おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

歌舞伎鑑賞教室。隅田川。坂東玉三郎。木母寺。梅若伝説。

2023-07-14 18:40:57 | 歌舞伎鑑賞教室

木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。

この伝承は、むかしの墨田村の口伝えというばかりでなく、種々の芸能・芸術として広く流布し発達してきました。

◆能楽◆

最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。

この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。

◆浄瑠璃◆

寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それをもとに、浄瑠璃作者中興の祖と言われている近松門左衛門が「雙生隅田川」を書きました。人形浄瑠璃(文楽)でも盛んに上演されています。能「隅田川」からは梅若丸と東門院の若松が兄弟に、忍の惣太は人買いから忠心に忍ぶの惣太がお家再興の金欲しさから主家の子供を誤って殺してしまうという因縁話が結びついた内容になっています。

近松門左衛門の「雙生隅田川」が、江戸期の世相や人情を反映していると言われているのはこのためです。

◆歌舞伎◆

元禄14年(1701)初代市川団十郎作「出世隅田川」が、中村座で初演されました。

その後、浄瑠璃の「雙生隅田川」の影響を受け、人買いに殺された悲劇の稚児として描かれるようになり、奈河七五三助作「隅田川続俤」や河竹黙阿弥作「都鳥廓白浪」などの隅田川物が描かれました。大正8年(1919)には東京・歌舞伎座で初演され、二代目市川猿之助や二代目市川団四郎らによって演じられました。上演された記録は多くの浮世絵からも知ることができます。

 

◆舞踊◆

舞踊では清元の「隅田川」がありますが、詞章がもの悲しく、清元の哀調をしんみりと聞かせます。また、一中節の「峰雲賤機帯」や長唄の「八重霞賤機帯」などは、能「隅田川」をもとに作詞されました。

(この項、「」HPより)

ここにもあるように、この舞台は、清元の「隅田川」。幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。

・・・

渡し守が出て名乗ります。「これは△△の○○にて候」と言います。
能や狂言の定番の始まりかたです。

今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。

狂女が出ます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。能だと名前はありません。

笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。

「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」

藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。

班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。

子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。

渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。

隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。

このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。

川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。

人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。

ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。

改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。

この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。

言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。

(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)

・・・

           

船守:坂東竹三郎

        

              

班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。

            

              

            

               

          

                   

              

                    

こうして、静かに幕が下ります。

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歌舞伎鑑賞教室。その6。歌舞伎十八番のうち『暫』。つらね・見栄を切る・六方を踏む。・・・。観客を飽きさせないお芝居。

2023-07-05 18:44:09 | 歌舞伎鑑賞教室

舞台は鶴岡八幡宮、清原武衡が関白の宣下を受けるところ。天下を手中に収めたかのように思い上がった様子。鯰坊主の震斉、女鯰の照葉、成田五郎ら臣下たちが居並ぶ。

                           

そこへ加茂次郎義綱が許婚の桂の前たちを連れ立って登場する。朝廷の繁栄を祈願するため大福帳(商家で使われる帳簿)を掛額に収めて奉納にきた。

加茂家をかねてからこころよく思っていない武衡は義綱に難くせをつける。「商人が使う卑しきものを奉納するとは神社を冒涜するのか」と掛額を引きおろし、はては「桂の前を差し出して家臣になれ」などと無理難題を浴びせる。
うんと言わぬ「義綱」に腹を立て「ならぬなら首をはねてしまうぞ」と腹出したちに命じて義綱ら一同を斬り殺そうとする。

まさに絶体絶命の瞬間、花道の登場口、揚幕(あげまく)の向こうから「しばらく!」と大きな声。ムカデのようなカツラ(車鬢(くるまびん))、真紅の筋隅(すじくま)、柿色の凧のようなものがついた巨大な衣装をまとい、2mを超える大太刀を差した恐ろしげな大男が登場する。

「成田屋」の屋号。

               

驚く敵方が名前を尋ねると、男は花道の七三(しちさん)まで来て立ち止まり「鎌倉権五郎景政」と名乗る。

思わぬ邪魔者で苦々しい武衡は「追い払え」と命令する。家来たち(鯰坊主・腹出し・成田五郎など)が代わる代わる、おどしたりなだめたり、力づくでかかったりするが、男はびくともせず、ずんずん舞台中央まで進む。

           

そして鎌倉権五郎は武衡が奉納した宝剣はニセモノで朝廷を呪う仕掛けがしてあるとか、加茂家が探している「探題の印」を盗んだのは武衡の者だ、今すぐ返せと武衡の悪事を暴き立てて詰め寄る。

すると急に、女鯰の照葉が寝返る。

実は女鯰は始めからスパイ。いつの間にか「探題の印」を奪い、宝剣もホンモノを見つけ出していた。女鯰は印と宝剣を鎌倉権五郎に渡す。家宝が手元に戻り、御家は安泰と喜ぶ加茂家一同。

    

            

最後の悪あがきで討ちかかってくる敵方を、鎌倉権五郎は大太刀を一振りなで斬りにして、

             

                    

「弱虫めら」と捨てぜりふを残して、意気揚々と花道を引き上げて行く。

           

 「暫」はストーリー(筋書き)は単純だが、歌舞伎的に演出された様式とその迫力を楽しむ演目。

主人公・鎌倉権五郎が登場するとき、「しーばーらーくー!」という大音声が聞こえてくると、敵方はみな何事かと慌てふためきます。

登場した権五郎は、なかなか本舞台に上がってこないで、花道の上で威勢のいい「つらね」と呼ばれる長セリフを披露します。そして敵方の鯰坊主の要求に対して、「いーやーだー!」とまるで子供のような無邪気さで答えます。

敵方が「あーりゃ、こーりゃ」という、化粧声と呼ばれる荒事特有の掛け声をかけて、なぜかヒーローの登場を盛り上げるのも面白い趣向となっており、最後は敵を倒した権五郎の「よーわーむーしーめーらー!」という爽快な捨て台詞が舞台に響きわたり、「ヤットコトッチャ、ウントコナァ」という掛け声と共に花道を引き上げていく。

衣装の豪快さ

主人公の鎌倉権五郎の巨大な衣装の総重量は、なんと60キロ!とにかく動くのも大変そうな重装備ですが、上から順に説明していきます。

  1. 呪力を宿した力の象徴でもある白い「力紙ちからがみ
  2. 前髪は少年である印。本来は中心から分かれているが、「わけ櫛」で分け目にしている
  3. 車海老をイメージした「五本車鬢ごほんくるまびん」という髪型
  4. 隈取は荒事の典型的な最も力強い「筋隈すじぐま
  5. 結び目の先端や輪っかを上にピンと跳ね上げた「はねだすき
  6. 袖は成田屋の家紋の三升の紋を染め抜いた「大紋
  7. 7尺(2メートル)はあろうかという黒塗りの「大太刀
  8. 高さ30センチもある「継ぎ足

江戸歌舞伎の1年間の興行の始まりは11月の「顔見世(かおみせ)」だった。役者たちが舞台で一堂に会し、一座の新しい顔ぶれを観客に披露する年中行事で、「顔見世」では悪人に殺されそうになる善人を、「しばらく」の声とともに正義の味方が登場し、窮地を救う場面が組み込まれる習わしがあった。明治に入り、この場面を独立させて1幕ものとなったものが「暫」。

            


 つらね

主に荒事の主役が花道で長々と述べるせりふのことをいい、歌舞伎独特の闊達な雄弁術。歌舞伎十八番『暫』の鎌倉権五郎がもっとも代表的なところです。

江戸の芝居では毎年11月の顔見世狂言として必ず『暫』が上演され、その際のつらねは必ずその役者が書くというのが決まりでしたが、実はそれも名目上で実際は座付の作者が書いていたようです。

冒頭には「東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)、天地乾坤四夷八荒(てんちけんこんしいばっこう)の隅々まで、鳴り響いたる歌舞伎の華」といった少々難解な美文が並びますが、言葉の流れと勢いで観客を魅了します。

みえを切る

見得とは、演目の見せ場で役者がポーズを決めて静止し、首を回したり目玉を中央に寄せたりする動作全体を指す。これは、役者自身やその場面を客に印象付ける効果、舞台全体を美しく演出する効果がある。

六方を踏む

手足の動きを誇張して、歩いたり走ったりする様子を象徴的に表現した演出です。おもに「荒事(あらごと)」の役が「花道(はなみち)」を引込む時に演じられ、力強さと荒々しさを観客に強く印象付けます。

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歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎十八番うち、『外郎売』。市川海老蔵(現:十三代目 市川團十郎 白猿)、勸玄(現:八代目市川新之助)。

2023-07-04 18:45:07 | 歌舞伎鑑賞教室

歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。

  1. 勧進帳(かんじんちょう)
  2. 助六(すけろく)
  3. 暫(しばらく)
  4. 矢の根(やのね)
  5. 毛抜(けぬき)
  6. 鳴神(なるかみ)
  7. 不動(ふどう)
  8. 外郎売(ういろううり)
  9. 押戻(おしもどし)
  10. 景清(かげきよ)
  11. 解脱(げだつ)
  12. 不破(ふわ)
  13. 象引(ぞうひき)
  14. 七つ面(ななつめん)
  15. 関羽(かんう)
  16. 嫐(うわなり)
  17. 蛇柳(じゃやなぎ)
  18. 鎌髭(かまひげ)

歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。
 その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十郎が得意にしていたことはわかっていても、作品の中味がはっきりしないものも多く含まれています。例えば、『関羽【かんう】』や『蛇柳【じゃやなぎ】』などです。これらの作品は、後に復活されていきます。
 代々の團十郎は荒事を最も得意としたため、歌舞伎十八番の役はほとんどが荒事です。

歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番かぶききょうげんぐみじゅうはちばん」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。

当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。

そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。

これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。

得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?

市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。

この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。

この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。

「おはこ」という読み方は歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていた。・・・(中略)・・・台本を木の箱に入れて取っていたという説も無意味である。江戸時代は3年に一度くらい大火があった、・・・(中略)・・・火事になれば箱も台本も燃えてしまう。

「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。

歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。

(この項、「」HPより)

その一つ、外郎売(ういろううり)

外郎売は、実は曽我の五郎時致です。
 大磯の廓で酒宴を張る工藤祐経のもとに、小田原名物の外郎売に身をやつした五郎がやってきます。兄、十郎祐成と共に父の敵である祐経を討とうとつけ狙っていたのです。
 素性を隠して外郎の商いを始めた五郎は、隙をついて祐経を討とうとするものの止められてしまいますが、祐経は曽我兄弟の親を思う気持ちに心打たれ、後日改めて勝負することを約束するのでした。

第一節

拙者親方せっしゃおやかたと申すは、お立会たちあいうちに、御存ごぞんじのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方にじゅうりかみがた相州小田原一色町そうしゅうおだわらいっしきまちをお過ぎなされて、青物町あおものちょうを登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門らんかんばしとらやとうえもん只今ただいま剃髪致ていはついたして、円斉えんさいと名のりまする。

元朝がんちょうより、大晦日おおつごもりまで、お手に入れまする此の薬は、昔ちんの国の唐人とうじん外郎ういろうという人、わがちょうへ来たり、みかど参内さんだいの折りから、この薬を深くめ置き、もちゆる時は一粒いちりゅうずつ、かんむりのすき間より取り出だす。

よってその名を帝より、透頂香とうちんこうたまわる。即文字すなわちもんじには「いただき、く、におい」と書いて「透頂香とうちんこう」と申す。

只今はこの薬、ことほか世上せじょうひろまり、方々ほうぼう偽看板にせかんばんだし、イヤ、小田原おだわらの、灰俵はいだわらの、さんだわらの、炭俵すみだわらのと、いろいろに申せども、平仮名ひらがなをもって「ういろう」と記せしは、親方円斉おやかたえんさいばかり。

もしやお立会いのうち熱海あたみ塔の沢とうのさわへ、湯治とうじにお出なさるるか、または伊勢御参宮いせごさんぐうの折からは、必ず門違かどちがいいなされまするな。

のぼりならば右のかた、おくだりなれば左側、八方はっぽう八つ棟やつむねおもて三つ棟みつむね玉堂造ぎょくどうづくり。

破風はふには菊にきりとう御紋ごもん御赦免ごしゃめんあって、系図けいず正しき薬でござる。

第二節

イヤ最前さいぜんより家名かめい自慢じまんばかり申しても、ご存知ぞんじない方には、正身しょうしん胡椒こしょう丸呑まるのみ、白河夜船しらかわよふね、さらば一粒食いちりゅうたべかけてその気味合きみあいをお目にかけましょう。

先ずこの薬をかように一粒舌いちりゅうしたの上にのせまして、腹内ふくないおさめまするとイヤどうも言えぬは、しんはいかんがすこやかになりて薫風候くんぷうのどより来たり、口中微涼こうちゅうびりょうしょうずるがごとし。

魚鳥ぎょちょうきのこ麺類めんるいの食い合わせ、その外、万病速効まんびょうそっこうある事神ことかみごとし。

さて、この薬、第一の奇妙きみょうには、舌のまわることが、銭独楽ぜにごまがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢もたてもたまらぬじゃ。

第三節

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。

アワヤのど、サタラナぜつに、カ歯音しおん、ハマの二つはくちびる軽重けいちょう開合かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆ぼんまめ 盆米ぼんごめ ぼんごぼう、摘蓼つみたで 摘豆つみまめ 摘山椒つみさんしょう書写山しょしゃざん社僧正しゃそうじょう粉米こごめ生噛なまがみみ 粉米こごめ生噛なまがみみ こん粉米こごめ小生噛こなまがみ、繻子しゅす緋繻子ひじゅす繻子しゅす繻珍しゅっちん、親も嘉兵衛かへい 子も嘉兵衛かへい、親かへい子かへい 子かへい親かへい、古栗ふるぐりの木の古切口ふるきりぐち雨合羽あまがっぱ番合羽ばんがっぱか、貴様の脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、我等が脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、しっ皮袴かわばかまのしっぽころびを、三針みはりはりながにちょとうて、ぬうてちょとぶんだせ、河原撫子かわらなでしこ 野石竹のせきちく、のら如来にょらい のら如来にょらい のら如来にょらいのら如来にょらい

一寸先いっすんさきのお小仏こぼとけに おけつまずきゃるな、細溝ほそみぞにどじょにょろり。

京の生鱈なまだら 奈良生学鰹ならなままながつお、 ちょと四五貫目しごかんめ、お茶立ちゃたちょ 茶立ちゃたちょ ちゃっとちょ茶立ちゃたちょ、青竹茶筅あおたけちゃせんでおちゃちゃっとちゃ。

第四節

来るは来るは何が来る、高野こうやの山の おこけら小僧こぞう狸百匹たぬきひゃっぴき 箸百膳はしひゃくぜん 天目百杯てんもくひゃっぱい 棒八百本ぼうはっぴゃっぽん

武具ぶぐ馬具ばぐ・ぶぐ・ばぐ・ぶぐばぐ、合わせて武具ぶぐ馬具ばぐぶぐばぐ、きくくり・きく・くり・三菊栗みきくくり、合わせてきくくり六菊栗むきくくりむぎ・ごみ・むぎ・ごみ・むぎごみ、合わせてむぎ・ごみ・むぎごみ。

あの長押なげし長薙刀ながなぎなたは、長薙刀ながなぎなたぞ。

向こうの胡麻ごまがらは 胡麻ごまがらか、真胡麻まごまがらか、あれこそほんとの真胡麻殻まごまがら

がらぴいがらぴい風車かざぐるま、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師こぼうし、ゆんべもこぼして 又こぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干いっひだこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食わぬ物は、五徳鉄灸ごとくてっきゅう かな熊童子ぐまどうじに、石熊いしぐま 石持いしもち 虎熊とらぐま とらきす、中にも東寺とうじ羅生門らしょうもんには、茨木童子いばらきどうじがうで栗五合くりごんごうつかんでおしゃる。

頼光らいこう膝元去ひざもとさらず。

第五節

ふな金柑きんかん椎茸しいたけ、さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍ぐどん小新発知こしんぼち小棚こだなの、小下こしたの、小桶こおけに、こ味噌みそが、こるぞ、小杓子こじゃくし、こって、こすくって、こよこせ、おっと合点がってんだ、心得こころえたんぼの川崎かわさき神奈川かながわ程ガ谷ほどがや戸塚とつかは、走って行けば、やいとをりむく、三里さんりばかりか、藤沢ふじさわ平塚ひらつか大礒おおいそがしや、小磯こいその宿を七ツ起ななつおきして、早天早々相州小田原そうてんそうそうそうしゅうおだわらとうちんこう、かくれござらぬ貴賎群衆きせんぐんじゅの、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を、おやわらぎやという。

産子うぶこう子に玉子まで、外郎ういろう御評判ごひょうばん、ご存知ないとは申されまいまいつぶり。

角出つのだせ、棒出ぼうだせ、ぼうぼうまゆに、うすきね・すりばち、 ばちばちくわばらくわばらと、羽目はめはずして今日こんにちでの何れも様いずれもさまに、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢引いきせいひっぱり、東方世界とうほうせかいくすり元締もとじめめ、薬師如来やくしにょらい上覧しょうらんあれと、ホホうやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

※滑舌の練習としても重用されています。

2019年。歌舞伎座「七月大歌舞伎」、昼の部の『外郎売』の特別ポスター。市川海老蔵、勸玄親子の競演。当時、大きな話題となりました。

  

歌舞伎十八番の内『外郎売』は、成田屋の家の芸。海老蔵の外郎売と堀越勸玄の貴甘坊の後ろには、成田屋の家紋である三升が大きくあしらわれ、親子で同じポーズを決めています。勸玄の貴甘坊は、キリッと引き締まった表情に、しっかりと足を踏ん張り形を決めていますが、どうやら三升が銀色で、勸玄もはにかんだ表情の別バージョンが存在するそう。

 海老蔵にとって『外郎売』は、昭和60(1985)年5月歌舞伎座で、七代目市川新之助として初舞台を踏んだ際に演じた演目。その時は父である十二世市川團十郎が外郎売、当時新之助の海老蔵が貴甘坊を勤めました。来年に十三代目市川團十郎白猿の襲名、八代目市川新之助としての初舞台を控えた海老蔵、勸玄親子が、襲名披露に先立って『外郎売』に挑みます。劇中では勸玄の貴甘坊が早口言い立てを披露します。ぜひ劇場でご覧ください。

(この項、「」HPより)

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歌舞伎鑑賞教室。その4。舞踊。「京鹿子娘道成寺」西川寬。歌舞伎座にて。「

2023-07-03 18:53:57 | 歌舞伎鑑賞教室

歌舞伎には、「道成寺物(どうじょうじもの)」とよばれる作品群があります。これらの作品は、能の『道成寺』から、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込む、という枠組みを取り入れています。「道成寺物」は、元禄年間(1688年~1704年)から上演されるようになりますが、それらの作品を集大成したのが、1753(宝暦3)年に初代中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が初演した『京鹿子娘道成寺』です。

今回は、日本舞踊西川流家元 西川寛による「京鹿子娘道成寺」。

1時間近くを1人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲。

白拍子(しらびょうし=歌舞を生業とする遊女)の花子が道成寺の鐘供養に訪れ、舞を次々に披露するうちに鐘に飛び込み、蛇体となって現れるという設定ですが、内容はいくつかの部分に分けられ、恋にまつわるさまざまな女性の姿を踊り分けることが主眼となっています。

聞いたか坊主

舞台は桜花爛漫の紀州(今の和歌山県)道成寺。所化(しょけ=修行中の僧)たちが「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」と繰り返して登場。今日は焼け落ちた鐘楼の鐘が再興され、鐘の供養が営まれるのだが、師匠の長い御経を聞くのが憂鬱なので何か気晴らしの打開策を巡らしている。

いざ道成寺へ

道成寺からほど近い小松原。振袖姿の娘・花子が道を急いでいる。ふと袂や裾の乱れた自分の姿に気づいて恥ずかしがり、やがて恋人との逢瀬を回想。朝の別れの時を告げる鐘の音が憎らしいと、鐘への恨みを覗かせ、道成寺へ向かう。

花子の頼み

美しい花子の訪問に所化たちは大騒ぎ。花子は白拍子で、鐘を拝ませて欲しいと頼む。鐘供養は女人禁制だが、所化たちの禅問答のような問いかけに花子が見事に答えたので、所化たちは舞を舞うことを条件に寺の中に入ることを許す。

白拍子の舞

                               

花子は赤の振袖姿になり、烏帽子をつけ中啓(扇の一種)を手に舞い始める。

能の趣を取り入れた厳かな場面。夕暮れに響く鐘の音から、初夜(午後八時)の鐘は諸行無常と響く…など時を告げる鐘の音を世の無常になぞらえた歌詞で舞う。

                  

町娘の踊り

花子は烏帽子を脱ぎ、能仕立の舞から離れて、ぱっと華やいだにぎやかな歌舞伎の踊りになる。恋に乱れる女心とつれない男の心を歌った歌詞を手踊り(小道具を使わない踊り)で軽やかに綴り、「引き抜き」という手法で一瞬にして赤の衣裳から水浅葱(薄水色)の衣裳に変わる。ここから、つぎつぎと衣裳も小道具も歌も趣向を変えながら、さまざまな恋の踊りが続いていく。

テントツツン、テントツツン…と三味線がリズミカルなフレーズを繰り返す中、花子は桜の花びらをかき集めて鞠を作り、少女のように鞠つきをする。やがて、吉原、島原、伏見、墨染…と、当時の江戸や上方の有名な廓の名前を読み込んだ「廓づくし」の歌詞で明るくテンポよく展開。廓は恋の花咲く場所でもある。

一旦引っ込み、上半身だけ鴇色(ときいろ=薄いピンク)の衣裳になる。赤の笠をかぶった愛らしい娘の姿で、「振り出し笠」(一つの笠を降り出すと三つの笠が連なる仕掛けの笠)を使い可憐に踊る。「梅と桜はどちらが兄か弟かわからない」というかつての流行歌「わきて節」がのどかな趣。

所化も浮かれて

所化たちも肌脱ぎをし花傘を持って踊り出す。

赤の襦袢に卵色の股引を見せた坊主たちの楽しい群舞で、「菖蒲と杜若はどっちが姉か妹かわからない」という歌詞で踊る。

恋する娘

花子は藤色の衣裳で、手拭いを使いしとやかに踊る。

恋する思いをかき口説く「クドキ」と呼ばれる眼目の場面。「貴方のために綺麗にお化粧したのに…」とじれたり、ちょっとした言葉に喜んだり、「一緒になろうと約束したのは嘘なのだろうか」と悩み、嫉妬して泣いたり…と恋する娘に共通する思い、女心の切なさが情緒たっぷりに描かれる。

羯鼓を打つ娘

上半身を卵色の衣裳に替え、富士山に吉野山、嵐山、中山、石山、…と、山の名前が読み込まれた「山尽くし」で展開。「末の松山いつか大江山」「恋路に通う浅間山」と恋歌の趣ある詞章で、羯鼓(かっこ=腰に付けて撥で打つ鼓)を打ちながら軽快に踊る。羯鼓を打つ音と足拍子のリズムが耳にも楽しい。稲荷山の箇所ではキツネの真似をする振りなどもある。

紫の衣裳に着替え、手踊り(小道具を使わない踊り)で可愛らしい振りが綴られるくだり。神様に一心に祈ったり、深い仲を噂されて恥ずかしがったりする他、リズムに合わせて手を上下にひらひらさせて身体を揺らしたり…と愛らしい動きがたくさんある。この場面の衣裳の柄は出演者の好みで工夫される。

鈴太鼓の音軽やかに

歩きながらスーッと「引抜き」白の衣裳になり、鈴太鼓(振り鼓ともいう)を使って踊る。二つの鈴太鼓を打ち付ける音、中の鈴のジャラジャラした音、足拍子などの音の複合が楽しい場面。田植え歌で、夢中になって鈴太鼓を床にうちつけてドコドコ音をさせるうちに、いつしか花子の顔色が変わり…。

鐘入

                           

鐘をきっと見上げる花子。制する所化たちを振り払い、鐘に上る。上に被せた赤の衣裳を取り去り蛇体の本性を表す「鱗模様」の衣裳になり、鐘の上から所化たちをキッと見下ろして幕となる。かつて恋する男を隠した憎い鐘に、再び巻き付いて執念をあらわにするのだ。

西川寛

日本舞踊5大流派の1つ「西川流」宗家直門師範 扇若会会主

1982年横浜市生まれ 幼少時より父、西川扇三郎 祖母、西川扇豊より指導をうけ、18歳の時西川流の名取を戴く。以降人間国宝である西川扇藏師に指導をうけ、本格的に日本舞踊家の道に進む。 歌舞伎座 国立劇場等多数の舞台に出演する一方、芸者衆をはじめとする弟子の育成に力を入れている。 テレビ等での所作指導も担当。現在、新宿(東京)柏(千葉)守谷(茨城)会津若松(福島)にて指導中。

(「西川寛オフィシャルサイトより)

※5大流派=花柳、若柳、西川、坂東、藤間流

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歌舞伎鑑賞教室。その3。『高尾懺悔』。坂東玉三郎。引退声明の余波。猿之助騒動。

2023-07-01 13:13:06 | 歌舞伎鑑賞教室

鉦鼓の音も澄みわたり 名もなつかしき宮戸川 都鳥も声添へて 
南無阿弥陀仏みだ仏 浅茅が原のさうさうと 風冷やかに身にぞしむ 
不思議や紅葉の影添ひて 塚のうしろにすごすごと 高尾が姿あらはれて 

もみぢ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし 
世渡る中の品々に 我は親同胞の為に沈みし恋の淵 浮びもやらぬ流れのうき身 
憂いぞつらいぞ勤めの習ひ 煙草呑んでも煙管より 咽喉が通らぬ薄煙 
泣いて明かさぬ夜半とてもなし 人の眺めとなる身はほんに 
辛苦万苦の苦の世界 四季の紋日は小車や 

先づ春は花のもと 手折りし枝を楽しみて 何処に眺むる春の風 
そよりそよりと花吹き散らす ちらりちらりと桜の薫り 野山を写す廓景色 
夏のあけぼの有明の つれなく見えし別れ鳥 ほぞんかけたと囀るは 
死出の田長や冥途の鳥と 鳴き明かす 籠の鳥かや怨めしや 
秋の夜長に牡丹花の 灯籠踊の一節に 
残る暑さを凌がんと 大門口の黄昏や いざ鈴虫を思ひ出す 
つらい勤めのその中に 可愛男を待ち兼ねて 暮松虫を思ひ出す 
虫の声々かはゆらし 我れが住家は草葉にすだく 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
昼は物憂き草の蔭 

早時来ぬと云ふ声も 震ひわななき身に沁みわたり どろどろどろ 仇と怨と情の思ひ 
追ひめぐり 追ひめぐり 震動稲妻凄まじく 
無残や高尾は世の人の 思ひをかけし涙の雨 
はんらはんら はらはら はらはら 降りかかれば 身に沁みたへて 木蔭に寄れば 
刃の責に煩悩の 犬も集まり 牙を鳴らして飛びかかる 
こは情なや牛王の烏 嘴を鳴らして羽をたたき 眼を抜かんと舞ひ下る 実に恐ろしき物語

        

              

             

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

デイリー新潮6/25(日)10:57

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

23年目のヤブヘビ

“猿之助ショック”を引きずる歌舞伎界で、大物役者の発言が波紋を広げている。

「主は坂東玉三郎(73)。自身のプロデュース公演『坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW』に関する、今月5日の記者発表での発言でした」

 とは歌舞伎担当記者。

「公演は9月。会場は東京・南青山のBAROOMで、バーも併設されている100席ほどの小規模なミュージックホールです。玉三郎は“体力的に歌舞伎座など大劇場で公演を行うのが難しくなった。今後はこのように、お客様と近い空間で芸術を届ける活動を軸にしていければ”と、本興行から距離を置く意向を明らかにしたのです」

 言うまでもなく、玉三郎は斯界を代表する大名跡。

「玉三郎は片岡仁左衛門(79)と並ぶ、歌舞伎界きっての観客動員力を持っている。彼らに続く存在が市川團十郎(45)と市川猿之助(47)の二人でしたが、心中騒動で猿之助の復帰が絶望的ないま、玉三郎が実質的に大劇場からの引退を示唆した。松竹には過去に例のない衝撃が走りました」

 松竹関係者が振り返る。

「会見では“大きな役で大劇場の公演を1カ月間、背負うことは体力的に難しい”とも。自他ともに認める完璧主義者の玉三郎は、10年ほど前から体力的な衰えを自覚していました。以来、長時間にわたって踊る『鷺娘(さぎむすめ)』や『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』といった大曲を避けていましたし、地方における短期公演も3年前からやめていました」

猿之助騒動の影響

 都内の料亭に生まれた玉三郎は1歳半の時に小児まひを患いながら、努力と持ち前の美貌で人気を博した。

「歌舞伎入りはリハビリ目的で始めた日本舞踊がきっかけで、デビュー当時は足に後遺症が出ていたそうです。それでも“玉さまブーム”を呼んだ当代一の女形に登り詰め、平成24年には人間国宝に認定されました」

 不意に飛び出したスーパースターの弱気発言。松竹幹部は、いまもくすぶる猿之助の騒動の影響を指摘する。

「猿之助の件は彼のセクハラやパワハラがきっかけとされていますが、実は玉三郎にも平成13年に似たようなセクハラ問題が持ち上がっていたんです」

過去のスネの傷

 訴えたのは19歳の元弟子と彼の母親。この男性は13歳で玉三郎に弟子入りしたが、直後から「添い寝の強要や、下半身を触られるなど精神的な苦痛を強いられた」として1200万円の損害賠償を求めていた。

「歌舞伎界ではつとに知られた話ですからね。玉三郎は過去のスネの傷への飛び火を恐れて、記者の取材を避けやすい大劇場からの引退を決意した可能性もある」

 どういうことか――。

「大勢の記者から猿之助に関するコメントを求められれば、過去の汚点が蒸し返されかねない。その点、いまのところ本人への直撃取材はないとか。翌6日付のスポーツ紙は“玉三郎が大劇場から引退”と大きく報じただけでしたね」

 尾上菊五郎(80)と松本白鸚(80)という大看板は体調不良で休演中。猿之助に加えて、玉三郎の“退場”は、歌舞伎界に急速な世代交代を迫っているかのようだ。

「週刊新潮」2023年6月22日号 掲載を引用。

まだ歌舞伎界にデビューして間もないころ、「高校生のための歌舞伎教室」があったときに出演していました。もう50年以上の昔の話です。

そのとき、「全部、男が演じているのは分かったが、たった一人女優が入っていましたよね。」との声。

その女優が玉三郎でした。

                                     

 

まだまだ活躍して欲しい方です。    

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