おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その6。環八通り。正面に飛行機。河口を望む。

2023-05-19 18:40:26 | 都県境を探る

空港横を走る「環八通り」。

「東京モノレール」。

悠々と旋回する。

                          砂地に影が(↓)

河口を望む。

       正面に飛行機。

            

振り返る。

         整備中の遊歩道。

自転車で空港方面に向かう人の姿が。

 遊歩道最先端。     

     

戻ります。

対岸(川崎市)の河口先端近くには「浮島町公園」があります。

振り返ると、飛行機が。

対岸の正面付近に川崎市(神奈川県)設置した「多摩川河口」の標識があるはずです。

「多摩川スカイブリッジ」を渡って川崎市側に向かうことにします。

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京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その5。海老取川。羽田鈴木町。

2023-05-18 18:31:31 | 都県境を探る

羽田空港側が大きく開けてきます。

海老取川。多摩川から分流して東京湾に注ぐ。

東京都大田区を流れる多摩川の分流で東京国際空港(羽田空港)を隔てている一級河川である。長さ約2km。うち1kmは河川法上の指定区間となっている。河口付近で新呑川と合流する。

東岸に空港関連の施設があり、西岸の北の方に工場が多く立地する。西岸の南は住宅地である。河岸には漁業用船舶プレジャーボートが係留されている。

氏神・鈴木弥五右衛門の碑。

「江戸近郊八景之内 羽根田落雁」。

羽田鈴木町地図。

かつて存在した町。羽田空港建設のために強制的に町ごと移転させられた。

             (「今昔マップ」より)

かつての羽田、鈴木、猟師町お台場(河口の微高地)に空港を造ることに。

※戦前には「羽田競馬場」というのがあったのですね。

五十間鼻。右に「無縁仏堂」。

羽田空港方面。遊歩道が続きます。

             

羽田空港側土手から多摩川を望む。

             

空港整備地区に残された樹木。

整備中の地区。

              整備されている多摩川沿いの遊歩道。

案内板。

多摩川スカイブリッジ橋脚下。

多摩川スカイブリッジ。

               対岸(川崎市川崎区殿町)を望む。

羽田空港川崎市を結ぶ「神奈川口」は神奈川県の長年の悲願とされていた。2004年(平成16年)2月12日、国土交通大臣、神奈川県知事、横浜市長、川崎市長を構成員とする「第1回神奈川口構想に関する協議会」が開催され、以後2006年(平成18年)までに4回会合を行い「神奈川口構想」について検討を進めた。「神奈川口構想」は羽田空港の再拡張・国際化に合わせて多摩川にある首都高速湾岸線大師橋の間に空港に接続する橋または海底トンネルを建設し、多摩川の対岸にある川崎市側にも空港施設を設置するという構想で、いすゞ自動車川崎工場跡地の利用を想定していた。国際線旅客ターミナル(現:第3旅客ターミナル)の出国手続き施設を建設するほか、ホテル物流施設を併設し、経済的な地盤沈下が進む京浜臨海部再生の起爆剤になると考えられた。

この「神奈川口構想」に対しては、東京都大田区が強く反対したが、「アジア諸都市の国際ハブ空港競争激化の中にあって、日本の羽田空港がそれに勝ち抜くキーのひとつとしてあげられるのが、臨空関連施設やホテル他を擁する神奈川口構想の成立可否かもしれない」とする新聞記事もあった

2014年(平成26年)9月8日、「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の初会合で政府は羽田空港と川崎市を直結する「連絡橋」と「海底トンネル」の新設を決定。川崎市の15年来の悲願が実現することとなった[12]2015年(平成27年)5月18日に開かれた「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の第2回会合で、羽田連絡橋などの整備場所について「川崎区の殿町地区中央部に両地区を結ぶ新たな橋梁(2車線)」と初めて明記された2017年(平成29年)1月24日、川崎市と東京都が「羽田連絡道路」の都市計画事業認可を取得し、事業に着手した。事業総額は300億円。負担額は橋梁部分の260億円は国と川崎市が折半し、川崎市は川崎市側の取り付け部の整備費約40億円を負担する[。首都高湾岸線が多摩川トンネルを通過する地下ルートであるため、本橋梁は多摩川河口から第一番目に架かる橋となる。橋には幅員7.5メートルの2車線の車道に加え、両側に4.9メートル幅の歩道・自転車道がそれぞれ設けられるが、50cc未満の原動機付自転車及び軽車両(自転車を除く)は通行できない。所要時間は開通前は対岸まで電車とバスで1時間、自動車で20分程度かかっていたものが、この道路の完成により車では3分、徒歩でも10分余りで行き来できるようになる。開通は当初2020年東京オリンピックに合わせ2020年(令和2年)夏を予定していたが、2度の延期を経て2021年度(令和3年度)に変更され、2022年(令和4年)3月12日に開通した

羽田空港側では羽田エアポートガーデン、川崎市側ではキングスカイフロント(殿町国際戦略拠点)の各施設が建設、整備が進められている。また、開通後の2022年4月1日には川崎鶴見臨港バスにより、スカイブリッジを通行して天空橋駅大師橋駅および浮島バスターミナルを結ぶ路線バスの運行が開始された

※帰途にこの橋を渡って川崎市側に向かいます。

モーターボートが疾走中。 

               

干潟で貝採り?

JR浜松町と空港を結ぶモノレール。

立入禁止の柵。

この先にも人の姿がチラホラ。下から回り込んで、先に行ってみます。まだ整備中のところですが。

「多摩川スカイブリッジ」が遠くに。

対岸(川崎区浮島町)を望む。

                 大きな工場、倉庫、製油所が立ち並ぶ一大京浜工業地帯。

 

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京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その4。海から2K。ねずみ島。羽田第一水門。五十間鼻・無縁仏堂。海老取川。

2023-05-17 18:48:11 | 都県境を探る

ますます川幅が広くなって、

                   対岸は、川崎市川崎区殿町付近。

     遠く河口付近に見える橋は、「多摩川スカイブリッジ」。

「多摩川羽田地区自然環境保護指定区域」の標示。

「海から2K」。

川面にほんの少し見えるのは、「ねずみ島」? 

右奥に見えるようですが。

                                (「今昔マップ」より。

昭和の初期まではこの島まで河川敷で畑があったそうです。河川改修で川幅を広げる際、畑の持ち主が買収に応じなかったため、とり残されたと言われています。今も標高3mで、川崎市に属しています。

※都県境は、かつては川崎市寄りになっていたようです。

                     1970年代のようす。顕著な島の姿。

                     2010年代のようす。小さく、中洲のよう。

大田区側の羽田第一水門。

水門に通じる舟だまり。

       

今も漁船や船宿があります。

案内板。海老取川と多摩川の合流点付近。

「五十間鼻無縁仏堂の由来」。

創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の
折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が
管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。

                                              

※五十間鼻(ごじゅっけんばな]

東京都大田区羽田六丁目の、多摩川海老取川の分流点に所在する石積みの沈床。その名称は、増水時の急流に対する護岸のため、水中に長さ五十(約90m)に渡って石を敷き詰めたことに由来する。遠景に多摩川河口東京国際空港(羽田空港)を眺望でき、釣りスポットや初日の出スポットとしても知られる

・・・周辺は東京湾の干満の影響を受ける汽水域で、干潮時には石積みの上を歩くことが可能だが、満潮時には全体が川底に沈む。接続する羽田六丁目の河岸はコンクリートで護岸されているが、岸のすぐ下には干潟が存在し、干潮時には岸から降りることができる。

(この項、「Wikipedia」より)

辨(弁)天橋。             

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京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その3。大師橋。高速大師橋リニューアル工事。羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革。羽田の渡し。

2023-05-15 18:49:07 | 都県境を探る

「大師橋」。

                橋の下の干潟で貝採り?

大師橋

東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。同橋は川崎市が管理している。

中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋。

        

※「斜張橋」と「吊り橋」の相違。(「Wikipedia」より)

左奥は、「首都高横羽線」橋脚。         

          右が「大師橋」、左が「高速大師橋」。

上流を望む。

羽田第二水門。

「高速大師橋」。

          大規模なリニューアル工事中。

1968年の開通から50年以上が経過し劣化が著しいため、橋梁の架け替え工事が2018年1月から行われている。

「多摩川八景・多摩川の河口」。

旧大師橋の親柱。

                  昭和14(1939)年に開通した当時の遺構。

「羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革」解説板。

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区 
 羽田は多摩川河口の砂洲の上にあったことからたびたび水害が発生していました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62回の大洪水があったと記録されています。明治以降、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。 
 
2 羽田レンガ堤の建設 
「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917)内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完成(工期16カ年)しました。
「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所・昭和1010月発行)には「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガ胸壁(赤レンガ堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用するとして河川住民及び一般の利便を増進させた」と記されています。また人が堤防をまたぐため階段も設けられました。
 
3 羽田レンガ堤と人々の暮らし 
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ桟橋、造船所、生簀、材木置場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり、船宿もありました。昭和20年(1945921日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水災害もなく安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20415日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして、戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
昭和48年(1972)高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。
 
※レンガ堤の遺構が、羽田地区内各所に残っているようです。

「羽田の渡し」解説板。

古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約四○間(約八○m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、二○~三○人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止してほしいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和十四年に大師橋が開通したことにより廃止された。  大田区

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。

「羽田渡船場」がある。多摩川は「六郷川」と記されている。川幅に注目。

                      2010年代のようす。

二つの「大師橋」。湾曲していた流路が広く、直線化している。

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京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その2。海から3K。たまリバー50キロ。多摩川起点標。(東京都大田区)。

2023-05-14 13:48:14 | 都県境を探る

次第に川幅が広く。

「海から4.0K」。

六郷ポンプ所排水樋管。

  

土手下は、桜並木。

振り返る。

ここまで、のんびりと歩いてきました。

河川敷がなくなり、コンクリート護岸壁に。「海から3K」。                      

「たまリバー50キロ」案内図。

         

気づくと、「羽田」という地名が。

起点に着きました。「たまリバー50キロ」

              実は「羽村取水堰」から53.0km。

「羽田水辺の楽校 自然体験教室」。

ここが大田区(東京都)側の多摩川起点のようです。

来た道を振り返る。起点を示す柱が色あせているのが残念。

この先、まだまだ河口は先に伸び続けているので、ちょっと中途半端なのかも。

       「老舗の佃煮 大谷政吉商店」直売所。

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