おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その7。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-20 18:33:04 | 歴史遺産

「←栃木県栃木市→群馬県板倉町」。

谷中湖(旧谷中村)展望台。

              △印は、洪水時の水位。

強風に煽られながら、上がってみます。南西方向。

南東方向。

     北東方向。遠くに「谷中湖北水門」。

   北西方向。

再び「←群馬県板倉町→栃木県栃木市」。

         この付近は、旧渡良瀬川流路に沿って県境が入り乱れています。

「谷中湖」と離れ、「思い出橋」から東武線「板倉東洋大前」駅に向かいます。

「思い出橋」。

            

振り返る。

           

「わたらせ自然館」。

渡良瀬遊水地のインフォメーションセンター。大谷石造りの米蔵を改築利用して、緑道に続く渡良瀬遊水地の入り口に開設しました。東京ドーム700倍の面積に660種以上の植物を抱える広大な渡良瀬遊水地には、年間8万人もの人々が訪れます。その遊水地を立体模型や植物のジオラマ展示などで紹介しています。

「板倉東洋大前」駅。

                           しゃれた駅舎。

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渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その6。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-19 18:43:40 | 歴史遺産

解説板。

              

拡大してより詳しく、

             「谷中村の移り変わり」。

《左》渡良瀬遊水池      《右》史跡保全ゾーン周辺図

はるか遠くに筑波山。

屋敷と背後に田畑が広がっていたようす。

盛り土(「水塚」? )。

その上にかつての屋敷跡。

                

湖の方へ戻ります。

            

「体験活動 センターわたらせ」。

「体験活動センターわたらせ」では、渡良瀬遊水地の利活用及び湿地環境等に関する情報提供、資料の公開、展示や渡良瀬遊水地の環境を生かした体験・環境学習などの支援を行っています。

谷中湖。

湖面にウインドサーファーの姿が。

強風の下、けっこうスピードがあります。

             

右手には「子供広場ゾーン」。

「水辺ゾーン」。

                

「←群馬県板倉町 栃木県栃木市→」。

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渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その4。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-17 18:38:36 | 歴史遺産

一面ヨシの原。

             

谷中湖。

小高い丘、森が点在。

    旧谷中村の一部があった付近。

湖面一帯にも集落がありました。

谷中村の歴史

渡良瀬川巴波川思川の合流地点付近にあった。村の北は赤麻村で、間には赤麻沼・赤渋沼・石川沼・前原沼があった。西は旧上野国群馬県)海老瀬地区で、大正7年(1918年)に藤岡台地を開削・通水する以前は、渡良瀬川が「七曲がり」と呼ばれ屈曲して境を流れていた。これは現在も栃木・群馬県境の形として引き継がれている。

室町時代からこの地は肥沃な農地として知られていた。江戸時代には主に古河藩が開拓を行った。当時から洪水が頻発していたため、古河藩はこの地の年貢を大幅に減免する措置をとった。しかし、洪水がない年の収穫は非常に大きく、1年収穫があれば7年は食べられるとも言われたほどだったという。

1888年に全国で市町村制度改定があり、内野、恵下野、下宮の3村が合併して谷中村が成立。

主な産業は稲作を中心とする農業で、レンガ工場もあった。赤麻沼などで漁業も行われていた。詳しい記録は残っていないが、元村民の島田宗三によれば面積13平方キロメートル、人口2700人、戸数450戸。

足尾鉱毒事件

明治中期以降は、渡良瀬川が氾濫するたびに板倉町などとともに足尾鉱毒の被害を受けるようになり、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。

1902年(明治35)、政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更になる。

1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移住した。

1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨のたびに洪水となった。同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。このとき、谷中村遺跡を守る会によれば、人口2500人、戸数387戸。面積1000町歩。

鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。

末期には鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。このため、最後の村長は下都賀郡の書記官である鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。

栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく強制的に廃校になった(残りの1つは藤岡町立となり、1913年3月末まで存続)。4月15日、谷中村会は藤岡町への編入合併案を否決。5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。この時点での人口は島田の推計で1000人、戸数140戸。しかし、一部の村民は村に住み続けた。

1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)などの親類宅に身を寄せた。この年、島田による推計で村の人口400人、戸数70戸。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかしこの16戸(田中正造も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。

1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。

1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。

1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年には買収額を5割増しとする判決が出たが、村民達には既に裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。

1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。

1917年(大正6)2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。

2022年10月31日現在、旧谷中村の大字に当たる栃木市藤岡町下宮と同市藤岡町内野に若干名が住み、かつての藤岡町恵下野は無住となっている。栃木市藤岡地域内に旧谷中村合同慰霊碑が、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡・雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能である。

《村民の主な移転先》

大字ごとに傾向が分かれ、下宮からは茨城県古河市、内野からは藤岡町、恵下野からは野木町への移転数が最多であった。全体での移転先は多い順に下記の通り。

(この項、「Wikipedia」より)

※以下「下野新聞」《アカガネのこえ ―足尾銅山閉山50年》より

志鳥谷中-。那須烏山市志鳥の山あいの地も移住先の一つだ。「山で地力がないから、いい作物は採れなかった」。子孫の亀田東一(かめだとういち)さん(82)は、苦労を重ねた先祖に思いをはせる。

 志鳥がある下江川村(現那須烏山市)へは県のあっせんで18戸が入植した。谷中村が強制廃村となる前年の05(明治38)年。亀田さんの曽祖父の時代だった。

 農閑期は村の経験を生かして菅笠(すげがさ)作りで生計を立てた。その後のタバコと養蚕は一時期、この地を一大産地にした。痩せ地の原野は変貌した。

 亀田さんは打ち明ける。「昔は『谷中』を口にしなかった。かつて、ばかにされるように使われた言葉だから」。年を重ね、そんな意識は自然と消えた。

 現在の志鳥谷中は田畑が連なる中、民家が点在する。

・・・

ヨシ原の奥にお墓がいくつか見えます。

小道をたどって近づきます。

                 

点在するお墓。

   

            

解説板。

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渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その3。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-16 18:37:42 | 歴史遺産

「谷中湖」を横断する中央橋を歩きます。

「西橋」。日光連山。

「渡良瀬貯水池」。

               左右に水面が広がります。

橋の方向を振り返る。

                   中央奥は、「谷田川第一排水機場」。

快晴ですが、強風にあおれる。樹木もこんなようす。

「中の島」。そのまま東に進みます。

  「イノシシ出没注意」の看板。

・近づかない ・刺激しない ・出会ったら静かに離れましょう ・うり坊の側には親が必ずいます

イノシシの子ども時代をうり坊と呼びます。たまらなく愛嬌があり可愛らしい姿なので、キャラクターなどでも使用されることがありますし、ぬいぐるみでもよく見かけますよね。

地方、地域などによっては、うり坊のことを「うりっこ」「うりんこ」などとも呼んでいます。いずれの呼び方もかわいらしい響きです。

「うり坊」と「イノシシ」、同じ動物なのに全く呼び名が違うのは不思議ですよね。イノシシの子どもは、なぜ「うり坊」と呼ばれるのでしょうか?

その理由は、うり坊の体の縞(しま)模様にあります。縞々模様が「縞瓜」によく似ていることから、「うり坊」と呼ばれるようになりました。うり坊を上からみたときの体型も、瓜を連想させます。

この縞々は、外的から身を守るための保護色。イノシシの子どもが生まれる春頃、森の木洩れ日の下で背景に溶け込みやすい柄です。大人になると模様は完全に消え、全身くすんだ黒や茶色の毛になります。

野生下だと子どものころは敵が多く、一度に3~5頭ほど生まれても1年生き残ることができるのはその半分ほどといわれています。

うり坊と呼ばれる期間は、だいたい生まれてから4カ月ほど。授乳期が終わるころには、可愛いうり坊も大人のイノシシの姿になります。

半年もたつと模様が消え、見た目は立派なイノシシです。しかし、完全に大人というわけではなく、子どもが作れるようになるまでには1年半ほど、完全に成獣になるまでには5年ほどかかります。

ちなみに、うり坊時代の体重は、ほぼ子犬と同じぐらい。だいたい5kg前後ですが、イノシシになると、70kg以上にまで成長します。個体によっては100kgを超えることもあるのだとか。大きな体ですが、走ったりジャンプしたりするのも得意と意外と身軽です。

とても可愛らしい姿のうり坊ですが、大きくなると迫力ある姿に成長します。あの姿は、小さな間の数カ月間しかみることのできないからこそ、より愛おしく感じるのかもしれませんね。

(この項、「Chiik!」HPより)

※この後、旧谷中村跡で出くわします。

      

「東橋」。

         日光連山。 

遠くに見えるのは赤城山。 

          

右手の湖面(南ブロック)。

     対岸は「越流堤」。

            洪水時には越流堤より調節池内へ水が流れ込み下流に流れる水の量を減らす。 

来た道を振り返る。

東端の案内図。湖の中央を西から東に渡ったわけです。 

「東谷中橋」付近。  

一面、ヨシの原。

                右手奥に現在の渡良瀬川が流れている。  

この先、谷中湖の東側に沿って、北上します。        

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渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その2。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-15 13:37:17 | 歴史遺産

「下宮橋グラウンド」。

「旧谷中村・谷中湖 (渡良瀬貯水池)」案内板。湖のハート型になっています。

この付近の今昔(「歴史的農業環境閲覧システム」」より)

                            現在のようす。県境(破線)はかつての渡良瀬川の流路。

                            1880年代のようす。かつての渡良瀬川は激しく蛇行する。                            

「下宮橋」。板倉川に架かる。

     

                 

橋を渡り、土手に上がると、眼前に大きな「谷中湖」が。

                               「道と川百選 渡良瀬遊水池」。                              

             

谷中湖は、洪水調節・水道用水の安定供給等を目的に第1調節池内に建設された貯水池の通称です。
その規模は、面積約4.5平方キロメートル、総貯水容量2,640万立方メートルで、平成2年度よりダムとしての利用を開始しました。
また、周辺を含めた広大な空間は、スポーツやレクリエーションの場として親しまれており、現在までに約百万人の人々が訪れています。

(この項、「」HPより)

※「谷中湖」は、渡良瀬遊水池の中で、唯一、常時水を貯めている。湖の北東部は、葦が生い茂る遊水池などになっている。

台風・豪雨で大量に水量が増えると、一帯が水没します。

中央の「谷中湖」だけでなく、北東、下流一帯が水没している。

             

渡良瀬川に思川巴波川の2つの川が合流する地点である渡良瀬川下流部一帯にはかつて、赤麻沼・石川沼・赤渋沼・前原沼、さらに板倉沼などがあった。そのような、地形的には周辺より一段と低く洪水が自然に遊水する大湿地帯が堤防によって囲われ、遊水池となっている。

足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく、洪水防止が目的とされたが、1903年の大日本帝国政府の第二次鉱毒調査委員会が、足尾銅山の渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。

法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年以上経って鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2020年現在も銅などの重金属が多く含まれている。

面積は約3300haで羽田空港の2倍以上の広さがある。ゴルフ場が造成されている場所があったり、ごく一部に旧建設省の許可を得て圃場が行われた場所があったりするが、建物はなく、若干の道路と橋のみがある。

内部に第1調節池、第2調節池、第3調節池がある。渡良瀬川の西側が第1調節池である。第2調節池は巴波川の東で、第3調節池は渡良瀬川と巴波川の北側である。第1調節池はかつてお化け沼と呼ばれ、釣り人に親しまれたが、その後の造成により南側の一部がコンクリート張りの谷中湖になった。谷中湖を除く第1調節池の大部分と、第2・第3調節池は、増水時のみ貯水する構造で、平時から池としての実態があるのは、谷中湖のみである。

(この項、「Wikipedia」より)

   

                                          (「今昔マップ」より)

 「谷中村」は廃村になり、住宅や田畑は、すべて遊水池となった。

1970(昭和45)年、谷中湖造成の際に旧谷中村はほぼ水没、せめて共同墓地と延命院跡のある丘を守ろうと、水野勝作・大野明之進など共同墓地ゆかりの人々が、墓石を撤去しようとするブルドーザーを身を挺して止めさせました。これを機に岩崎正三郎を会長とする旧谷中村の遺跡を守る会が、建設省利根川上流工事事務所と交渉を重ね、署名運動を行ない、世論の後押しもあって、設計を変更させたそうです。そのためからくも遺跡は守られ、谷中湖はハート型にくぼむことになった。(この項、「散歩の変人」HPより)

※1 人の住まなくなった旧谷中村の跡地に土砂が堆積して葦(ヨシ)が自生するようになり、現在では遊水地の総面積の約半分(1,500ha)にヨシ原が広がっている。ヨシは、ヨシズなどの地場産業に利用されてきた。冬の間にヨシを刈り取ったのち、3月下旬に「ヨシ焼き」が行われる。

※2 旧谷中村の中心部は、「谷中村史跡保全ゾーン」として、水塚(みづか・みつか)や史跡(役場跡・雷電神社跡・延命院跡・谷中墓地等)が保全されている。

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