幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

家茂上洛 黄砂降るなか

2008-09-18 00:23:14 | Weblog
次回の「篤姫」は家茂上洛を巡っての嫁姑の確執のようです。

上洛は当初海路の予定でしたが、突然陸路に変更になりました。色々な推測がありますが、真相はよく分かっていないようです。
世間では、上洛する将軍は贋のお方とか、将軍謀殺の陰謀があるとか、いろいろな噂が飛び交いました。将軍上洛は、三代将軍家光以来、二百年以上にわたって行われなかった 驚くべき出来事だったからです。
家茂は文久三年二月十三日(西暦1863年3月31日)正午頃江戸城を出立いたしました。出発時は薄曇りでしたが、2時間後の午後二時頃には雨が降り出してきました。丸亀に流されていた「ヨウカイ」こと鳥居甲斐の日記には「十日以来、日々蒙気あり、天爽やかならず」と10日から黄砂が飛来してきていた事を示しています。また13日の神奈川県生麦の関口家日記には「夕方より軒別煙り雨」と書いてあって、雨に黄砂が少し交じっていたような感じです。13日に川崎泊まりだった家茂の行列もこの雨の中を進んで行ったことでしょう。14日は「上洛風雨のため戸塚へ泊」とあります。            この風雨のあとに本格的な黄砂の飛来があった様子です。
各地の黄砂現象を抜き書きしますと、小倉では14日「霾」(バイと読み、意味は土降ること)、また「終日かつれ模様、土降る、柴の葉等白し」とあり、15日には三重県の伊勢松坂市で「土の如き霧降」、愛知県の豊田市でも「晴天ナゴにて煙り立つ」、また東京の武蔵村山市でも「九ツ(正午)以前、四方暗くして、土を吹き立てたる如し、昨日の雨にて土湿り吹き揚べきにあらず、奇と云うべし」とあります。黄砂は上空の強い西風に乗って、九州から次第に東へ飛来したと思われ、家茂上洛の行列とは、15日に神奈川県西部辺りで遭遇したように思われます。その後の幕府を暗示するような何とも、幸先の悪いスタートのようでした。
しかし、13日は土佐市で強風と波浪、京都で強風と記録があり、特にこの日、土佐藩主の帰城の際に、お供の士の笠が飛ばされ紐だけが残り格好が悪いので「頬かむり御免」の特例がだされた程でした。14日には強風域が秋田県田代町、福島県相馬市、新潟県巻町、広島市、東京都、神奈川県藤沢市、三重県熊野市、伊勢松坂市土佐市など全国的に広がりました。各地で波も高かったようで、巻町では「雨天後ニ大風、猟船大ニ難渋」などと記録もあり、将軍が陸路を取ったのは結果的には良かったようにも思われます。
もしかして、波浪や天気を予想して海路から陸路に変更したのでしょうか。天気予報が未発達な当時、ありえなそうですが、もう少し調べてみようと思います。

    

    
コメント
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