先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

田中正造と野に叫ぶ人々(足尾鉱害闘争1896年から1907年)

2019年12月17日 17時48分39秒 | 動画・映画

映画「田中正造と野に叫ぶ人々」
2007年月14日 ひきふね文化センター

感想メモ
1、とても考えさせられる映画でした。民衆の徹底した闘いと支援した人々のとしての田中正造。田中先にありきではない。田中正造を語る時は「赤貧洗うがごとき」も大切ですが、より以上に「野に叫ぶ人々」をこそを語るべきと考えました。
足尾鉱害闘争、鉱山の足尾暴動、農民の闘い、労働者の闘い、民権運動、米騒動・・・。

2、時の明治政府は、資本主義制度の導入・確立と日清・日露戦争のために、足尾の山々の銅を文字通り手段を選ばず奪い取ります。足尾鉱山では労働者を文字通り虐待酷使し一方鉱山からのおびただしい鉱害の垂れ流しは、たちまちのうちに足尾地方の広範囲な田畑や山々を死の土地と変え、万余の農民の生活と健康を完全に破壊しつくしました。

この明治政府の悪逆非道と敢然と闘った谷中村を先頭とする数万余の足尾の農民とそれを支援した古河町の住民を始めとする全国の民衆・農民・労働者・知識人・学生・社会主義者・キリスト者・仏教者たち。

足尾鉱山の労働者がストライキで決起し陸軍が鎮圧したいわゆる足尾暴動のその時を同じくして谷中村への強制立ち退き執行(農家を文字通りぶち壊した)が行われ、この3年後、足尾の農民と労働者の闘いを支援した幸徳秋水は、大逆事件で逮捕され、死刑。最後には谷中村の村全体を水没させ農民は強制的に北海道などに移住させられ闘いは敗北。

しかし、残酷な資本と国家権力に対して決起し闘い続けた万余の農民たちと支援した全国の人々の、その敢然と闘う姿をしっかりと見ていた民衆とその闘いはその後の労働運動・民衆闘争・米騒動・・・・へと引き継がれていきます。

3、勝海舟
秩父事件1884年
足尾鉱害拡がる。1896年
勝海舟「鉱毒問題は、直ちに停止の外ない。榎本が巡視して姑息の慰籍をしたというが・・・非を飾るといふことは宜しくない」と榎本大臣を批判、榎本武揚(農商務大臣)はこの直後に辞任(1897年)。
大熊・板垣内閣成立1898年  

4、丸2日かけて歩いていったという命がけのデモ
数千の足尾の農民が地元から東京へ押し出し、議事堂前等で座り込み闘争
1897年から1902年まで5回の「押し出し」大闘争
1898年第3回目1万人。
1900年第4回目1万2千名、川俣で官憲との死闘逮捕者300名の
1902年第5回目は5千名
これは命がけの一揆・暴動であることがわかります。


1902年 60名 18歳から66歳までの女性、東京までたどりついた17名は貴族院前で座り込み。座り込んだ女性たちは一言も話さないがその鬼気迫る気迫に貴族院議員どもは怯えたそうです。

押し出しの集合点はいつも群馬県館林市の雲龍寺の境内。同寺の伊東方己現住職(58歳)「当時住職だった黒崎禅翁の理解がなければできなかっただろう」。目指す東京まではおよそ70キロ、「大半の農民はお金がなく、干し飯(ほしいい)を携えて丸2日かけて歩いていった」。東京での座り込みは権力者を震え上がらせ、正造の演説よりもインパクトがあったといいます。しかし、川俣弾圧など国家権力の前に、鉱毒反対運動は退潮の一途をたどります。

5、福沢諭吉「(足尾の押し出しを)断固取り締まれ」の本性
伊藤博文内閣成立・治安警察法公布1900年

6、幸徳秋水 内村鑑三 木下尚江 川上肇 キリスト者 仏教者 石川啄木
当時の農民運動・労働運動・全国で女工など大ストライキ頻発
田中正造天皇直訴の闘い1901年(直訴状の文章は幸徳秋水に頼んだ)

内村鑑三らが組織した1200名の「鉱毒被災地救済団」大挙して被災地へ 古河駅から現地へ大デモ
(早稲田専門学校生285名、同中学生52名、大学生98名、高等中学生110名、尋常中学生56名、木下尚江一隊41名、その他新聞記者58名、本願寺僧侶(*)など一隊418名、大日本仏教青年会(*)数十名、弁護士ら数十名、クリスチャンなど総計1200名) *これら当時の仏教者の資料読みたいものです。

川上肇ら帰京した学生ら多数は、こぞって街頭集会・宣伝・カンパ活動。キリスト教婦人東京で大支援集会。

石川啄木の歌
盛岡中学3年生のときに天皇直訴に感動しカンパ活動をした啄木
「夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや」
全国の農民・学生・民権知識人に共感・支持が拡がっていることが想像できます。

7、利島・川辺村村民1000名の「納税兵役拒否」村民現場大会決議 1902年
「政府が堤防を築かずば、断然納税兵役の二大義務を負わず」
あわてた行政は堤防工事に着手した。利島・川辺村民の勝利です。
日露戦争の一年3ヶ月前のこと。田中の反戦・反軍思想も併せて考える時、この決議と闘いはなんとすごいことでしょう。

8、原敬への古河町町長の抵抗
原敬古河鉱業副社長(翌年内務大臣)1905年
足尾暴動1907年、同年原大臣谷中村廃村強制立ち退き執行

古河町町長
「谷中村ぶち壊しの人夫に雇われるなとはいわないが、募集に応じる人には、立ち退き料を与える故に、古河町より他へ移転してもらいたい」
古河町全体が足尾や田中の闘いを断固支持していることが伝わります。

9、安重根 伊藤博文射殺1909年 
  韓国併合 1910年 

石川啄木「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」

大逆事件(幸徳秋水死刑)1910年

10、1917年ロシア革命 1918年米騒動

11、その他、
*晩年の田中正造の治水・堤防研究と内村鑑三の弟子青山士(あきら)との関連にが持てました。
*田中正造の葬儀参列者は5万人、葬儀委員は631名という異例の多さ。村長から宮司まで町の人々が名を連ねています。
*映画を見ながら、三里塚の方々、戸村一作さん・・・を想いました。
     
<決起・闘争・敗北・再び決起・再び闘争・・・・最後に勝利!>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。