先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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南葛飾郡本田村渋江のビロード織物工場ストの演説会に、村民が毎回400名、500名駆けつけた本田村とは !  東京ベルベット労働争議①―1927年の労働争議

2025年01月15日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上写真・本田村とは !(地図)
中写真・東立石3丁目の渋江公園の葛飾区セルロイド工業発祥記念碑-児童像(葛飾         区登録有形民族文化財)
最下 ・千種セルロイド四ツ木工場実測図(大正六年八月)
   
南葛飾郡本田村渋江のビロード織物工場ストの演説会に、村民が毎回400名、500名駆けつけた本田村とは !  東京ベルベット労働争議①―1927年の労働争議
参照・協調会史料
  ・「亀戸」(加藤文三)大月書店
  ・「丹野セツ」(山代巴・牧瀬菊枝編)

(立石、四ツ木の争議演説会に毎回村民400名、500名駆けつける)
警視総監の報告書「労秘」によれば、南葛飾郡本田村渋江のビロード織物工場の東京ベルベット争議団34名は会社の組合つぶしを目的とする不当解雇の撤回を求め、1927年10月27日からストライキを敢行します。10月30日、本田村四ツ木観音座で争議報告と会社糾弾演説会を開催し、村民約400名、関東合同労組や組合同盟などの応援組合員約100名の計約500名の人々が押しよせます。この日は当該争議団と組合同盟の政治部長加藤勘十、同役員の細谷松太など13名が登壇しています。11月10日夜 、本田村立石の立石館と同村四つ木の*観音座の二カ所で演説会を開催し、11月20日にも四つ木の観音座で行います。この4回の演説会にいずれも約400名から500名もの本田村村民がかけつけています。どこも応援労組組合員も100名ほどいますが、残りの参加者は村民がほとんどだったと「警視総監の労秘」は書いています。毎回の争議支援演説会に本田村の立石や四ツ木や渋江のこれほど多くの村民が駆け付けるとは、すごい数だと思いませんか。この数は「労秘」つまり警視総監報告ですから、実際はこれ以上の数かもしれません。わずか34名、うち9名が女性の地元「渋江」のストライキが、いかに本田村の人々の同情と共感を呼んでいたかわかります。
*四ツ木観音座
(1925年、葛飾初の映画館として「四ツ木観音館」(後の四ツ木館)が開館した。映画館前の通りは渋江観音座通りと呼ばれ、葛飾で最もにぎわう商店街となった。)

(本田村とは一体どんな村で、どんな歴史のある村だったのでしょう?)
東京ベルベット争議は1927年の争議ですが、協調会史料の最後の「労秘(東京ベルベット株式会社東京工場労働争議ニ関スル件)」が昭和3年1月7日とあり1928年の枠の中にありましたので今回の1928年学習で知ることができました。東京ベルベット争議については、次回報告する予定です。

(本田村地図―上写真)
本田村(ほんでんむら)は、東京府南葛飾郡の村で、中川と荒川(綾瀬川)が合流する葛飾区西部に位置します。本田村は戦前の四ツ木村、渋江村、川端村、若松村、篠原村の5つの各一部で、現在の葛飾区の四ツ木、東四ツ木、立石、東立石、宝町、青戸1丁目2丁目、堀切1丁目2丁目3丁目です(上の写真参照)。現在の駅は京成線の四ツ木駅、立石駅と青砥駅、お花茶屋駅です。戦前当時の所轄警察は亀有警察署であり、1946年に亀有警察から分離した本田警察は2002年に葛飾警察に改称されます。現在の葛飾区役所もイトーヨーカドー四ツ木店もかつての本田村の中に入ります。

(本田村の経緯)
1889年、四ツ木村、渋江村、川端村、若松村、篠原村の5つの各一部が合併して「立石村」が発足。
1890年(明治23年)5月10日 - 立石村を「本田村」と改称。
1914年(大正3年)4月1日 - 荒川放水路設置に伴い、大木村の放水路以北(大字上木下川、下木下川、木ノ下の各一部)を編入。
1928年(昭和3年)3月1日 - 本田村が町制施行して本田町となる。
1932年(昭和7年)10月1日 - 南葛飾郡全域が東京市に編入。本田町の区域は葛飾区の一部となる。

「葛飾区史」のホームページによると、
https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/3-1-6-159.html
1922年(大正11年)には本田村に22の工場が、1929年(昭和4年)には旧本田町内で操業する工場は51あり、その業種は染色業・布さらし業・ゴム工業・鉄工業・セルロイド製造業などがあった。同業種の工場が一定の地域に集まる傾向があり、染色業は立石や原、布さらし業は立石、鉄工業は渋江に多かったそうです。また時代がやや下りますが、昭和24(1949)年の統計によると葛飾区内の工場1274のうち、従業員9人以下の小さな工場が928に達し、これらの小さな工場は、労働力の半分近くが家族や親戚によってまかなわれ、経営規模が小さくなればなるほどその傾向が強かった。とあります。

「子ども葛飾区史」によると、
https://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-8-2-77.html
おもちゃ工場
1914(大正3)年に現在の東立石に千種(ちぐさ)セルロイド工場が建てられました。今に続く「おもちゃのまち葛飾」のはじまりです。この工場は、1920(大正9)年に廃業しますが、多いときには約250人もの労働者が働いていました。その後、四つ木や立石はセルロイド製のおもちゃの生産地として発展し、全国的に有名になり、海外に輸出もしていました。セルロイドは加工しやすく、おもちゃなどに使われましたが、一方で燃えやすかったため、ソフトビニールやプラスチック製品へと移り変わっていきました。

葛飾区セルロイド工業発祥記念碑(葛飾区登録有形民族文化財)
東立石3丁目の渋江公園に「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」があります。かつてここに「千種(ちぐさ)セルロイド工場」がありました。千種セルロイド工場は1914年(大正3年)に千種(ちぐさ)稔氏創業の労働者約250名の大きなセルロイド玩具製造工場でした。

(「千種(ちぐさ)セルロイド工場」で働いていた偉大な先輩加藤高寿)
実は、この地域、本田村、現在の立石、渋江、四ツ木などとその近隣村は、南葛労働運動の発祥の地の一つでもあったのです。現在の東立石の渋江公園敷地にあった千種セルロイド工場こそが、新人(全国)セルロイド職工組合四ツ木支部を約400名で結成し、初期の南葛労働運動をけん引した偉大な先輩加藤高寿、亀戸事件で26歳で虐殺された加藤高寿その人が働いていた工場だったのです。

(新人(全国)セルロイド職工組合結成)
1917年ロシア革命と18年の米騒動の時代、我が国においても「民衆の中へ―(ヴ・ナロード)」を相言葉とする1918年結成の東大新人会と結びついた亀戸のセルロイド労働者の渡辺政之輔が、1919年亀戸の永峰セルロイド工場にセルロイド工組合を作り、一日のストライキで勝利しました。新人(全国)セルロイド工組合は四ツ木と日暮里にも支部ができます。四ツ木支部長は加藤高寿で、日暮里支部長は岩内善作でした。南葛労働運動の第一歩がいよいよここからはじまります。後に岩内善作は総同盟の右傾化に反発し、総同盟第二次分裂で結成された組合同盟のリーダーの一人として幾十もの大きなストライキを指導しています。

(新人(全国)セルロイド職工組合四ツ木支部結成)
四ツ木支部長の加藤高寿は、亀戸事件で虐殺された南葛労働運動の活動家10名のうちの一人です。加藤高寿について、南葛労働運動の指導者渡辺政之輔(ワタマサ)は亀戸事件追悼の言葉でこう述べています。
『加藤高寿君』亡き同志を憶う 渡辺政之輔 (読書メモー「亀戸事件の記録」)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/547ca91d2e2160a94d6b7a2f32916cde
「僕らが大正八年五月全国セルロイド職工組合を組織しその発会式を挙げた時、君は待っていたとばかり、僕らの組合に加わって呉れた。」
「八月頃には労空しからず四百人の全職工を立派に組織し得た。そして四ツ木支部の発会式には佐野学、麻生久、赤松克磨の諸氏が来て大盛会の野外演説会をやったものだ。」
「九月頃にセルロイド産業全体に亘(わた)ってゼネラル・ストライキが勃発した。そしてそれに参加した四ツ木支部は加藤君初め有力な闘士の解雇や、産業の不振で残念ながら一敗地にまみれた。」と。

現在の東立石渋江公園の場所にあった千種セルロイド工場の労働者加藤高寿は、1919年(大正8年)8月、南葛労働組合の前身である<新人(全国)セルロイド職工組合四ツ木支部>を400名もの多くの本田村渋江の千種セルロイド工場をはじめとする地域のセルロイド労働者を組織し結成します。この時の支部結成発会式には佐野学、麻生久、赤松克磨というそうそうたるメンバーがかけつけ、しかも「野外演説会をやった」とワタマサは言っています。屋内では入りきれなかったのです。

(地域ゼネスト)
1919年9月、地域のセルロイド業界で争議が多発し、ついに地域ゼネストに発展します。本田村地域全体がどえらい騒ぎだったことでしょう。しかし、この時の闘いは敗北し、リーダーだった加藤高寿は解雇されます。しかし、加藤高寿はその後も渡辺政之輔らと共に南葛労働運動の先頭に立ち、数多くのストや争議を支援、指導します。加藤高寿は1922年には渡辺政之輔らと「南葛時報社」を作り、『南葛時報』を当局へは無届けで発行します。(無届けの『南葛時報』発行で渡辺政之輔は出版法違反でつかまります。)

(足立機械製作所の「機械打ち壊し」工場破壊闘争)
1921年1月鬼工場と呼ばれた労働者を残酷に酷使虐待する工場として有名な南葛飾郡吾嬬町の足立機械製作所のストライキを加藤高寿は望月源太らと支援し、有名な「機械打ちこわし」「工場破壊」闘争を展開します。この事件で加藤ら40人が検挙され、加藤高寿は騒擾罪で1年2カ月の刑に処せられます。望月源太はのちの組合同盟の関東合同労働組合の組合長で、今回の東京ベルベット労働争議の直接の指導者です。
「足立機械製作所」の機械打ちこわし争議 1921年主要な労働争議①(読書メモー「日本労働年鑑」第3集1922年版 大原社研編)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/1e0654ba0cac31129c9f3a18afbc0910
「この工場襲撃、機械打ちこわし争議は、我が国労働運動史上空前の出来事だった。恐慌、事業縮小、解雇、失業と日々追い詰められ苦しみの頂点にいる全国の労働者階級にとって、とりわけ極度の迫害と高圧により陰惨な経験を持つ東京方面の労働組合界の闘士の脳裏には悲痛な印象が烙印せられたであろう」とこの時の労働年鑑は書いています。

(南葛労働協会の創立)
1922年11(10)月25日、南葛労働協会が創立されます。渡辺政之輔、加藤高寿、吉村光治、川合義虎、南厳ら11人が発起人となっています。翌1923年1月29日、労働組合「南葛労働会」と改めます。「南葛の三羽ガラス」の一人加藤高寿は四ツ木支部長として活躍します。南葛労働会は、富士紡のストライキ支援やまた遠く千葉の野田醤油争議にもはるばる歩いて支援に向かうほど士気の高い戦闘的労働組合でした。
南葛労働運動
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/bfdb403fa1e221e695717a12ae2c4031

(革命思想学習)
渡辺政之輔の妻丹野セツによると、亀戸の長屋の加藤高寿のうちは、南葛のみんなが集まる場所となり、「資本論」「共産党宣言」「賃労働と資本」などの思想学習をします。労働者同士が互いに講師となり生徒となる研究会を熱心に続けます。

(亀戸事件)
1923年9月3日関東大震災時の「亀戸事件」で亀戸警察署に検挙され権力によって虐殺された10名の一人が加藤高寿で26歳の若さでした。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/cabc206107ec783eb359f59e9a4f96b9
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ca1aca493271b06da082d86f734b67ad
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ab3dc3c26e8a710a761dd8f3ad1e93b2
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/b81419c0aae3cdce204aa00a05507a1a

(4年後の本田村渋江のビロード織物工場東京ベルベット東京工場労働争議)
1927年に葛飾本田村渋江のビロード織物工場東京ベルベットで34名労働者のストライキが起きます。立石、四ツ木で開かれた争議報告、会社糾弾演説会には毎回400名から500名の村民がかけつけています。加藤高寿や南葛労働運動の歴史を紐解けば、その理由がわかる気がします。演説会に実に多くの村民がかけつけたのは決して偶然ではなかったのです。

翌1928年には本田村のすぐ近くの隣村堀切の町工場のストライキもあります。
我が堀切の町工場32名の先輩労働者、仲間の解雇に反対しストライキ決起! ―1928年の労働争議(読書メモ) 
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/330311da6caa3055f8c289240c82d64e

1930年には葛飾四ツ木の「大和ゴム争議」もあります。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/9fa37f9e1cdd1ba7df95fe68ec624e49
この時の四ツ木駅に貼られたビラは、明らかに本田村村民に向けたものです。この内容をみると、この頃も労働組合争議団と村民の距離は今では信じられないほど近かったことがわかります。

次回
本田村渋江の東京ベルベット株式会社東京工場労働争議②を報告します。


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