久しぶりに矢部正秋さんの『プロ弁護士の思考術』を読み返してみた。
どのページを開いても読むべき箇所がある。
どのページにも線が引かれている。
仕事に行き詰ったとき、人間関係で厭世的な気分のときに読み返せばいいのだが、そういう時は余裕がなく、全てが終わった後にこの本を手に取り、やや気分が落ち着くといったところである。
人間は、自分の思い込みを離れてものを見るのは難しい。
客観的に見ていると思っても、実は「自分」というフィルターを通してみているのである。
感情をまじえず客観的に物事を見ることは、人間にとって不可能である。
また、そうなっては人生がおもしろくない。
われわれは対象をそのまま見るのではなく、自分の見たいように見ている。そう知るだけで考え方がずいぶんと変わってくるものである。
自分が正しいのになぜ相手も正しいのか。
ある意見が正しいか否かは是非を誰が判断するかの問題と切り離すことができない。
裁判では原告・被告のいずれも、自分の言い分が正しいと主張する。
弁護士は常に自分の主張が誤りと判断されるリスクにさらされる。
弁護士は自分の意見に真っ向から反対する者に鍛えられる。
これは弁護士に限ったことではない。
人生すべてにおいて言えることであるが、特に仕事において生きる教訓といえる。
座右の書というものは本当にありがたい。
どのページを開いても読むべき箇所がある。
どのページにも線が引かれている。
仕事に行き詰ったとき、人間関係で厭世的な気分のときに読み返せばいいのだが、そういう時は余裕がなく、全てが終わった後にこの本を手に取り、やや気分が落ち着くといったところである。
人間は、自分の思い込みを離れてものを見るのは難しい。
客観的に見ていると思っても、実は「自分」というフィルターを通してみているのである。
感情をまじえず客観的に物事を見ることは、人間にとって不可能である。
また、そうなっては人生がおもしろくない。
われわれは対象をそのまま見るのではなく、自分の見たいように見ている。そう知るだけで考え方がずいぶんと変わってくるものである。
自分が正しいのになぜ相手も正しいのか。
ある意見が正しいか否かは是非を誰が判断するかの問題と切り離すことができない。
裁判では原告・被告のいずれも、自分の言い分が正しいと主張する。
弁護士は常に自分の主張が誤りと判断されるリスクにさらされる。
弁護士は自分の意見に真っ向から反対する者に鍛えられる。
これは弁護士に限ったことではない。
人生すべてにおいて言えることであるが、特に仕事において生きる教訓といえる。
座右の書というものは本当にありがたい。