おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-31 13:30:36 | 房総東往還

阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬 関東工場」。

「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。

右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。

この道をたどってみます。

沢井製薬。

しばらく直線の道。

広い道にぶつかります。

この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。

阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。

ここでおさらい。(「」HPより拝借)

三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。 1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。

1957年(昭和32年)旧海軍茂原航空基地跡が東洋高圧工業茂原工場になり旧国鉄との専用線が西方ルートの現在の外房線経塚高架橋の先、上り方向東へ分岐する専用線が新しく設けられた。(※茂原駅東口から歩いた遊歩道がこれに当たる.

1968年(昭和48年)10月に東洋高圧工業は合併により三井東圧化学となった。房総東線(現在の外房線)の貨物列車は土気-大網間は勾配がきつく急勾配の土気-大網間を避けるために貨物列車が、大網-成東-佐倉と東金線、総武本線へと迂回していた。

1972年(昭和47)の大網駅のスイッチバック解消以後も短絡線が残され貨物の多くは三井東圧の専用線を発着していた。1972年に房総東線が電化され外房線となり、茂原市内の外房線の高架化の計画により、茂原駅の客貨分離が決定された。

1986年(昭和61年)に本納~新茂原間に新茂原貨物駅が開設され、同時に三井東圧専用線の旧国鉄との接続は北方ルートとなる。新茂原貨物駅の発着線南端から外房線に並行して南下した後、1つ目の陸橋をくぐるあたりで東にカーブし、阿久川の東岸沿いに三井東圧化学へと至る専用線が新しく敷設された。(※これが今回のコース。

三井東圧化学は1997年(平成9年)10月1日三井石油化学と合併し三井化学となる。

1996年3月16日貨物列車の設定及び専用線発着コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱を廃止。同時に三井東圧化学専用線が廃止。1997年(平成9年)3月 新茂原駅での貨物取扱廃止に伴い、大網駅短絡線を廃止した。

右手の草むらがかつての貨物線跡。右は沢井製薬。

直線の草むらが続く。

振り返る。

右手のさびた鉄柵がかつての線路エリアであったことを偲ばせる。

         

阿久川の対岸。

            左右には、のどかな田園風景が広がる。

ちょっと足を踏み入れてみましたが、歩けるような状態ではありません。

バラスト(砂利)が残されているようなところも。

※線路の砂利は、バラスト(ballast)と呼ばれるもの。 線路や道路に敷く小石や砂のことで、略してバラスとも言います。 これには、レール・まくらぎへの荷重を受けるクッションの役割があります。 列車の走行を安定させると同時に、砂利と砂利との隙間が音を吸収し、線路周辺の建物などに伝わる振動を軽減させます。

東海道新幹線やJR在来線、中部地方の私鉄などにバラストを供給している会社に聞いた。まず、岩盤にダイナマイトを仕掛けて、大きな塊の岩を取り出す。ダイナマイトといっても「ドッカーン!」と爆発させるわけではなく、「ポン!」という感じで、岩盤にひび割れを作る程度だという。切り出した岩をショベルですくい上げてダンプカーに乗せ、山の麓の砕石プラントへ運ぶ。

プラントで機械を使って岩を砕いていく。ただし、初めからバラスト用に砕くというわけではない。砕いていくうちに、さまざまな形の砕石ができる。その中から鉄道用に適したバラストを選別して貯めておき、鉄道事業者の要請を受けて必要な量を納入する。ざっくりと説明すると、このような流れになっているそうだ。

鉄道用に適したバラストは拳骨のような形をしており、細長い石や扁平な石は不可。大きさは60mm~20mmで、適度な硬さが必要。石の種類としては安山岩や玄武岩などの火山岩で、火山帯が広く分布する日本ではどこの山にでもある石といえる。ただし、組成によって密度が違うため、上質な岩盤を見極める必要がある。

(この項、「マイナビニュース・鉄道トリビア」より) 

 

 

 

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JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-30 13:57:02 | 房総東往還

「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。

また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。

そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。

12月28日。曇り。北風寒し。

茂原駅。

高架線の下が遊歩道になっています。

ただ、この道が貨物線の廃線跡そのものではなさそうですが。

    振り返る。

 ↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)

※○が本線との合流地点と思われます。

「房総東往還」道を渡ります。

                    正面の道が「農総東往還」。

「高師」交差点。

大きく右にカーブします。

右奥に「県立長生高校」。

             「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。

「信号」と刻まれた標石。

茂原駅からの高架線が下がってきます。

              「萩の台踏切」(茂原駅方向を望む)。

この付近から遊歩道は右にカーブします。この付近が引き込み線(貨物線)と本線の合流地点?

         

               左手には大きなマンション。

来た道を振り返る。

本線との間にある小公園。

          空き地。

「萩原交通公園」。

この遊歩道は、昔の貨物列車の旧引き込み線路を利用したもので、茂原駅の高架下から上林地区の阿久川まで続いています。木陰の続く散歩道で、ジョギングコースとして親しまれているほか、市民や学生などの通勤、通学路として日々利用されています。萩原公園は、交通公園とも呼ばれ、体験型公園として自転車の練習や一般道路の交通を安全に疑似体験でき、本物の機関車が展示されるなど小さな子ども達が安心して遊べる公園として夏休みなどは多くの方に利用され、また、緑豊かな住民の憩いの場としても親しまれています。  

※案内図の→が、「房総東往還」。  

この先を歩きます。

「房総東往還」道と交差します。茂原駅方向。

                    新茂原駅方向。

阿久川に出ます。

             対岸には「三井東圧・現三井化学」。かつての「茂原海軍航空基地」の跡地。

この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍航空基地の中心。東西にかなり広がっています。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。             (「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。

阿久川。

引き込み線は工場内に向かい、廃線跡としてたどれるのは、ここまでのようです。

「関東天然ガス」の標識。

続いて、阿久川沿いに進み、もう一つの廃線跡を探ります。

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JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

2023-12-29 18:56:22 | 房総東往還

海岸に向かいます。観光案内図。

御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。

当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。

「御宿町営ウォーターパーク」。

「清水川」河口。

「月の沙漠記念公園」へ。

童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像

月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。

御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。

ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。

このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられました。初代の像は、姉妹都市の長野県野沢温泉村に寄贈されています。

(この項、「」HPより)

           

晴天ですが、風が強く、歩いている人もいません。工事現場の方のみ。

     

              

           

               

月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品の1つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名になった。「朧(おぼろ)にけぶる月の夜」の「沙漠」を、「駱駝」(らくだ)に乗った「王子様」と「お姫様」が旅していく情景を描写した作品である。

概要

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、大日本雄弁会講談社(現講談社)発行の雑誌『少女倶楽部』(しょうじょくらぶ)1923年大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として『青い鳥楽譜』と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。

上記の経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年ラジオ放送されたことから評判となり、1932年柳井はるみの歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている

作詩の経緯

加藤は1965年(昭和40年)、朝日新聞記者本多勝一のインタビューに答えて、作詩の経緯について、「動機って、ただ少女倶楽部から『何でもいいから』と注文されただけですよ。ぼくは沙漠どころか、外国へはどこも出たことはないけれど、沙漠にはなんとなくあこがれがありましてね。沙漠の歌でもって気になったんです」と語っている。念頭に置かれていたのはアラビアの情景だったという。ただし、初出時に加藤自身が描いた挿画では、ラクダはアラビアのヒトコブラクダではなく、中央アジアのフタコブラクダになっていた。後年に加藤が描いた絵では、ヒトコブラクダに修正されている

「沙」の字について[この詩は異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「漠」と誤記されるが、題名、詩文中ともに一貫して「」の字が用いられている。この字が用いられる理由として

  • 「沙」には「すなはま」の意味がある。
  • 学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。
  • 海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「漠」ではなく「漠」としている。

というものが良く知られている

モチーフとなった場所

「月の沙漠」のモチーフとなった砂浜については、以下の2説がある

千葉県夷隅郡御宿町御宿海岸
加藤は1923年(大正12年)に関東大震災が起こるまでの数年間、毎年夏、結核の療養のために御宿海岸を訪れていた
静岡県焼津市(旧大井川町)の吉永海岸説
加藤の出生地である西益津村(現・藤枝市)に近く、加藤が少年時代によく遊んでいたといわれる(藤枝市自体は海に面していない)。加藤まさをの長男で写真家の嶺夫は、「生まれ故郷は静岡県の藤枝市。海にも近く、よく浜辺に行って泳いだそうです。その記憶がヒントになった、と親類に話しており、私もそう信じているんです」と証言している

このほか鳥取砂丘や、伊豆大島三原山なども候補に挙げられたことがあるという

加藤まさを自身は、1969年(昭和44年)に御宿町が御宿海岸に「月の沙漠記念像」を建てたころから、御宿海岸がモチーフだと公言するようになり、1976年(昭和51年)5月には自らも御宿町に移住し、翌1977年に同地で死去している。加藤は「月の沙漠は御宿の砂丘」という揮毫も書き残している。一方で加藤嶺夫は、「『月の沙漠』に関しても、特定の場所などを描いたりはしていないといっていいだろう」とし、御宿海岸説は御宿町による観光宣伝だと主張している。嶺夫は、「二十年ほど前のことだったと思うが、まさをの生まれ故郷の静岡県藤枝市に在住の方が、その件について本人に質したところ、「せっかく観光のメダマにしてくれているのに反対するほどのこともないでしょ」と笑いながら答えたという」と記している。童謡研究家の上田信道は、この加藤嶺夫の証言を紹介した上で、「結局のところ、「月の沙漠」のモデルの地については、この唄の聴き手の判断に任せるしかないでしょう」とコメントしている。

(この項、「Wikipedia」より)

1 月の沙漠をはるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました

2 金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕はそれぞれに
紐で結んでありました

3 さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人はおそろいの
白い上衣を着てました

4 広い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えてゆきました
黙って越えてゆきました

加藤まさを」レリーフ。

帰りの列車の時間が近づいたので、駅に向かいます。

清水川の対岸。

「ロペス通り」。

                 

御宿駅。

駅前は意外に質素。

市街地を望む。

次回は勝浦からその先まで。ただ、トンネルが続くのでちょっと逡巡。

※旧道は途中からは廃道同然になるようなので、国道を歩くしかなさそう。

さて、どうするか? 

勝浦まで電車で行ってしまおうか。

 

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JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

2023-12-28 18:41:37 | 房総東往還

風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。

             

房総らしい屋根のおうち。

この建物は? モルタル2階建て。

どんな商いをしていた建物なのか? 

今は廃業中。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。

         

「御宿小学校」正門前を左折。

             

                    

この三叉路を右に。

「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。

※「ロペス通り」の由来は、後で。

「ロペス通り」。海岸方面を望む。

この細道が旧道にあたる。

「御宿駅」方向を望む。

「清水川」に突き当たります。

旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。

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JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

2023-12-27 18:35:21 | 房総東往還

しばらく「国道128号」を進みます。

                  振り返ると、「Welcome toISUMI」。この先、御宿町に入ることに。

       

洒落たスープカリーのお店。

この先で、国道から右に分かれて進む。

       

国道は一直線で御宿の町へ。

来た道を振り返る。

外房線の踏切を越えます。

「第二房総街道踏切」。

                

しばらく線路沿いに進みます。

山道を行く雰囲気。 

舗装されていますが、車が来たら大変! しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。

切通しの道が続く。

前方が開け、やっと広い道に。

来た道を振り返る。

「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。

外房線を越える。

左手上に「WANぱく館」(廃業)。

山道(?)を振り返る。

国道128号に合流、御宿町に入ります。

            「WELCOME TO ONJUKU」。

        街路樹が南国的な雰囲気。

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