先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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共同印刷2千名58日間の激闘 1926年の労働争議(読書メモ)

2023年02月03日 07時00分00秒 | 1926年の労働運動

共同印刷株式会社(1925年)

共同印刷争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照
「日本労働評議会の研究」伊藤晃
「日本労働組合物語昭和」大河内一男・松尾洋
「日本現代史5」ねず・まさし
「日本労働年鑑第8集/1927年版」大原社研編

徳永直の「太陽のない街」のモデルで有名な東京小石川の共同印刷争議は、労働年鑑第8集「労働争議」の「第三節特に主要なる争議の顛末」になぜかこれほどの大争議である共同印刷争議の中身の報告は一切ない、ただ「第二節の主要なる労働争議の五 雑工場」の一覧トップに「共同印刷株式会社(東京) 1月 参加人員2,200人  関係せる労働関係出版労働組合」と一行の記載があるだけである。(以下は他の資料を参照)。

共同印刷争議
1926年、分裂した後総同盟も評議会は互いに熱心に未組織の組織化に奮闘し組合員を倍増し、この年スト参加労働者数は過去最高となつた。資本家と官憲は階級的労働組合、とりわけ評議会の組織を壊滅させるために手段を選ばない攻撃にのりだした。

(大巻き返しをねらう挑発)
1925年博文館と精美堂が合併した東京小石川の共同印刷株式会社は当時最大の印刷会社であり、従業員2300名は全員評議会関東出版労組に組織されていた。関東出版労組はこの数年東京の印刷出版会社11社を相手にした闘いに連戦連勝し、組合員は1万人を越えていた。しかし、大巻き返しをねらっていた共同印刷大橋社長は「労働組合を崩壊させるまでは、たとえ会社が危険になってもやる」と1926年1月早々、一方的に、作業日数の3~5割の削減・操短と配転を発表してきた。

(ストライキ突入)
この会社の高圧的態度と収入の大幅減に怒った組合は1月19日からストライキに突入した。待ってましたとばかりに会社はロックアウトを宣言し、たちまち構内には200名のならず者暴力団と100名を越える警官と大量の消防夫が配置された。しかも21日にはスト参加者全員の解雇が通告された。最初から労働組合全面壊滅が目的の大攻撃、大巻き返しであることは今や誰の目にも明らかであった。

(総力戦の争議団)
評議会の指導のもと争議団は7班にわけて周辺の寺院、貸席、旅館などに分宿し、警備隊、訪問隊、財政部と10隊の行商隊も編成し、連日の抗議デモ、会社糾弾演説会・・・と一糸乱れず長期戦を闘い抜いた。評議会は東部合同労組の有名な指導者渡辺政之輔(ワタマサ)を張り付け、全国からの最大級の応援・支援態勢を求め、全力での支援を訴えた。工場周辺の街の多くの住民は争議団に同情し、各所で区民大会が開かれ、住民は壇上から口々に会社を糾弾しカンパを寄せた。

争議団の7カ所の詰め所では毎朝出欠の確認と、状勢報告や駆け付ける応援組合からの激励演説が連日行われた。活発な討論と労働歌の高唱はどこでも盛んにおこなわれた。かくし芸などの余興もでた。東大新人会の学生を講師にした学習会も開いた。また日本プロレタリア文芸聯盟演劇部による移動劇団「トランク劇場」が活躍し争議団員と家族の人気を集めた。団員の生活物・食糧などは消費組合博文館共働社が担当した。

(ワタマサの指導)
渡辺政之輔は、官憲の検挙から争議団を守るため秘密指導部アジトを設立し、争議団指導部の検挙には非公然の第二指導部も準備した。また直属の行動隊(細胞と言われた)を多く組織し、ここで日々労働講座を開催しマルクスや世界の歴史を熱心に学び、この行動隊が争議団の核を担い争議団の堂々たる長期間の組織的闘いが実現した。行動隊には多くの少年工もいて主にレポーター部隊としてよく奮闘した。

(共同印刷会社の争議団攻撃)
一方会社は京都から数十名のスト破り(スキャッブ)を雇い入れ、荷物の中にふん装してトラックで工場内にはこび入れ、職制たちと機械を動かした。また、ならずもの暴力団に争議団幹部をねらい襲撃させた。ならずものは組合事務所や詰め所を襲撃し、争議団員に大怪我を負わせ建物や器物を破壊した。これと闘い、抵抗する組合員を官憲が大量検挙で弾圧した。会社は直接手紙で争議団員に組合脱退とスト破りを働きかけたが、応じる労働者はほとんどいなかった。そこで会社は争議団員を無理やり狩出そうと職制を使い自動車三台でひそかに動いた。

(一旦は約束した調停を破棄してきた会社)
共同印刷に発注していた自らの雑誌が印刷不能になるなど大損害を被った講談社やダイヤモンド社、美術印刷らの社長たちが急遽調停に乗り出した。一度は成立した調停と妥協に反対するスト破り裏切り者労働者による争議解決反対ストも勃発し、会社はたちまち約束を破棄し調停は決裂した。争議団員に動揺が起きたが、しかし、行動隊と全国の応援により危機を切り抜け、連日の集会とデモ、演説会をやり続けた。また組合員同士と家族の団結を強めるための護国寺境内での運動会、上野動物園内でピクニックと示威運動、学習会、演芸会など創意をもって争議団員は頑張り抜いた。全国からカンパや米など大量の支援物資が続々と届けられた。

(刀折れ矢尽きての惨敗)
しかし、官憲の度重なる検挙で争議団の指導者の多くが獄に繋がれ、また暴力団の残酷な暴力と生活困窮が襲う中、争議団とその家族の生活は困難を極めた。官憲は5.6名の会議すら「解散」を命じ、ならずものによる連日の争議団詰め所や事務所への襲撃も続いた。やつらは争議団員とみるや暴行を加え重傷を負わせた。反対に、これに反撃した争議団員は公務執行妨害、暴行傷害で警察にどんどん検挙された。思い余った争議団の中には、工場や重役自宅を襲撃したり放火するものも出てきた。争議団員の中にスト破り裏切者が380名出てきた。大阪から評議会執行委員長野田律太らが上京し、ひそかに王子製紙ら資本家らと調停交渉を重ね、ついに3月18日会社の13万円(12万+1万)の支払いと1,180名全員の解雇(半月以内に約200名の再雇用)という条件で58日間の争議は終った。争議団の刀折れ矢尽きての惨敗であった。

その上なお、印刷資本家階級は共同印刷のスト参加者の名前を一覧にした「ブラックリスト」を都内・全国の各印刷工場に回し、その後の出版労組の組織力、戦闘力に大きな打撃を与える追い打ちをかけた。



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