おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-30 15:48:07 | 銚子往還

しばらく国道歩き。  

          「→東庄町役場・・・」

直売・苺狩り。営業中の「林いちご園」。

バス停「菰敷青年館」。横道に入ると、

水田が広がる。

              

遠くに「筑波山」(↓)。

「笹川」。

右手奥に、「レストランだんだん」。

             若い娘さんが幟を立てていたので、「さりげなく」声をかけて先に進みます。

バス停「一本松」。

大きな石碑。「日本名山霊地巡拝大乗修養碑」。

この隣の塀の中に、「水準点」。海抜4.4m。

直線の道が続く。

バス停「寺前」。

             左手奥に「忠魂碑」。右に「新宿青年館」。

お店が並ぶ交差点に。

         

            山裾には住宅地が広がっています。  

高速バス「橘」。

「バスターミナル東京八重洲」行きのバスの停留所です。

「利根川大橋入口」交差点。

右手では県道の拡幅整備工事中。 

「←常陸川大橋 鹿嶋 ↑利根かもめ大橋 銚子」。

                     (現在)南東から接続する県道は未完成。

  

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-29 15:36:00 | 銚子往還

天保水滸伝。

      歌川芳虎〈1828~87頃〉「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(「城西国際大学水田美術館」より)

さて、街道歩きに戻ります。「桁沼川」(下流方向)。

          上流方向。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

来た道を振り返る。

通りの向こうに石塔。

近づくと「飯沼観世音五里」。

残り20㎞。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-28 15:38:14 | 銚子往還

5月17日(金)。快晴。今回「椎柴駅」まで行く予定でしたが、一つ手前の「下総豊里駅」で終了。

あと1日でゴールの銚子・飯村観音までたどり着けるか、微妙に。

成田線「笹川駅」。

                         素朴な駅舎。

アーケードをくぐって街道に復帰。

                   

「御大典記念築堤」碑。

「諏訪神社(大神)」境内。

坂上田村麻呂蝦夷征討の際、悪神退散を祈願して建てた一祠が当社の始まりとされ、大同2年(807年)に創建されたといわれており、須賀山明神とも称された。東国鎮護の神社として国司武将等の崇敬篤く、特に大江維時は社殿を造営し、源頼朝建久2年(1191年東重胤に命じて社殿を改築した。その後天正19年(1591年)に徳川家康朱印地10石を寄進し、享保3年(1718年)には神階正一位を授けられた。

当社の春の例祭には、神前の神楽殿で「笹川の神楽」が演ぜられる。天狗の面・小屋根の面・大玉の命の面・乙女の面・手力男の面などの十六座からなり、太々神楽あるいは岩戸神楽ともよばれ千葉県の無形民俗文化財に指定されている。また、秋季例祭には相撲まつりが行われる。山車が街中に繰り出し、笹川繁蔵が催して以来続けられている素人相撲大会などが開かれ、遠近からの参拝客でに賑わう。2017年の大相撲夏巡業期間中は出羽海部屋幕下以下の力士がここへ合宿に訪れていた

なお境内には、天保13年(1842年)に笹川繁蔵が建てた野見宿禰の碑[2]が残っており、境内の入り口には天保水滸伝遺品館[3]がある。

脚注

  • 笹川繁蔵が、相撲の元祖野見宿禰の碑を建てるとともに農民を救済することを名目として大花会を行った時に建てたもので、花会には、清水次郎長国定忠治大前田英五郎など天下の親分衆が駆けつけ大盛会であったと講談『天保水滸伝』は伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前で、国定忠治も手配書が出て逃亡中であり、真偽のほどは不明であるともされている。
  • 3 繁蔵の使った合羽や駒札、平手造酒の手槍と徳利、勢力富五郎の火縄短銃などといった、遺品・古文書を展示している。

(この項、「Wikipedia」より)

「とうのしょう観光マップ」。

参道脇に、

                  「天保水滸伝遺品館」。開館していませんでした。

「天保水滸伝遺跡案内図」。

付近には、笹川一家の用心棒だった「平手造酒(ひらてみき)」の大きな墓などがあるようです。

「天保水滸伝」は、天保から嘉永にかけて下総一帯で繰り広げられた飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の騒擾を題材とした実録体小説、および同じ題材を元に作られた講談浪曲等の演目。天保15年8月6日、下総国大利根河原で実際にあった「大利根河原の決闘」が物語のハイライトとなっており、飯岡助五郎や笹川繁蔵が実名で登場する。数ある演目の中でも特に文化史的に重要なのが講談で、初代宝井琴凌が自ら現地で採集した実話を元に拵えた。侠客を主人公にした侠客講談の皮切りであり、清水次郎長伝など、一連の侠客物が続々と作られるきっかけとなった

(この項「Wikipedia」より)

その物語のうち、

講談『天保水滸伝 笹川の花会』

【あらすじ】
 朝、笹川繁蔵から飯岡助五郎の元に、花会を笹川の十一屋で開くとの知らせが届く。花会とは親分衆ばかりが集まって開く賭場のことである。助五郎は風邪をひいて寝込んでいるので、洲崎(すのさき)の政吉に花会に行くよう言いつける。政吉は助五郎の跡目を継ぐ者であり一番信頼のできる子分である。政吉は笹川繁蔵に渡す「義理」(金)として、親分・助五郎から5両、その子分一同から3両を預かった。2人の子分を連れて5里離れた笹川まで赴き、花会が開かれる宿屋・十一屋へ着く。
 宿屋に入り、「義理」を繁蔵の子分に渡そうとするが、傍らにいた繁蔵はそれを自分の懐にしまい込んでしまう。横から金を頂戴してしまうようなしみったれた野郎だと政吉は鼻で笑う。花会の開かれる二階の広間に入ると政吉は驚いた。見渡すと、どこの誰だかは知らないが一目見ただけでこれは大物だと分かる貫禄のある親分衆がズラリと居並んでおり、すっかり威圧されてしまった。政吉はそれほどの貫禄は無いし、見知った親分も見つからない。どこへ座ればいいものかと思っていると、「こっちへ来い」と声がかかった。常陸国の親分、皆治であった。皆治は助五郎の親分である銚子の五郎蔵と兄弟分の仲である。皆治は参席している親分たちに政吉のことを紹介する。ひとり、皆治の向かい側に胸毛の見える眉毛の太い、いかつい顔をした男が腕を組んで政吉をじっと睨んでいる。この男は政吉の親分の助五郎のことを「スケ」と呼ぶ。頭にきた政吉。その男は広間に居並ぶ、遠方からも駆け付けた大親分の歴々の名を言い立てる。さらに飯岡と笹川がすぐ近くなのにも関わらず、這ってでもなぜ来なかったと助五郎をなじる。この男こそ上州の大親分、国定忠治であった。
 鴨居にはどこどこの親分からいくらいくらの「義理」を貰ったとのビラが貼って並べてある。そこには親分だったら50両から60両、身内一同だったら25両というような額が並ぶ。ところが助五郎が渡した「義理」は5両でその身内一同からは3両。これでは助五郎は大恥をかく。ところが繁蔵の子分が張った、助五郎の義理のビラには「助五郎50両、身内一同30両」と書いてある。政吉は自分が渡した義理を、繁蔵が懐へしまい込んだ理由が分かった。助五郎が万座の中で恥をかかないようにと繁蔵は金を差し換えてくれたのだ。政吉は繁蔵をありがたく思う。このビラを見て国定忠治も機嫌を直したようで、にっこり笑って盃を渡す。
 政吉は繁蔵に深々と頭を下げて礼を言い、他に回るところがあるからと先に花会の場を去る。飯岡に戻った政吉は、助五郎に花会の模様を話す。大変に盛んで、遠くからも各地の大親分が集まっていた。助五郎親分も明日、顔を出したらいかがでしょうかと言う。繁蔵を妬ましく思う助五郎。政吉はひとり酒を手酌で飲みながら繁蔵になにか恩返しをしなければとしみじみ思う。

(この項、「」HPより)

※私事ですが、父親の出は「清水」、母親は「赤城」、叔父は、戦後まもない新宿のテキ屋の親分。かみさんは小見川(笹川の隣町)、「飯岡」は銚子往還で立ち寄ったところ。というわけ。まるで「天保水滸伝」の世界ですな。

諏訪神社前の道。

この道が旧街道です。左手に講談に「花会」の会場として登場する旧旅館「十一屋」の建物があります。

「笹川十一屋」。現在は陶芸のお店になっているようです。

  隣の大きな屋敷。

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JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その2。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-27 15:37:52 | 銚子往還

車両の顔。「澪つくし号」。

※澪標(みおつくし) 通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭。 水深の浅い河口港に設けるもの。 古来、難波のみおつくしが有名。和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられることも。

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」(元良親王「小倉百人一首」)

この電車。マニアの方にはどこで使用されていた車両かはご存じでしょうが、・・・。

終点・外川に向けて走り去る電車。

ホーム。

       「最高だぜ! ちょうし アイドルマスターSideM」。「ありがとう とかわ」。

駅前広場。

駅舎。

         

「犬吠埼灯台」に向かって歩きます。右手の眼下に大海原が広がってきます。

       

                   「銚子グランドホテル」。

高浜虚子句碑。犬吠の 今宵の朧 待つとせん

左手奥に「犬吠埼灯台」。

           

周辺観光案内図。

            

郵便ポストも白色。

上に上るか? いや、海の方に行きたい。

というわけで、99段の階段を上らずにすみました。

解説板。

国産レンガで造られた初の灯台

犬吠埼灯台は、イギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督のもと、文明開化の先駆けとして明治7年(1874年)11月15日に初めて点灯し幾多の歴史を刻むとともに、我が国の発展に貢献してきました。・・・

灯台の左手にある階段を下って、海辺へ。

ゴツゴツした岩に波が砕け散る。その砂浜を行ったり、来たり。

男の子が何か捕まえました。網の中で動く生物? 黒くてグニャグニャ動く。何だかわからないらしい。すると、孫は「ウミウシだ」と返事。生物好きな面目躍如。種類はいくつかあって・・・、と話し出します。じいさんは、黙って見つめるだけ。

主に浅い海の海底に生息し、世界中に分布している。体長は数mmから20-30cm程度。形態は種によって変異に富み、色も青、赤、緑、黄色、ピンクなど、鮮やかな原色系の体色を持つものから地味なものまで様々である。種によって触角は2対から1対で分岐するものや全く欠くものもいる。基本的には貝殻を持たないが、痕跡的な貝殻を持つものもいる。

(この項、「Wikipedia」より)

こうしているうちに昼時になったので、階段を上がって、灯台近くの「なぎさや」さんへ。

ラーメン好きな孫は、チャーシューメンをうまそうにそうに食べます。

このラーメンはおいしい、家の近所のラーメン屋とは違う、また今度来たいな。

ソフトクリームが食べたい、というので、「Seaside Terrace」に。それも満足したようです。

というわけで、次回の約束までさせられて「犬吠駅」に戻りました。

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JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その1。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-26 20:03:03 | 銚子往還

「佐原銚子街道」がまだ完歩していませんが、その前に、一番小さな孫と銚子電鉄で犬吠埼灯台まで。

5月25日(土)。曇りのち晴れ。

           父親のザックだそうで、大きく、重そう。

行きは、特急「しおさい」。帰りは成田線経由で京成電車。半日の慌ただしい旅。

孫も小型のカメラで撮っています。こちらは、それを気にせず、

地域鉄道の鉄道事業経営は時代の流れと共に年々厳しさを増しております。
弊社は幾度とない経営危機を迎えましたが、どんな逆境にもあきらめない想いと、ぬれ煎餅の製造販売に代表されるような、常識にとらわれないチャレンジ精神で、必死に鉄道事業を守り続けてきました。
⇒倒産の危機を救った 奇跡のぬれ煎餅 銚電ストーリーはこちらをクリックしてご覧ください。
⇒奇跡濕仙貝(ぬれ煎餅)物語 也是拯救銚子電鐵從因財務困境而差點倒閉狀況中起死回生的最大功臣,為人津津樂道。

しかし、東日本大震災以来観光客が激減し、それに伴い弊社の乗客数も減少し、いまだ回復の目途がたっておらず、現在また経営危機の真っただ中にいます。
今回、そんな経営状態を打開するために取り組んだのが、「駅名愛称のネーミングライツ」です。
今回のネーミングライツは、単なる駅名愛称の命名権だけでなく、「銚子電鉄の経営再建」「銚子への地域貢献」という熱い想いを持った6社に、銚子の活性化への取り組みを共にチャレンジしていくパートナーとして集って頂きました。私たちにとって、こんなに心強いことはありません。
今後、このネーミングライツ事業の先にあるものは、地域鉄道による地域活性モデルの確立です。
地域鉄道の最大の使命は地域貢献です。
私たちはこの銚子の町に鉄道を存続させるため、そして「この町に銚子電鉄があってよかった♪銚電ありがとう!」と言われる会社になるために、今回のネーミングライツ事業に取り組んでいます。

2015年12月1日より、ネーミングライツによる新駅名愛称の運用が始まりました。

「がんばれ銚子電鉄」 西村京太郎

ここにきて、高齢者の交通事故が問題になって、免許証の返還が話題になっているが、それに比例して、地方の交通手段、特に鉄道の必要性がクローズ・アップされた。こうなると、銚子電鉄は、高齢化社会、過疎社会の重要な切り札になってきたといってもいいだろう。経済的に大変だということも、よくわかるが、銚子の人たちにとっては、必要欠くべからざるものだし、何よりも、地域の人たちの、銚子電鉄への愛情が、素晴しい。いくつもの地方鉄道に乗っているが、お世辞でなく、地元の人たちの愛し方は一番だと思う。だから、第三者の私も乗っていて楽しいのだ。現状維持だけでなく、半島を一周する鉄道になって欲しい。その時には、絶対に初電車に乗りたい。
がんばれ、銚子電鉄!
 
 
・・・
 
 
(この項、「」HPより)

けっこうお客さんが乗っています。途中から団体も。満員電車級です。

「ヤマサ醤油」の工場脇。

「金太郎ホーム」。「観音駅」。

※今歩いている「佐原銚子街道」のゴールが「飯村観音」。その最寄りの下車駅。

「本銚子駅」付近から緑の向こうに利根川河口・銚子港が見えてきます。

 

※「本銚子駅」は、利根川河口から歩き始めたときに下車した駅です。

「髪毛黒生」

「かみのけくろはえ」だそうで、我が頭髪への痛烈な皮肉ですなァ。

本来の駅名は、「笠上黒生(かさがみくろはえ)」。

 

「ぬれ煎餅買ってください。電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」

存続がかかっているというストレートな理由から商品を買って欲しいというその文章は、当時の電子掲示板や個人ブロガーの間で話題となり、結果的にマスコミへのPRとなったことで支援のための注文が全国から殺到しました。注文をさばききれず、一時は受付を止めなければいけなくなるほど。この売上によって修理代の費用が工面でき無事に保安検査をパス、銚電は存続することができました。
このエピソードは有名で色々なところで語られていますが、この銚電のぬれ煎餅の生みの親でもある当時の専務取締役 綿谷岩雄さんはまさに銚電を救った張本人だと竹本講師は言います。

ぬれ煎餅など物販事業を進めたのは当時経理課長だった綿谷さんで、銚電を失くしたくないという一心からとにかく利益になることは何でもやろうという姿勢でした。
横領事件発生後は代表権の無い専務として走り回り、ダメ元で飛び込んだ公庫から融資の話を得ることができました。ただ、条件として交代した当時の社長の自宅を担保にするなら貸すというもの。ところが当時のその社長の自宅が借家であったため、専務の綿谷さんの自宅を担保にすることにしました。
専務取締役といっても代表権の無い綿谷さんにとって何の保証もないその決断は、銚電を愛するが故のものであり、銚電の救い主だと今でも感謝していると竹本講師は言います。綿谷さんは昭和23年に入社して銚電一筋70年、4年前に88歳の生涯を閉じられたということです。

この項「―銚子電鉄代表取締役 竹本勝紀さんをお招きしお話を伺いました―「日創研東京経営研究会」HPより)

※銚子電鉄「海鹿島駅」は関東最東端の鉄道駅。駅舎の前には「関東最東端の海鹿島駅」と書かれた碑が建っている。

沿線に田園地帯が広がってきます。

              キャベツ(見事におおきくなった)、トウモロコシ(まだ苗)・・・。

何を植えるのでしょうか?

               

「君ヶ浜」。

           

終点「外川」の一つ手前「犬吠」で下車。

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