おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その2。

2023-06-22 18:18:56 | 境川

鎌倉、三浦半島方向。

江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。

振り返ると、怪しげな雲行き。

こちらは青空が広がる。

「弁天橋沿革」解説板。

この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。

さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。

売店、お土産店の前では並んでいます。歩きながら大きなtakosennbeを食べている人、・・・。

青銅の鳥居。

江之島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の鳥居でしたが、1821年(文政4年)に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の厚さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。・・・

左手に古めかしい郵便ポスト。

 「明治時代の郵便差出箱」。

「岩本楼」。

 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/6d/58406e94e85ecdcfa102ac251785a0cf.jpg">

前身は金亀山与願寺(現:江島神社)の別当職を務めた岩本院で、鎌倉時代以来の歴史を持つ。

古くは中の坊と称していたが、その後岩本坊・岩本院と改名した。上の坊・下の坊と共に与願寺の別当を務めていたが、後に上の坊・下の坊を支配下に置き、総別当となる。

江戸時代中期以降、江の島は江戸から手軽に行ける観光地として栄え、岩本院も宿坊として栄えた。文久2年(1862年)初演の歌舞伎、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)に登場する弁天小僧は岩本院の稚児をモデルにしたと言われている

1873年明治6年)、神仏分離令により与願寺は廃され江島神社となり、岩本院も翌1874年に岩本楼と改名し旅館となった

(この項、「Wikipedia」より)

当館は鎌倉時代より850年、湘南・江の島「弁財天仲見世通り」に佇む老舗旅館です。当館は鎌倉時代の宿坊に由緒を持ち、江の島を代表する宿として親しまれてまいりました。江の島の歴史とともに歩んできた岩本楼の歴史を紹介いたします。

岩本院文書(藤沢市文書館寄託)

江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。

竣工当時の江の島弁天橋
 
大正時代の海水浴の様子
 
「岩本坊」から「岩本院」へ

旅館・岩本楼本館の由緒は、はるか鎌倉時代のお寺「岩本坊」に遡ります。時は源頼朝の時代、「岩本坊」は、江の島岩屋および、江島神社中之坊(現在の奥津宮)の管理を担う別当寺でした。後に、「岩本坊」は「院」号を与えられ、宗教権、支配権、経済権を掌握する江の島一山の総別当となります。

当時は源頼朝を起源とする「江の島弁財天信仰」の高まりにより、将軍や諸国大名などが江島神社を参詣し、「武運長久の神」として弁財天を崇めていました。その参詣の折、休憩所や宿泊所の役割を果たしていたのが「岩本院」です。

その後、天下泰平の江戸時代に入ってからも、歴代の将軍が頼朝を崇拝したことから、江戸の町では弁財天信仰が盛んになりました。当時、庶民の間では集団での行楽が禁じられていましたが、江戸時代後期より、神仏参拝を名目とした庶民の観光が増え、江の島は大変な賑わいとなりました。

「岩本院」から「岩本楼」へ

「岩本院」は、江の島の総別当を長く務めましたが、明治以後の神仏分離の気運の高まりにより、神道をもって祀りを行うことを政府に願い出ます。これによって「岩本院」は寺主から神主職となり、「江島弁財天」は「江島大明神」となりました。

その後の明治6年、江の島でも廃仏毀釈が強行されたことから、弁財天に関連する全ての施設の取り壊しが命ぜられ、島内の弁財天像や諸国大名からの奉納品は「岩本院」へ御下渡しとなりました。

そして明治7年(1874年)3月、「岩本院」はそれまで宿坊だったことを活かし、「岩本楼」として旅館を開業します。しかし、この頃すでに江の島の参拝客は減少の一途をたどり、「岩本楼」にとっては苦難の時代の始まりでした。

江の島の発展と岩本楼

その後、明治半ばに入り、サムエル・コッキング氏による大庭園・温室の建設や、横浜在住の外国人による海水浴の利用が増え、江の島周辺も徐々に賑わいを取り戻し始めます。

また、明治20年(1887年)の藤沢駅開業、明治35年(1902年)の江ノ電開通、明治24年(1891年)の江の島弁天橋竣工などによって、江の島のアクセスが格段に向上し、首都圏在住者の保養地として栄えるようになりました。
明治~大正にかけては、皇室のご休憩・ご宿泊所としても多く用いられ、明治27年(1894年)に葉山御用邸が竣工されるまでの間、何度も当館にご宿泊いただいております。・・・

現在、当館は創業から150有余年。
時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。

今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。

(この項、「岩本楼」HPより)

※「明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。これが「神仏分離」政策。神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。

江の島エスカー乗り場。

昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場しました。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています。

(「」より)

右手を見上げると、けっこう急な高さ。これは便利な乗り物。しかし、帰りのエスカレータはないので、歩いて降りてくることに。

「行きは良いよい、帰りは怖い」ではイヤので、少し腹ごなしをしてからにしようと、参道をいったん下りることに。

賑やかな坂道。

 


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