1923年9月3日の内務省警保局の「電信文」と流言飛語
<この電信文は警察を所管していた内務省警保局が震災直後の9月3日、地方長官に宛てて打ったもので、「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ」と認定した上で「厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」と明記している。当時の内務省が朝鮮人に関する流言を事実とみなし、取り締まりを指示したものだ。
同電信文は、9月3日に千葉県船橋町(現・船橋市)の海軍送信所から発せられたが、内務省警保局が伝騎に持たせたのは前日の9月2日午後。この時点で内務省が「朝鮮人暴動」を事実と考え、それを拡散したことが分かる。その結果、埼玉や千葉などでも自警団が結成され、熊谷などでの虐殺事件につながった。警察が流言を広めたことを示す史料として最も代表的で明確なものだ。〉
流言認める公文書を政府保管~関東大震災直後の朝鮮人虐殺巡り 福島党首が参院法務委で追及し明らかに
https://sdp.or.jp/sdp-paper/kantod/
当時の政府は、関東大震災時の朝鮮人・中国人大量虐殺は、一般民衆による「流言飛(蜚)語」がすべての元凶であるかのように、民衆自身に責任を負わせる世論操作をした。現在においても「流言飛(蜚)語」に原因の重きを置いて話されることが多い。しかし、全国の警察署を所管する内務省後藤文夫警保局長のこの電信文で明らかな通り、「朝鮮人は各地に放火し、東京内において爆弾を所持し、石油を注いで放火するものがある」から「厳しく取り締まってほしい」と指示し、全国の警察署に拡散していたのは、内務省の警保局自身だったことがわかる。
海軍においても以下のような全くデタラメな報告を出す有様であった。
(大正十二年九月三日 海軍火薬廠爆薬部 陸軍省高級副官殿 第三報)
「第一信 朝鮮婦人約六十名日本婦人の服装をなし飲料井戸水に毒薬を投ずるの企てあるを聞く
第二信 今朝八時陸軍火薬製造所に於いて爆発を企てるを聞きたる
第三信 滝野川商工学校裏に於いて鮮人が放火の企てたるを発見し未然に消火したるを聞きたり」
関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺に関して、日本政府にその責任があることは明らか。にもかかわらず戦前は勿論戦後ですら、いまだ損害賠償はおろか謝罪すらしていない。それどころか小池都知事はあの極右石原知事ですら行っていた追悼式典への都からの追悼文を送る事を取りやめている。
当局の責任はあきらかだ。しかし、だからといって警察や内務省や軍隊の煽動に盲従し無責任な流言飛(蜚)語をそのまま多くの記事にした各新聞社や実際の加害に及んだ、あまりにも残酷で血に飢えた自警団員や一般民衆の責任も逃れることは決してないと思う。その後の労働組合・総同盟や知識人の責任も問われなければならない。
この8月9月、せめてお互いに関東大震災時の朝鮮人・中国人大量虐殺、亀戸事件、大杉栄一家虐殺事件、朴烈事件等を少しでも学び考え続けたいと思う。
(参照「証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人」西崎雅夫遍 ちくま書房)
以上