おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

墨田区鐘ヶ淵散策。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若権現縁起。三遊塚。梅若の秋月・雪月花 隅田。

2023-07-17 18:41:53 | 隅田川

墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「東京都立墨田川高校堤校舎」と呼ばれる校舎が存在しました。その後、どうなったのか? 久々に訪れてみました。
 生徒急増期。「堤校舎」は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となりました。17年間の校舎でした。

全館「プレハブ」。夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。

 10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校の話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。それから、20年。

校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。敷地内を見ると、整地され、広大な空き地となっている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか? 

            

         

全景。                 

          

「木母寺」に向かいます。右手に木母寺。

               

木母寺。 

  

木母寺由緒沿革

梅若権現縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺に預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸とどちらが賢いかと稚児比べにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよった後、大津の浜へ逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ、東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年’(795)の3月15日、隅田川の湖畔で

尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し12歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りがかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き、柳を植えました。

梅若丸が亡くなった翌る年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へ向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り、渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが、梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡が池に身を投げてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かび上がりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

木母寺境内之図『新選東京名所図会・隅田堤』。

明治31年(1898)、梅若塚の再興から10年を経た風景。

梅若堂。

都内第一の石碑。

       

三遊塚。

初代円生(1768~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して三遊亭円朝が明治22年(1889)に建立。題字は「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。

・・・              

門前脇にある葛飾北斎「梅若の秋月―風流隅田川八景―」。

・・・木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探して彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲むつまじく舟遊びをしている姿を描いています。  

・・・公園内に、

葛飾北斎『雪月花 隅田』。

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。         

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墨田区鐘ヶ淵散策。その2。榎本武揚像。梅若公園・梅若塚。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」のいわれ。

2023-07-16 13:37:32 | 隅田川

この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。

「銅像榎本武揚」像。

本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・               

「梅若公園」。

この付近に移転前の「木母寺」があったようです。

正面のガラスに描かれた梅若堂。

明治期の木母寺境内。

江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に消失を免れたものです。「木母寺境内の図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。

「梅若塚」。

                 解説板。

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫の藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中、隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い、現在地に移転しています。

より詳しい解説板。

         

・・・「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはら(隅田河原)の 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年3月15日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

   

①「木母寺」は、「梅」の寺を分けて「木母」となったと言われています。

②「妙亀塚」は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求め、この地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園内にあります。

③「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現縁起」があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。

④謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。

梅の木と公園入口。残念ながら物寂しい広場になっています。

「(墨)堤通り」。

東白鬚団地。

鐘淵陸橋。「鐘淵のいわれ」。

鐘ヶ淵の由来には隅田川が子の辺りで直角に曲がり、それが工匠の遣う曲尺に似ているところから、また、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

※右のレリーフ。

広重の木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を舟で出入りすることができました。

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墨田区鐘ヶ淵散策。その1。古代東海道。東白鬚団地。この地域の変遷。鐘淵紡績会社(カネボウ・クラシエ)。

2023-07-15 13:45:01 | 隅田川

歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。

正面の道が、古代の東海道。

真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。

※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。

東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。

東武線。

そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。

      

白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)

東京都墨田区堤通にある住宅団地東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。

沿革

墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住宅が密集し始め、再び関東大震災級の震災が起こった際に、約4万人が犠牲となった旧本所区陸軍被服廠のような火災旋風に見舞われる懸念があった。 戦後も1948年(昭和23年)に福井地震1964年(昭和39年)に新潟地震という都市直下型地震が発生し、防災対策の機運が高まっていた

そこで、1969年(昭和44年)に東京都は江東防災6拠点構想(ほか大島小松川公園・白髭西地区が完成)を策定し、災害に強い街づくりを推進する方針を固めた。当地区は「白鬚東地区防災拠点」として1962年(昭和37年)に操業を停止した鐘淵紡績東京工場跡地を東京都が買収、再開発が計画された。

1972年(昭和47年)9月に白鬚東地区再開発事業として都市計画決定され、1975年(昭和50年)に着工、1982年(昭和57年)3月に10年かけて完成した。施行面積は約27.6ヘクタール。

構造

高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置しており、ドミノ式に建てられた大規模団地は存在するが、1㎞以上一列に並んだ長大団地は国内に類を見ない。1棟ずつずらした配置となっており、棟と棟の間は完全にはつながっておらず、地震の揺れに耐えられるエキスパンションジョイントで棟と棟と接続している。上空からの写真ではのような形と形容されることもある。

縦に長い団地は、防火壁の役割を持っており、密集地からの火災を食い止める効果が期待されている。また、団地の5階部分には墨堤通りに向けて放水銃が設置されており、延焼を食い止める工夫がなされている。そのほか随所に防災拠点としての設備があり、13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている。 団地には災害時に閉鎖する防災ゲートが5つ設けられており、北から順に鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門と名付けられている。

バルコニー側(墨堤通り側)には大火に耐えられるよう防火シャッターが装備されており、団地屋上にはオレンジ色の巨大な水タンクが設置され、火災時にシャッターに散水するための水が蓄えられている。

同時に隅田川沿いに防災機能を有した東白鬚公園が団地に寄り添うように整備され、災害時には約8万人を収容するように設計された。 延焼しにくい常緑広葉樹が植えられており、防災樹と命名されている。公園中央部には火消の象徴であるモニュメントが置かれている。

完成後、訓練などでは各種防災設備は作動しているが、実際の災害はまだ発生していないため、本番での作動はまだ無い。

(この項、「Wikipedia」より)

※久々に訪問しました。防災拠点としては斬新な構造を持った団地ですが、老朽化、住民の高齢化など、今後が気になる点も感じました(平日の昼間のせいでしょうが、出会う人はお年寄り。保育園の子供の声も聞こえず、・・・)。

また、周辺地域(住宅密集地)の再開発も進み、防災面からの住宅環境の整備、公園、道路事情などこの40年で大きく改善されています(むしろ、火災よりも隅田川、荒川に囲まれ、地震、水害の方が危険度が高い)。はたして今後どうなるか、気になるところです。

                                                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                (「今昔マップ」より)

          1890年代のようす。○が木母寺、↓が古代東海道。

           ○が「墨田川高校堤校舎」(現在は、都の管理地)。その南に移転した「木母寺」。 

カネボウ・クラシエ

1887(明治20)年、東京綿商社として東京府下鐘ヶ淵に創立(5月6日)→創立記念日とする

(「<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/61/f83b7ee7b8805c1ac15a2673f333f463.png">」HPより)

                          

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