おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その5。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

2023-10-18 18:35:23 | 公害

雷電神社の先は、整地され、一面、広々としたところに。

散策路があるようですが。

雷電橋。

       

             

      この一帯には、家屋や田畑、屋敷林などもあり、人々の暮らしがありました。今は、すっかりアシなどの原に。

木々が生い茂る小道。

至る所に「イノシシ出没注意」の看板があります。年寄りにはちょっと・・・、引き返すことに。

    

墓地のところまで戻ります。ススキの群れ。

湖沿いの道を再び歩きます。

                湖面に小島が見えます。

                 

芝生の広場に出ます。

          右手一帯が、「谷中村史跡ゾーン」。

屋敷跡の杭が設置されています。落合幸蔵屋敷跡。

橋を渡り、向う側に行こうとしましたが、

イノシシの親子が対岸に。

               しきりに食べ物を探しているようです。木の実でもあるのか。

しばらく眺めていると、

  走って左奥の藪の中に消えていきました。途中、じゃれあったりして、まさに自然体です。

イノシシたちが消えていく後ろをゆっくり進みます。

         

             村役場跡。

                      大野孫右衛門屋敷跡。

村役場同様、洪水に備えるためか小高い丘(水塚)に家屋を建てたようだ。今は土台の一つも残っておらずヨシが茂っているだけ。

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足尾銅山跡を訪ねる。その8。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-12 18:37:09 | 公害

高山社宅が並ぶ高原木。

川向こうの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守・山城守の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14ヶ村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉を治めてから開かれたといわれている。慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行われるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵の祖父信景(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(農政学者)は信淵を伴って天明4年(1784)来山したが、信季の客死に遇い実現できなかった。明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場になり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ごろ銅山社宅が建ち賑わったが、昭和21年(1946)から徐々に撤収され2~3年後に無人となった。

足尾砂防堰堤(砂防ダム)。

        

               対岸には「銅(あかがね)親水公園」。

足尾砂防堰堤(ダム)

足尾銅山付近の山地は、銅山の煙害などによりはげ山と化した山容は荒廃の極まりになりました。この岩肌の露出した山腹から崩れ落ちる砂礫は谷を埋め、洪水のたびに下流に押し流されていきました。この被害を防止するため、足尾ダムは、昭和 2年(1927)蒲孚技師が検討した渡良瀬川全川の砂防計画の中で計画されましたが、具体化には至りませんでした。
 昭和22年(1947) 9月のカスリーン台風、昭和23年(1948) 9月のアイオン台風による連年の災害発生によって、ダム建設の必要性が再認識され、足尾山地で最も荒廃の著しい渡良瀬川上流の渡良瀬川(旧名松木川)・仁田元川・久蔵川の3川合流点の喉元にあたる地点に計画されました。


 工事は昭和25年度(1950)から昭和52年度(1977)まで3次に分けて実施しました。その計画貯砂量500万㎥はわが国第二の大規模なもので、下流河道へ流出する土砂量を調節軽減する効果の大きさはいうまでもなく、ダム上流域の渓岸斜面の崩落防止、ひいては山腹植生の回復を促進するなどの総合的な役割を果たしています。
 現在、ダムサイトには緑とうるおいを取り戻そうと、植林活動や、治山治水が学習できる銅(あかかね)親水公園が整備されています。

よみがえれ、鉱毒で荒れ果てた足尾の緑

                    眼下に「足尾ダム」。
 市民ボランティアグループ「足尾に緑を育てる会」は、足尾銅山の鉱毒による煙害で、“はげ山”になってしまった足尾の山に緑を戻す活動を繰り広げています。
 同会の植樹活動は、平成8年(1996)から毎年行なわれており、今年(平成13年)で6回目になります。
 写真は、大畑沢「緑の砂防ゾーン」で、足尾ダムを眼下に緑を取り戻そうと、荒廃した山肌に苗木を植える参加者達。
    「渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル
(農漁民と共に闘った田中正造の明治天皇への直訴状より)

(この項、「」HPより)

着実に緑の木々が生長しています。

「銅(あかがね)橋」。

                

「足尾砂防ダム」。

              ニホンカモシカの壁画。

        「足尾の治山・治水事業」解説板。

「渡良瀬川源流の碑」。

眼前の河原。

                 増水時には水没してしまう。

          

                上流に架かる橋は、工業用水を送る「仁田元沢水管橋」。

ここから上は、関係者以外進入禁止

下流方向を望む。

ここから来た道を戻ります。

          

                        中央に大煙突。

水管橋。周囲には、かつてよりも緑が多くなっています。

    

足尾の山々を振り返る。

掲示板。

この付近でクマが出没しています。早朝や夕方は活発に行動しますので、特に注意してください。日光市

ここのバス停から乗車します。

          赤尾~間藤駅~東武日光駅

「足尾銅山労働組合」事務所。

足尾銅山閉山50年、元労働者が記録映画鑑賞

中野渉

 小口は鉱毒事件を題材とした版画集「野に叫ぶ人々」「鉱毒に追われて」「盤圧に耐えて」の3部作を手掛け、企画展では全160点が展示された。

 「盤圧に耐えて」(76年)は、日本の労働運動の先駆けとなった銅山労働者の闘いをテーマにした80点。過酷な労働実態や労働運動、閉山に至るまでの盛衰の歴史と人々の暮らしが描かれている。映画はこの作品を元に、ナレーションを加えて構成している。

 会場には、元銅山労働者で不当解雇の撤回闘争に携わった斉藤惇さん(94)、上岡健司さん(90)、赤塚俊一さん(90)の日光市足尾地区在住の3人の姿があった。

 66年、労働者25人は、銅山を経営する古河鉱業(現・古河機械金属)側から指名解雇を通告された。大半が労働組合の中堅幹部。勧告は組合活動を理由としたもので、全員が解雇を拒否した。7人が不当解雇だとして裁判闘争をし、70年に宇都宮地裁で勝利判決を得た。

 裁判は東京高裁で続いたが、古河は銅山を73年2月28日に閉山、高裁の職権で和解をあっせんし、幕を閉じた。7人は結局、職場復帰することはなかった。

 斉藤さんも上岡さんも、解雇を命じられて鉱山に入れなくなった後、町議に転じた。

 斉藤さんは「映画では労働者が酷使されていた状況がよく分かる。私たちは意思統一をして闘い、労働者の権利を守ることができた」と振り返った。上岡さんは、版画を制作した小口さんについて「何回も家に来て話を聞いてくれた」と話した。

 足尾は最盛期の16(大正5)年には県内で宇都宮市に次ぐ人口3万8千人以上を誇ったが、現在は1500人程度にまで減っている。中野渉

足尾銅山盆踊り 直利音頭 発祥の広場

この広場で、大正13年(1924)赤倉町務会が「八木節」を始めたことがきっかけであろうか。時に足尾銅山労働大争議(大正8・10年)で荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、本山坑勤務の畑中清(舟石出身)・堺正高(フランキー堺の父)等が、銅山に相応しい盆踊り唄を作ろうと、同年から毎年歌詞を募集し当選歌を社内報で発表した。お囃子、振付けも創作され、昭和2年(1927)頃に「直利音頭」に変えて踊るようになり、足尾の盆踊りとして定着し全山で盛大に行われた。しかし、この広場での盆踊りは平成8年(1996)を最後に思い出を残して幕を閉じた。

※直利(なおり):銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈。

♪ハア―花の渡良瀬(アーヨーイヨイと)青葉の小滝 サー月の眺めは チョイトサ備前楯(ハ スッチョイ スッチョイスッチョイナ)

天の岩戸も踊りで開く 銅山(やま)の直利も 踊りゃ出る

山は三角、やぐらは四角 踊れ兄弟 まんまるく

わだしゃ足尾の 坑夫の女房 坑内(しま)を恐がる 子ば産まぬ

銅山の友子の どこ見てほれた 腕と度胸と 直利歌

運と鈍とで 開いた足尾 根で張り切りゃ 大直利

                                           日光市

 

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足尾銅山跡を訪ねる。その7。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-11 18:37:57 | 公害

上流へ向かう。

             秋の訪れを感じる渓谷。中央に巨大な煙突。

振り返る。

              「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。

奥に、「硫酸タンク」跡。

足尾銅山本山製錬所大煙突。

痛々しい岩肌。

               

銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。

社宅が並んでいた地域。

「足尾銅山社宅愛宕下」。

江戸時代の愛宕下は赤倉村字「牧詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っ原となっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人達の飯場が建てられたが、工事が終わると除去された。次いで同40年代になると対岸の精錬所の社宅14棟(1棟7戸建」が建ち、「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1956)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾精錬設立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ「つわものどもの夢の跡」となりつつある。

                                       (「今昔マップ」より)

煉瓦造りの障壁。背後の山には、木々が育っています。

跡地に、サクラの木。  

          

かつてのはげ山が、芝草のような緑に。

かつての、すっかり荒廃したイメージから、大きく変化していました。       

そこには、官民一体となっての粘り強い、地道な緑化・植樹運動、実施があります。

特に、NPO法人 「足尾に緑を育てる会」


足尾に緑を取り戻そう 

銅山の隆盛と公害

足尾銅山は、本格的に採掘が開始したのが1610年といわれており、江戸幕府直轄の鉱山として大いに栄えましたが、江戸時代末期には銅の産出量は落ち込んでいました。明治維新後、経営者が代わり、産銅量は飛躍的に増えました。1885年には全国産銅量の4割に迫るほどとなり主要銅山の地位を不動のものとし、日本の産業発展に貢献しました。しかし、この銅山の隆盛は、同時に大規模な環境破壊をもたらしました。鉱毒による渡良瀬川流域一帯への被害と、足尾銅山周辺の煙害が、のちに「公害の原点」として世に知られるのです。足尾の山々は、2,400haとも3,000haともいわれる地域が荒廃しました。

渡良瀬川の源流に位置する足尾町松木地区は、足尾銅山の煙害等により荒廃し、国や県などの関係機関による復旧事業が約100年前から続けられてきました。その間、さまざまな困難がありましたが、現在までに荒廃地の半分ほどが緑化されたといわれています。

こうしたなかで、渡良瀬川上流と下流の市民活動グループが集まり、19965月、足尾の山に緑を取り戻そうと、「足尾に緑を育てる会」を結成し、松木地区で植樹活動を開始しました。毎年、春の植樹デーを開催、参加者は年を追うごとに増え、近年は2,000人ほどの人たちが集まるようになりました。また、児童・生徒による体験植樹や、各種団体の緑化活動も活発となり、現在社会における環境問題への関心の高さがうかがえます。

私たちの会は、荒廃した足尾の山の緑化活動を軸に、足尾町の活性化に寄与し、渡良瀬川に清流を取り戻そうとするものです。ひとたび破壊された自然の回復には、じつに長い年月を必要とします。そのためには、多くの人たちによる地道で息の長い活動が必要となります。ぜひ、あなたも私たちの活動に加わってください。

 

(この項、「」HPより)

※以前、関わっていた高校生達がボランティア活動の一環として体験学習を行ったことがあります。

その時植林した木々は今、どうなっているのでしょうか? 彼らの熱意によって、立派に生長していると思います。

       正面奥に「足尾松木川渡瀬源流砂防ダム」が見えます。左手には「銅親水公園」。

          

      

「道と川百選」。3川合流地点の渡良瀬川。

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