、本当にノラが可哀相だと思う人はエサやり非難をしていません。代わりにいろいろな提案をしている。「近隣の人たちや抗議された相手と話し合う」「薬を駆使して猫アレルギーを克服(して飼う)」「引っ越して飼う」「里親募集する」「ボランティア団体に相談する」等々。その実現性は別として、何とかスレ主をサポートしたい、あるいは当該ノラを救いたいという気持ちが滲み出ているのです。

ただ、だからと言って自分には、これらエサやり非難の人たちを逆に非難するつもりはありません。何故ならこの人たちの善意は本物で、単なる"勘違い"が加わっただけだと思っているからです。だがその"勘違い"が連鎖反応を生み、今やエサやり禁止は固定観念になってしまった。これを真の動物愛護の観点から覆すのは容易なことではないと承知しています。

各自治体が出しているエサやりガイドラインをよく見れば、エサやり自体は人間味に溢れた尊い行為としています。そして、"適正な"エサのやり方について指針を出している。エサやり自体を禁止している自治体などあるはずがない。何故ならそれは動物愛護法違反というれっきとした犯罪になるからです。そのことを知らない人たちが、「エサやりは当該自治体によって禁止された」などと嘯(うそぶ)いているのです。

このような都市伝説まがいの勘違いが横行していること自体が、日本人がまだ成熟しきってない証拠なのかもしれませんね。


「オジンは暇だとちょっと過激になるから気をつけてね」(ニャー)


<後注>
一過性の場合を除いて、同じノラに対する継続的なエサやりには道義的な責任が生じるという上述の意見は正しいと思います。何よりそのノラの行く末に対する責任です。ひとたびノラの信頼を得た以上は何とかしてエサやりを継続すべきで、周辺への配慮もそのためです。自分も「ノラたちとの共存を目指して・その1」の中で提案しましたが、まずは所轄官庁のガイドラインを参考にして下さい。最も大事なことは(自身も含めて)里親探しを始めることです。その方法はインターネットで調べればたくさん出てきます。


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目が???になったシロキくん

2018年08月21日 | (故)シロキ(白黄)
えっ? 何? このマーク

・・・答えはシロキくんの目。そうなんです。シロキくんの目がになっちゃったんです。

              
            かつては喧嘩以外鳴かない猫だったのに
     ハリーがいなくなって「くれくれ鳴き」するようになったシロキくん
               (あっ、よく見ると目がに??)

そしてあの「クルルルル」という求め鳴きは、今にして思えば当然、ハリーに呼応したわけじゃなかった。(考えてみればそんなことあるわけないよね・・。) では誰かと言うと、やっぱりいたんです、第三のニャンコが。 なに~ィ!? また新顔??

いつ頃からいたのかわからないけど、影のような希薄な存在。勝手口を開ける気配がしただけで消えてしまうので、当方はまったく気付かずにいたのでした。だが、気配もなくシロキくんの残りを食べているところを、勝手口の空気口からそーと覗いて確認できた。

それはクウにそっくりな目の大きな子。とっても美猫さんです。年恰好も柄も殆どクウと同じ。ということはハリーにも似てるけど、クウよりは丸々としてハリーほどしっかりした体格じゃない。初めて見たときはまたクウが出ちゃったのかと慌てたくらいです。その子はもの音ひとつ立てない静かな子で、かなり警戒心が強いようだ。わが家にはたまに来るらしい。

シロキくんはもともと甲高い声。それが一層高い声でクルルルル、クルルルル(尻上り)と求愛鳴きです。その子がたまに食べにくるのがわかったのか、ご飯をわざと(?)残して少し離れて待っている。その子が来ないと、鳴きながら周辺を探しに出る。その子が来たときはもうそわそわして、初めは食べるのを待っていたけど、そのうち待てずに背後から迫るようになった。するとその子は逃げる。慌てる何とかはもらいが少ない、どころかもらえないの通りで、シロキくんはすっかり嫌われてしまったようです。まったく、ソトチビのエスコート術を教えてあげたいくらいだ。

              
                     待ちぼうけ
             「今日はあの娘は来ないのかな・・」

その子はシロキくんがいないときに勝手口下で待つことも。こっちが気付いてご飯出しても、すぐに隠れていたシロキくんが現れて結局逃げてしまう。そんな具合でシロキくんに邪魔されてうまく食べれないせいか、最近はあまり来なくなった。するとシロキくんも静かになる。でもたまに求め鳴きをやるので、知らぬ間に来てるのかもしれません。問題は、求め鳴きの声が一段と強いので新たな騒音問題になりかねないことです。

その子を実際に見たのはまだ数回。ドアを開けたときにはもういないので写真も撮れない。空気口からしみじみ見た限りではまだ1才前の子供で、左耳をカットされていました。耳カットについてはソトチビのときに間違えて大恥でしたが、その後しっかり勉強したので今度は間違いないと思います。つまりその子は、まだ若い女の子で地域猫。

              
             トイレの窓から隠し撮りした貴重な写真
        珍しくシロキくんが待機、でもこの後すぐに迫り始めて・・   

それでもその子がフェロモンを出しているのか、シロキくんの単なるご乱心なのかはわかりません。いずれにしてもシロキくんがいくら目をにしたところで、その恋は成就しないはず。早くそれに気付いて諦めてくれればいいけど、もし自分の見立てがまた間違えていたら、そして将来リンのように子連れでやって来たらと思うと、穏やかではいられないのです。

このところ見かけなくなったけどあの子はいったい何処から来たのか、そっちの方が気になるこの頃です。

              
 この写真を拡大してみても、左耳の先端が大きくカットされているのがわかる


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