おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その3。満開のツツジ。両岸にある「等々力」。世田谷区から大田区に。多摩川台公園。

2023-05-07 18:36:54 | 都県境を探る

沿道に満開のツツジ。                

     「等々力排水樋管」。

「等々力」という地名は、対岸の川崎市にもあります。

当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている

江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている

明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された

・・・江戸時代に「等々力」の字が当てられた

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。○が飛び地だったところ。

余談ですが、「田園調布駅」を中心に同心円状に住宅地が広がり、都内有数の高級住宅地となっています。

田園調布は、1918年大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた「理想的な住宅地『田園都市』の開発」を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲開始した地域である。田園都市株式会社は東急電鉄東急不動産の始祖にあたる会社である。(「Wikipedia」より)

                      1880年代のようす。

大きな広場が続きます。

多摩川緑地広場。

         遠くに武蔵小杉のタワーマンション群。

東京都市大学グラウンド。

     テニスコート。

         

この先で、世田谷区から大田区に入ります。

けっこう長く「世田谷区」区域を歩きました。

振り返る。

上沼部排水樋管。

河口まで大田区になります。

                   

東急線、丸子橋が遠くに。

               

左手に森が迫って来ます。

               「多摩川台公園(大田区田園調布)」。丘の上には、多くの古墳があるようです。

案内図。

「田園調布4丁目」信号。

上流を望む。

             

下流を望む。対岸に釣り人の姿。

岸辺で釣り人が。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その2。「孤独なライオン」。等々力大橋(仮称)。等々力渓谷。

2023-05-06 18:52:22 | 都県境を探る

「孤独なライオン」。     

どういうわけで、一頭だけ?

この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。

それによると、

40年近く前、ライオンの近くには

・パンダの遊具があった

・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった

・ライオンは台風のたびに埋まる

当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?

事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)

多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)

2010年代のようす。

1970年代のようす。ライオンなど遊具があった?

こんな経緯があったのです。ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至るわけです。

河川敷の野原にポツンと置かれたライオン。が、存在感は抜群!

草が刈られた広場。

この先、大きなクレーン車が何台も見えます。

          

                  「等々力大橋」(仮称)下部工事のようです。

       

目黒通りが川崎へ「等々力大橋」巨大橋脚が出現中 「橋空白地帯」多摩川に念願の架橋

東京都世田谷区に、多摩川を渡る新たな橋梁「等々力大橋(仮称)」の建設が進んでいます。完成は2025年度の予定です。

この橋が架かるのは、有料道路・第三京浜の約1km東側。目黒通りの延長線となる形です。一般道路としては、二子橋と丸子橋のちょうど中間部分です。両者は5kmも離れているため、ボトルネックとなって慢性的な渋滞ポイントとなっていますが、混雑分散に期待がかかります。

目黒通りが川崎市内に入ったあとは、西下橋交差点から都市計画道路「宮内新横浜線」に接続。そこから子母口まで4車線道路が開通済みです。

名前のとおり最終的には新横浜駅へ直結する計画で、全通すれば都心~新横浜が4車線道路で直結されることとなります。・・・

さて多摩川の現場では、川崎側の橋台と橋脚が2022年夏に完成。東京側の橋脚も、約半分ほどの高さまでコンクリートが打ちあがっています。このあと河道内にもう1本橋脚を立てて、橋桁部分の工事へ移行します。橋の長さは約390m、鋼製の箱桁を主塔からケーブルで支える形式です。 ・・・

(この項、「」HPより)

「玉川排水樋管」。

    

ここから少し上流(谷沢川)に向かったところに都区部では唯一の自然渓谷とされる「等々力渓谷」があります。何年か前に、出かけたことがあります。

等々力渓谷

大量の湧水が台地を浸食してできた渓谷である。渓谷の谷底は等々力駅付近から下流の脇を遊歩道が整備されている。10mほどの急峻な両崖には武蔵野の雑木林が残り、陰鬱として夏でも冷涼である。また、南側は戦国時代深沢から移ってきたとされる満願寺境内に隣接し、その別院の等々力不動尊は関東三十六不動尊霊場の一つとして、湧水が流れ落ちる不動の滝に打たれる修行者が時折見られ、冬季を除いて茶屋も建ち、都内でも有数の自然豊かな憩いの場となっている。

(「Wikipedia」より)

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その1。玉川西陸閘。岸辺の散策路。二子玉川公園。

2023-05-05 13:27:24 | 都県境を探る

4月28日(金)快晴。多くの乗降客でにぎわう駅の改札口から。多摩川土手に向かいます。

駅構内のようす。 

          「二子玉川駅」。ホームの一部は多摩川に。

多摩川の旧土手。

「玉川西陸閘」。レンガ造りが印象的。

                 結構な高さと幅。

南東に延びています。

かつてこの上を歩いたことがあります。

現在の堤防に上がります。土手の松がすくっと高く。

駅のホームを振り返る。

河口に向けて出発。

                対岸遠くは、武蔵小杉付近の高層マンション群。

河川敷を歩きます。

                

直線に伸びる道。

松並木。

水辺の散策路。

左手に緑豊かな大きな公園。

                         「二子玉川公園」。

多摩川を見下ろす。

平成25年4月14日(日曜日)にオープンし、多くの皆さまにご利用いただいている二子玉川公園。

二子玉川駅より徒歩9分と、国分寺崖線のみどりと多摩川の水辺に囲まれた場所に位置している自然豊かな公園です。世田谷区立の公園として初の本格的な日本庭園があり、その一部には登録有形文化財に登録された「旧清水家住宅書院」を復元しています。

区民の皆さまと共に植樹した約1,400本の苗木が生長する「世田谷いのちの森」や子どもたちがボール遊びを楽しめる「子ども広場」、幼児が遊べる「遊具の遊び場」などがあり、親子連れで楽しめる公園です。

日当たりもよく、眺望広場からは丹沢の山々や富士山を望むこともできます。

(この項、「」HPより)

公園内のようす。

「第3京浜」。

東京都世田谷区の玉川ICを起点とし、川崎市高津区の京浜川崎IC、横浜市港北区の都築IC、横浜市都筑区の港北ICを経て横浜市保土ヶ谷区の保土ヶ谷ICまでを結んでいる全長16.4km。

         

多摩川の流れ。

 「上野毛排水機場」。

この先の河川敷にあるものは?

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その8。水道局砧下浄水所。陸閘(りっこう)。野川。二子玉川駅。

2023-05-03 13:16:34 | 都県境を探る

上流を望む。

二子玉川駅に近づいてきます。

東京都水道局砧下浄水所。

上流にあった同じような給水塔があります。

広場やグランドが河川敷に広がります。

 

この先、土手の道に「自転車通行できません」との表示。それを無視し、走る自転車が戻ってきます、

「陸閘」。

陸閘(りっこう)は、多摩川の水害から暮らしを守る目的で大正時代に作られた堤防の一部を削り、堤防内外への通路としたものです。

この通路は、増水などにより川の水位が上昇した際に、手動で門扉のように締め切り、水が堤防の外(多摩川河川敷外)へ流れ出るのを防ぐ仕組みとなっていました。陸閘は玉川1丁目に2か所あり、それぞれ「西陸閘」「東陸閘」と呼ばれ現存しています。レンガ造りの壁が印象的です。

・・・

さて、こうして古くから地域の人々の生活に寄り添ってきた堤防と陸閘ですが、現在でもその機能を担っています。毎年、出水期前の5月に閉鎖訓練を行い、閉鎖に必要な材料等が損傷・腐食していないかを点検すると同時に、設置から撤去までの作業と時間の確認が行われています。

 この訓練は世田谷区の職員が作業し、実施について国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所へ報告されます。訓練を担当する世田谷区玉川土木管理事務所の高橋厚信所長は、「台風などによる増水で、浸水の危険がある場合に速やかに閉鎖し地域を災害から守るための訓練です」と話します。

 2019年の10月に発生した台風19号が飛来した際には、西陸閘を閉鎖しましたが、街に古くから住む方々は「訓練ではなく、水害防止のため実際に閉まるのは初めて見た」と話していました。

(この項、「」HPより)

この記事では、具体的な作業のようすが写真入りで紹介されています。

※もう2ヶ所、二子玉川駅の先にあります。

河川敷に広がるグランド、広場。

左から「野川」が合流してきます。

上流方向。

かつての野川は、小金橋(調布市と狛江市の市境、調布市立調和小学校の南東)あたりから野川緑地公園に近い流路で現在の狛江市中心部を流れ、そのまま南流し岩戸川(現在の岩戸川緑地公園)及び町田川に接続し、宇奈根付近で多摩川に注いでいた。

1597年慶長2年)から15年かけて六郷用水(次大夫堀)が開削された。これに伴い世田谷通りの新一の橋付近で六郷領用水と合流し流れを東に変え、世田谷通りと滝下橋緑道を流れ入間川と合流するようになった。次太夫堀公園を流れた後用水から分流し現在の野川下流に近い流路を通っていた。

1967年昭和42年)になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された[6]。それより下流の野川も入間川との合流点を作り、さらに少し下流のきたみふれあい広場(小田急電鉄喜多見車両基地)付近では旧入間川より数百メートルほど東に野川が開削され(西側の従前の入間川は埋められた。狛江ハイタウン前からきたみふれあい広場までは道路及び遊歩道になっている)、さらに下流でも次大夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。また、この開削した川も全区間野川と称した。

都内にしては湧水による水量豊富な河川であったが、戦後から高度経済成長期を経て1980年代前半までは、周辺地域の宅地化が進行し、下水道も未整備であったため生活雑排水が垂れ流されるようになる。流水の大半がそれらからなり、水底はヘドロで覆い尽くされ悪臭を放つドブ川となってしまうが、平成に入り周辺地域の下水道整備がようやく完了し、清流への回復が徐々に進み始めた。これにより各種類や水生昆虫、かわせみ、カメなどの生息、回帰も確認されるようになった。

しかし、皮肉なことに汚水の減少にともなって水量そのものも減少してしまい、冬季にはしばしば川の水が枯れるようになった。また、水量減少は流路に湿原的な環境を所々作り出し、アシの繁茂が新たな生物相を生じさせてもいる。・・・

※かつて「野川」の源流付近を歩いたことがあります。

多摩川方向。

             

今回は、ここまで。「二子玉川駅」に向かいます。

東急「二子玉川駅」。

以前訪れたこともありますが、駅周辺は、にぎやかな街並み。人もたくさん出入りしています。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その7。狛江水辺の楽校。東京都水道局砧浄水場。宇奈根の渡し。

2023-05-02 18:31:18 | 都県境を探る

先に進みます。

自動車教習所。

             ここも水害の被害を受けたところなのでしょうか?

「狛江水辺の楽校」。

        

狛江水辺の楽校は、わき水や小川、池、雑木林、オギ原、化石島など多摩川らしい自然と景観を残す私たち市民の共有財産といえる貴重な水辺の空間です。
 多摩川流域でもこれほど恵まれた自然環境を保持しているところは数多くありません。私たちは、こうした環境を大切にして次代の子どもたちに引き継ぎたいと考え、この水辺の価値を考え、この水辺の価値を共有する市民や団体、そして狛江市との協働で運営協議会を設け、環境保全の管理・運用に当たっています。

(この項、「狛江水辺の楽校」HPより)

※都内でほぼ確実に化石が見つかる場所のようです。

「東京都水道局砧浄水場」。

世田谷区喜多見。 

                   

「警視庁白バイ訓練所」。

「東名高速道路」橋脚が見えてきます。

          「警視庁交通安全教育センター」。

「武蔵野の路 二子・是政コース」案内図。

「藤棚」のある四阿で小休止。

「海から20K」。

        

                    対岸は、川崎市高津区宇奈根。

リコー 総合グラウンド。

駒沢大学玉川キャンパス。

左手に二子玉川駅付近の高層ビルが見えてきます。

多摩川は古くから洪水により流路が変わる暴れ川であり、流れの大きな変化によって村が分断されることもあった。

ここ宇奈根地区もかつて多摩川により分断された地区で両岸にその地名(世田谷区宇奈根と川崎市高津区宇奈根)が残っている。そのため、宇奈根地区では対岸の農地の耕作のための作業渡しや両村を結ぶ交通として宇奈根の渡しが運行していた。本来の渡し跡は、現在地より約500m上流であったと言われている。なお、昭和25年(1950)に渡しは廃止された。

この記念碑は、喜多見児童館の子ども達がかつての宇奈根の渡しを復活させ対岸の子ども達と交流しようと夢をふくらませ、地域の方々と作製し名付けた「夢叶丸」(ゆめまる)に乗り、世田谷区と川崎市高津区の宇奈根の子ども達の交流が実現したことを記念し、現在の宇奈根1丁目1番地に夢プロジェクトメンバー25人の手作りで建立したものである。

      

 「宇奈根の渡し」は1950(昭和25)年に廃船となったと言われる多摩川の交通手段。行楽・商業の船着き場として栄えた「二子の渡し」に比べ、農作業など住民生活の足として利用されていたことから残された資料も少なかった。喜多見児童館が2014年に「世田谷区子ども夢プロジェクト」の担当館として調査した結果、さまざまなことがわかり、当時同プロジェクトに参加していた25人の子どもたちの発案で実際に手作りの渡し舟「夢叶丸(ゆめまる)」を制作し、同年9月23日に64年ぶりの渡しを復活させた。

(この項、「」HPより)

※コロナ禍で3年中止されていた「宇奈根の渡し」が昨年から復活したようです。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。船着き場がある。

                     2010年代のようす。今も、「宇奈根」が両岸に。

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