のびたとブレイク

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切腹の 主に殉死の 愛貫く   悲恋は種子島・横山の盆踊りで伝えられる

2019年09月06日 09時36分38秒 | うたごえ

島の夕暮れ 白い衣装をまとい 独特の傘を被り 哀調を帯びた曲に合わせ踊る

他に見られる華やかさは無い 385年前に亡くなった 阿久根千代女の霊を祀った踊りなのだ

ここは種子島の横山神社 旧暦7月7日に供養の盆踊り 鹿児島県の無形文化財にも指定されている

 

阿久根千代女とは? 歴史を紐解いてみよう

教養も兼ね備えた彼女は 薩摩藩の家老 比志島国隆(ひしじまくにたか)と恋仲になり 妾になったと言う

かの国隆はあることで島津公の怒りを買い 種子島へ流罪となった

 

これを知った千代女は 阿久根から丸木舟に乗って種子島まで会いに行った

国隆との再会は束の間 更に切腹令が発せられてしまう

千代女は自分も一緒に死ぬと懇願し 国隆は千代女を殺してから 切腹して果てた

 

それ以来 この横山の地区では 以前からあった歌に加えて 千代女への霊を祀る歌になった

そして 毎年 この盆踊りを踊って 供養を続けてきた

踊りの様子は YouTubeにもある 女子禁制で男性だけの哀愁を帯びたものである 約20分

 

 

https://youtu.be/abSyk6Cq4C8 横山の盆踊り

 

阿久根千代女の墓

 

さて この薩摩藩家老の比志島国隆 どんな人物なのか

意外な場所で名前が登場する それは 現在の宮崎県と鹿児島県の県境に近い 飫肥の山奥である

場所は 牛の峠 この時代には 飫肥の伊東佑慶が通った主要交通路であり 殿様道と呼ばれていた

 

付近は山林資源が豊富で 折しも 財政的には窮乏していた飫肥藩は この材木を売り藩財政にした

ところが 薩摩藩との県境は確定しておらず これは我が地であると 時の 比志島国隆は武力で迫った

飫肥藩も頑として譲らず これから52年ばかり 境界紛争が続いたものである

 

この時の国隆の行動が薩摩藩主の怒りを買い 遂には種子島流罪 切腹までに至ってしまった

この牛の峠の境界紛争は 江戸幕府まで調停以来の訴えが起こされ 最終的に 飫肥領と採決される

方や70万石の薩摩藩 方や数万石の飫肥藩が勝訴したのである

 

 

この時に 境界が確定したので その塚石が牛の峠に建てられたのである

この時代には 薩摩藩は九州の有力藩 宮崎も一時は領下に置くほどの勢力となって居た

なお 国隆の父は 宮崎県の都城市・高岡城主に任命された人物でもある

 

高岡城

 

この話は 昨日 FMぎんが てんがらもんラジオのゲスト 西伊敷歴史研究会の池田会長が話された

ラジオで聞くので 登場するかっての武将や土地 その他 漢字も含め想像の世界からネットで調べる

故にもし 違っていたらご容赦願いたいものだ 記事も写真もネットからの借用である

 

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コメント (6)
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