マイホームが幸せの象徴であるという呪縛

2015年03月31日 | 日記
山手のほうの郊外に用事があって車で出かけた。15~16年ほど前は、学生用のアパートの他はぽつぽつ住宅があるくらいの視界の開けた場所であった。

今では幹線道路沿いにびっしり商店が並び、宅地開発も進んで真新しいしゃれた住宅が広がっている。

どの家も幸せそうな装いをしており、アパート住まいの若い夫婦が見れば、いつか自分たちもこのような家を手に入れたいなぁと思うのではないだろうか。

だが、平均寿命の半分を過ぎた年齢になると、装いを変えたからといって中身までが変わるわけではないということがわかってくる。しばらくは装いを新たにした効果もあるだろうが、じきに消滅し、古い装いのときと同じかそれ以上の不満がでてくるのである。

そう思うと、幸せそうな小さな新しい住宅にも別の顔が見えて来るような気がする。

我が家も数年前に家を新築したが、当然ながら華やいだ気分はじきに消え、購入した途端価値の下がる住宅の様々な不備・瑕疵が見え始め、それを防ぐため躍起になって抗い、それゆえ家族間に軋轢が生まれている。また、住宅購入という庶民にとってはかなりの大金を消費したことによって、物への異様な執着も生まれ、それぞれの生活を息苦しくさせている。

幸せの象徴であるマイホームが人生の地獄を描き出す好材料であるにもかかわらず、相も変わらず新築政策は続いている。一方で空き家が大きな問題となっているのだが、各自治体で対応はしているものの、国が大きく動く気もないようだ。

一旦マイホーム熱に取りつかれると、手に入れるまで幸せを感じることは不可能で、つかの間の幸福を感じた後は下り坂のように不幸に向かっていくようだ
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産めよ殖やせよって、余計なお世話です

2015年03月30日 | 日記
若い年齢での結婚・出産に結びつける出会いの場提供や、妊娠・出産教育の推進などを新たに盛り込んだ少子化社会対策大綱を政府が決定。だそうだ。

余計なお世話だよ。

「今までの少子化対策の延長線ではない」

鼻の穴をふくらませてドヤ顔をしている有村治子少子化対策担当大臣ですが…

その昔「おやじギャル」というものが流行りました。ギャルなんだけど、やることがオヤジじみてる、ってかオヤジの生態を粋がって真似て、それが世間に受けてたんですが…今は亡き漫画家の中尊寺ゆつこさんが産みの親でした。国に勢いがあって元気だと国民も同調して元気になるという(反対もしかり)わかりやすい日本人のスタンスが若き女性にまで拡がった現象です。

有村さんはオバサンですがオヤジもどきどころか、おじさんそのものです。根っからのおじさんのようです。

余計なお世話でしかないにもかかわらず、すごく気の利いたことをやっているつもりでいます。カン違い的余計なお世話はおばさんにも多いのですが、おばさんの場合ただの親切の押し売りですが、おじさんはそれが「評価」に値すると本気で思っています。

他の有識者(おじさん)の言葉からもみえるのは

どうだ、俺たちの視点は画期的だろ?

こんなこと誰も思いつかなかっただろ?

といったドヤ顔得意顔です。

確かに、長年こういうことへの対策はなっかたです。明治から昭和の終戦頃までは流行ってたっけ?

産めよ殖やせよお国のためだ、エッサホッサ

妊娠・出産教育のテキストはどこから持ってくるんだろう?フィンランドあたりだろうか。ちゃんと避妊教育もするんだろうな…教育現場またもや混乱か

自治体が婚活パーチ―主催して、そこに国から助成があるのか?

ズンチャッチャッ…は明治の鹿鳴館か、あれは婚活じゃなかったっけ?

日本を取り戻す!若者を取り戻す!20代の出産を取り戻す!

取り戻したがり屋につけるクスリはないと、安倍政権を批判したのは誰だったでしょうか。

有村さん、マクドナルドに戻って信頼を取り戻したらいいのに…
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ホームレス・他人のこととは・思えない

2015年03月28日 | 日記
ホームレス川柳・路上のうたより

* パンの耳鳩にやるなら俺にくれ

* アルミ缶昔はすてた今拾う

* 指さされあんな大人になるなよと

* 仲間内会話のネタは常に飯

* 職探し自分の場合食探し

* 夜が明けて唯一の暖房陽だまりへ

* 百均も我が暮しには高級店

* 寒波来りゃ重ね着しても役立たず


ホームレスの人が販売している雑誌:ビッグイシューの裏表紙には

路上でしか、路上だからこそ、感じられる街の風景や喜怒哀楽があります。
家なき人の、家なき人による、人間みんなのための路上の川柳、とあります。

私には家がありますが、ホームレス川柳が身近に感じられます。

今の社会には、現状がどうであれ一直線にホームレス状態に陥ってしまう脆弱さがあるように思えます。

私は現状も厳しいのだけど、いろんなつながりがあるため、住む家もあり食事に困ることもありませんが、こういったものがいつ何時どのような理由で奪われるかわかりません。

貧困女子というのが話題になっていますが、その生活ぶりを見て、自分とあまり変わらないので困惑しました。たぶん、多くの人の生活がそうなんじゃないかと思うんです…いっしょにすんな!と言われそうですが、でも実際に所持金がどれくらいあるかに関係なく、貧相な食事をしている人は多いと思うんですよ。

あとですね、貧困とはほとんど関係ないですが、私は市販の食パンが嫌いです。添加物とかそういうことだけじゃなくて、パンの耳とかいって端っこのところが切り捨てられていて、その部分は川柳じゃあないですが、人間が食べるものではないと決めつけているところがいやらしいです。人間が食べないものを貧乏ゆえに食べなきゃいけないのを惨めに感じる人が多いようですが、そもそもパンの耳は人間の食べるものですよ!

脱脂粉乳だのとうもろこしだの、くず米だのを人間の食べるものではないとするのはただの体裁です。

体裁といえば、社会保険労務士というのも体裁の必要な仕事です…
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残業代不払いで書類送検されたパン製造販売大手のドンクに未来はあるのか

2015年03月27日 | 日記
パン製造販売大手ドンクが、残業代不払いで社長と元工場長が東京地検に書類送検された。

15年ほど前、ドンクでアルバイトをしており、そのときの店長が逮捕された中土現社長だった。

学校が終わってからの短い時間と休日しかシフトに入っていなかったため、中土社長の仕事ぶりや人柄などはよく知らない。

北陸方面の人事部長も兼ねており、かなりの「やり手」であるとは、古参のパートさんなどから聞いていた。リストラや降格にもバンバン着手し、効果をあげていたようだ。

店の奥で働く年配の職人さんが、かつては店長職にあった人で、中土現社長が降格処分にしたと聞いたときには、にこやかな笑顔の裏にある冷徹な面に怖れを感じた。降格の理由まではわからなかったが、職人さんの心中はどうだっただろうか。それでも、なにくわぬ顔で店長として仕事の指揮をとることができたからこそ社長にまで登りつめることができたのだろう。

長くドンクに勤務するパートさんから、長時間の不払い残業が常態化していることは聞いてた。心身状態を悪化させて退職を余儀なくされた人がいることも聞いていた。長く貢献した人や過重労働の末に病気になった労働者に対する心ない仕打ちについても聞いていた。

社長が凄腕で辣腕をふるいながらも、各職場ではモラルが崩壊し、利益を上げるために人が切り捨てられていく様子がみられた。

サンドイッチ工場で働くパートさんが脳疾患で倒れ、労災申請が出されたことで長時間労働や不払い残業代が発覚したということだ。

そのパートさんは「自分の仕事が遅かった。悪いと思って残業時間を少なく申告した」と話してる。

「悪いのは自分」「自分がちゃんとしていないからこんなことになった」仕事で心身状態を悪化させた人がよく言うことである。

2000年以降台頭してきた自己責任論が背景にあるように思う。

自己責任というのは誰が言い始めたのか知らないが、ずいぶん便利なものだ。なんでも自己責任なら責任を取る人がいないから無責任でいいわけである。

ドンクは「労務管理に不備があったことは誠に遺憾。社内体制を強化し、改善に取り掛かっている」とコメントしているが、ずいぶんのんびりしていないか?なぜ、労務管理に不備があったと言えないのだろうか。本気で取り組む気がないのがわかる。

病気を理由に放り出した労働者を、人手が足りない、即戦力となる仕事のできる人間が欲しいという理由で再度雇用しようとするような会社にどんな改善ができるのだろうか。
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スーツ姿でコンビニ食をかきこむ男性を気の毒に思う

2015年03月26日 | 日記
昼時にコンビニへ行くと、スーツ姿の男性が店先で煙草を吸ったり、ドリンクを飲んだり、車の中で食事をしている姿を見かける。

多くの人にとって、日常的な風景で珍しくもないのだろうけれども、私にとっては違和感を覚える奇異なものである。

高度プロフェッショナル制度なるけったいな名前で生まれ変わった「時間ではなく成果で評価する」とかいう制度は、8年ほど前の第一次安倍内閣のときには、ホワイトカラーエグゼンプションという名称だった。

あの当時、すでに「ホワイトカラー」なる言葉の意味は、その言葉ができた当初とはるかにかけ離れたものになっていた。にもかかわらず、「ホワイトカラー」にあてはまるような人たちを乱暴にくくったので、対象となる労働者がずいぶん多くなり、残業代ゼロ法案、過労死促進法案などと言われ頓挫してしまった。

第二次産業が全盛だったころの「ブルーカラー」「ホワイトカラー」をそのまま用い、しかも欧米のように区分けがはっきりなされていない日本で、表面上の「ホワイトカラー」を無理やりもってきたのが悪かったのだろうが、にしてもセンスの欠如が致命的だ。

今じゃだれも「ホワイトカラー」なんて言葉は使わないけど、車の中でカップラーメンやおにぎり、菓子パンを食べているスーツ姿の男性を、死んだばあちゃんが見たら「かわいや、かわいや(可哀想の意)」「白いワイシャツ着とるもんがなんであんなとこであんなもん食べんなんがや」と言って、涙を流して気の毒がったと思う。

大正の初めに生まれた祖母にとって、野良着や作業着ではなく、ワイシャツと背広を着て働くのは「勉強のできる人」「いい給料をもらう人」「力仕事ではなく、頭を使う仕事をする人」の象徴である。今生きていたとしても、時代の変容を理解はできないだろうから、「背広着て雇われとって生活できんてどういうことや」「野良着きて天気に振り回されとるがでもないのに」「力仕事でもないのに働きすぎて死ぬのはわけわからん」と途方に暮れるだろう。

野良着や作業着がスーツというお仕着せに変わっただけとは理解できないだろう。

コンビニを日常的に利用している人は決して自分たちをかわいそうには思っていないし、みじめにも思っていないはずだ。

それでも私は死んだばあちゃんと同じように、彼らを気の毒に思う。コンビニではなく、イタリアのバールのようなものがコンビニ並みにできたらと思う。せめて飲食スペースのあるコンビニが増えてくれたらと思う。
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