代表取締役もコンビニオーナーも労働者ではないが、支配されていることに変わりはない

2022年08月30日 | 社労士
月刊社労士8月号の労働保険審査会裁決事例は代表取締役の労働者性が争われた事件であった。
実質トップから業務全般の指示を受けていた社長が職場で首をつって自殺したのだが、遺族が労災保険の葬祭料を請求したところ、支給しないとの処分を受け、処分の取消を求めたのである。
労災保険上の労働者であるとは認められず、訴えは棄却されている。
使用従属性と労働者性の判断を補強する要素を勘案して総合的に判断した結果、労働者ではないとなった。この法的な枠組みは妥当であるといえる。
代表取締役となっている以上、どれだけ精神的に支配されていようと、労働者性を主張するのは無理な話である。
労基法や労災法よりも労働者の概念を広く認めている労組法でさえも、コンビニオーナーに労働者性はないとの判決が言い渡されているのである。
コンビニオーナーとしては無念であるが、やはり、労働者というものと社長、オーナー、経営者をリンクさせるのは無理がある。
代表取締役の労働者性にしろ、コンビニ経営者の労働者性にしろ、法の枠組や物事の形式と実態・本質があまりにも乖離しており、にもかかわらず、それを当たり前のこととして受け入れている日本社会のゆがみが表れているように思う。
月刊社労士8月号の裁決事例では「雇われ社長」という言葉が使われていた。この言葉は随所で聞く。本来雇われることと社長は共存しない。日本では雇われ社長は揶揄され軽んじられる言葉として、本来ならばあり得ない被雇用者と社長が合体した言葉がなんの疑問もなく使われている。
どのような経緯でなろうが社長は社長であり、被雇用者ではないはずだが、日本では社長は雇われるということである。
コンビニオーナーも本来まぎれもなく経営者であり、フランチャイザ―に雇われているのではない。しかし、植民地の現地指導者が植民地における有利な立場と引き換えに、本国からの支配にがんじがらめであるように、フランチャイザ―によって手足足かせされている。植民地の現地指導者は甘い汁を吸っているが、コンビニオーナーは苦い汁しか吸えない。
昨夜、福岡の5歳児餓死事件でママ友が虐待を指示したとかしないとかが争われているとのニュースがあった。真相はともかく、他者から心を支配されるということがごく普通に起きていると思った。
労働者性云々に限らず、家としての葬式仏教しか持たない日本人は、他者とか、お金とか、体裁とか虚栄とかいう宗教に簡単に洗脳されるのかもしれない。
代表取締役もコンビニオーナーも労働者ではないが、支配されていることに変わりはない。
それは私たち国民も同じである。
なんら他人事ではない。
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