日本交通労働組合結成と壮絶な闘い
参照『東京交通労働組合史』(東交史編集委員会 発行東京交通労働組合)
【ここに5日間にわたる市電大ストライキは、言語に絶する大弾圧の結果、無残にも争議団側の全面敗北によって幕を閉じた。4月30日全線が運転操業した。
解雇された者328名、投獄された者83名、起訴された者34名の多きに達し、ついに組合は結成8ヵ月で事実上壊滅の余儀なきにいたった。このように結成後わずか8ヵ月にして日本交通労働組合は崩壊したが、しかし、初期の労働組合としてはまれに見る積極的な活動を展開し、その闘争を通じて、労働条件の改善を実現したほか、ややもすれば奴隷視されがちであった市電労働者に対して、人間尊重のきっかけをつくったその功績は見逃し得ないものがあった。またこれが、やがて生まれる東京交通労働組合の基礎ともなったのである。】
日本交通労働組合結成
1919年8月末日に成立した日本交通労働組合は、9月10月と本所支部、三ノ輪支部、三田支部、青山支部、巣鴨支部、浜松町支部、広尾支部、新宿支部などの発会式を挙げた。11月8日大争議がスタートした。
「従業員の人格を尊重しろ」と東京市電日本交通労働組合の要求
11月8日東京市電気局各車庫の運転手車掌は「日本交通労働組合」の名で、電気局長に「①従業員の人格を尊重しろ ②8時間制に ③歩合制を止めて日給制に ④期末手当2か月分の支給 ⑤退職金の支給」等の要求書を提出した。驚いた電気局は、8日夜亀沢町車庫、青山車庫、三田車庫、三輪車庫等の島上勝次郎(島上善五郎の義父)など10名の労働者を首謀者として一方的に解雇してきた。9日、中西交通労働組合理事長以下代表の面会申し入れも拒否され、10日早朝平井総務課長に要求書を提出し、10名の解雇通知書を「あくまで戦う」と突き返した。11月21日組合は21ヶ条の改善要求を提出した。
年末もおし迫り労働者の憤激は日ごとに高まり、労働者は毎日のように電気局にデモを行い、ある時は投石をしてガラス戸を破壊し、ある時は電車の先頭に赤旗を立てて青山教習所の裏山や麻布四ノ橋の弥勒座で報告会を開くなど、大いに気勢をあげ、事態は刻々と急迫していった。
井上電気局長は各新聞社に「8時間制にすると、現在の8300名の外に更に約2000名も雇わねばならない。そうなれば電車賃の値上も必要になる」等話す一方で各車庫の監督を使い団結の切り崩しに奔走した。
組合は12月10日報告演説会を開催した。会場は正服や和服の運転手車掌で満員となった。13日10名の解雇の責任者山本電車課長は引責で辞表を提出したと噂された。しかし、浜松町工場の遠山、西村、汐見、青山等を中心とする連中が交通組合に反感を抱き、警視総監等を訪ねて、協調会の協調を求めたり交通労働組合の急進的行動を不快とし脱退して別派を作るなどと言った。被解雇者は山崎今朝治弁護士を代理人として電車課長を訴えると言っている。組合は遠山一派を除名にした。12月13日頃には「30日から年始にかけたストライキ」と再び「局長、課長の排斥」の声が高まった。市当局は驚き、内務大臣に応援を求め、岡警視総監が仲裁をする事となった。警視総監は「年末手当の増給」などの仲裁案を提案したが、労働者は背後に警察力を持つ強圧的な仲裁に極度の反感を持ち、総裁の仲裁案を拒絶した。各支部から断固闘うの決意を示す最後に処すべき辞職届けが続々届けられ、本部にその山が作られた。こうして労働者の中で「ストライキ」「サボタージュ」の声と組合歌がひとしきり高唱された。当局はスト破り対策として陸軍より工兵隊、交通大隊、鉄道大隊、在郷軍人会や某自動車学校にも応援を求めた。17日東京市参事会は、要求の内退職手当の件を満場一致で可決した。岡警視総監と市参事会の意向を容れ、ひとまず組合幹部も争議休止に傾いた。
1920年になってその後当局の一向に改善する姿勢を見せないことに怒った労働者の一部は1月21日サボタージュ闘争を始めた。2月6日労働者は教修所裏山に集結した。これに驚愕した当局は再び岡警視総監に調停を依頼し、21日、長官は「先にクビにした10名の復職」を条件に事態の収拾を提案した。しかし、労働者側は先の要求への解決条件が一つも示されないことに、ますます憤慨し、2月16日「組合は最後通告を出し、拒絶された時は断固一斉ストライキを決行する」「全員の辞職届を組合に集める」と決議した。組合本部には各支部の労働者から届けられた辞職届の書類が山積みとなった。
サボタージュ闘争から5日間にわたる全面ストライキ
2月24日夕刻から巣鴨車庫がサボタージュ闘争に突入した。こうして5日間にわたる全面ストライキが決行された。早稲田、本所、新宿、青山の各車庫に波及し2月26日夜には全線の57%、28日夜には74%の運転車が減車した。
25日、警視庁は制服警官を動員して各車庫を厳戒した。さらに私服刑事を八方に飛ばして争議団の弾圧を開始した。憲兵隊も各車庫の張り込みを行った。
27日官憲は報告演説会を理由に治安警察法第17条違反で組合の中西理事長を東京監獄に収監した。
27日夜半、電気局はついに、最も戦闘的な巣鴨支部の車掌小林大吉以下359名、運転手森口辰吉以下216名を解雇してきた。
翌28日、当局は「優遇案」なるものを発表してきた。
組合はこの当局の「8時間制の実施」「賃金の値上」「時間外3割割増」「公休出勤手当の増」「公休手当の支給」などの提案と29日には巣鴨被解雇者全員575名の復職も認められたので、ひとまずストライキを打ち切った。
中西理事長は監獄収監一ヶ月後保釈され1920年4月1日に出獄した。労働者の「優遇案」への不信・不満は中西理事長の出獄を機に再び盛り上がった。さらにこれに油を注いだのが当局の組合切り崩しで、大塚支部長への不当配転命令攻撃や管理職や反動的勢力を組織した「中正会」「正義会」などにスト破りをさせようとする策謀であった。
風雨まさにいたらんとする静寂のうちに4月25日早朝ついに大塚出張所がストライキに突入した。きっかけは助役による親組合派の監督への不当極まる差別待遇に、日ごろの全労働者の義憤が一斉に爆発したのである。かくしてストライキは大塚、早稲田、新宿、有楽橋、広尾の各車庫にまたたくまに拡がり、ストライキ全労働者は雑司谷の玉椿相撲道場にろう城し、持久戦を覚悟した。その数約1千名を越え、各支部旗を翻し米俵を積み、食事の炊き出し、寝具の搬入、自転車による連絡員の出入り、組合歌の高唱等場内のざわめきはあたかも戦争がはじまるような騒ぎであった。
組合歌
1、文化の母と謳(うた)わるる 交通労働の権威をば
今こそ天下に宣言すべく 起ちし数万の労働者
2、三千年来い因習の 重き鎖につながれて
進取を知らぬ長夜の眠り 友よ目覚めよ明け近し
3、アルタイおろし吹き荒れて 太平洋に浪さわぐ
一致協力団結かたく 自由のために戦わん
4月25日夜10時半中西理事長は巣鴨署に検挙された。
ストライキ参加者は千数百名に達し中西理事長の検挙に怒り、意気きわめて旺盛であった。警視庁方面監察官正力松太郎は、特高以下多数の警察官と憲兵隊を動員し玉椿相撲道場を包囲した。同夜午前零時正力監察官はゲートル姿で道場に入り、突然片手を挙げて「解散」と叫んだ。そのとたん道場内の階上階下のすし詰めのストライキ労働者は一斉に喚声をあげ総立ちとなった。官憲はめぼしい労働者の検束をはじめ、たちまち殴る蹴るの乱闘となった。おりからの豪雨の中、労働者は、傘もなく下駄もなく、ずぶ濡れのまま追い出され、いたるところで官憲と小競り合いを演じた。暗闇の中で双方激しい泥中の組み打ちの怒号叫喚はものすごく、劣勢となった警官は予備軍の応援を得て労働者約30名を検束した。
26日、玉椿道場を追われた労働者は市外尾久町ラヂユーム温泉硫雲寺に1600名が集結した。しかし、同日午後1時再び解散を命じられ、同夜吉原堤の新世界に集合して持久戦を協議した。
4月27日収監されている組合幹部46名が警視庁から検事局に護送された。4月28日組合の残留幹部はストライキ中止を内外に向かって宣言した。
弾圧
追い打ちをかける当局は組合を徹底的につぶそうと4月29日各新聞に「東京市電車掌運転手に告ぐ」「4月30日に出頭し将来ストライキ又はサボタージュに参加しないと誓約すれば解雇しない」との趣旨の広告をだし、更にストリーダーの組合員254名の懲戒解雇を発表した。
ここに5日間にわたる市電大ストライキは、言語に絶する大弾圧の結果、無残にも争議団側の全面敗北によって幕を閉じた。4月30日全線が運転操業した。
やがて生まれる東京交通労働組合
解雇された者328名、投獄された者83名、起訴された者34名の多きに達し、ついに組合は結成8ヵ月で事実上壊滅の余儀なきにいたった。このように結成後わずか8ヵ月にして日本交通労働組合は崩壊したが、しかし、初期の労働組合としてはまれに見る積極的な活動を展開し、その闘争を通じて、労働条件の改善を実現したほか、ややもすれば奴隷視されがちであった市電労働者に対して、人間尊重のきっかけをつくったその功績は見逃し得ないものがあった。またこれが、やがて生まれる東京交通労働組合の基礎ともなったのである。