東京市電従業員自治会(本部派)の奮闘②―1928年の労働争議
東京市電は、1927年8月、第2回目の大分裂により左派の「東京市電従業員自治会(本部派)」と右派の「市電自治会現実同盟(現同)」に分かれた。1928年(昭和3年)3月15日、治安維持法の初の本格的適用となった3.15事件で、市電自治会本部派から島上善五郎ら活動家や青年が逮捕投獄され自治会本部派の力は極端に弱まった。それに乗じた当局の攻勢が強まり労働者の待遇は日に日に目に見えて悪くなっていった。そこに経済不況が襲いかかった。組合員にとって労働組合の弱体と分裂がいかに労働者に痛みを負わせるか身に沁みて理解した現場組合員から今こそ統一をとの切実な声が上がり、労働組合統一への声と運動はかつてなく盛り上がった。多数の労働者はくりかえし左右両派の本部に押しかけ、強力に突き上げた。1928年12月、両派は話し合いをはじめ、1929年(昭和4年)6月25日、1年10ヵ月の分裂と苦難を乗り越え、組合名も「東京交通労働組合」とあらため、芝協調会会館において感激の合同大会を開いた。以後しばらく東京交通労働組合は戦前の合法的左翼運動の中心的役割を果たしていく。
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東京市電従業員自治会(本部派)の奮闘②―1928年の労働争議
参照 ・「東京交通労働組合史」東交史編纂委員会遍
(10月2日大衆動員で闘う)
1928年9月17日、東京市電従業員自治会(本部派)は退職手当金給与規定の改正、ほか44項目の待遇改善嘆願書を当局に提出し、10月2日の回答日、電気局に対して大掛かりな大衆動員で闘った。
(嘆願書)
一、退職手当の五割増
二、二重処罰の撤廃()
三、移転手当の改善
四、御大典と市奉祝日出勤者に奉祝手当十割増の支給
五、井上一正の即時復職
六、忌引き休暇の改善(死産の場合一日を三日に等)
七、点呼召集で賞与減はやめろ
八、除隊者の復職を認めろ
九、罹災給の全額支給
十、勤務時間に関する件(遅刻・早退に対し、倍額控除の撤廃等)
十一、給与に関する件(非乗務の時間も労働時間として計算し、7時間を超える場合は中休時間給を支給すべし、食事時間も労働時間として計算すべし等)
十二、車体及び諸施設の改善(危険場所に信号手の配備を等)
十三、信号手の出張時分を支給すべし
十四、信号手の昇給期間を乗務員と同一にすべき
十五、雨合羽を支給せよ
十六、少年車掌の件(少年車掌の組合加入を認めろ、少年車掌にも出入庫手当を支給せよ等)
十七、健康保険組合給付の改善(公傷者の転地療養の食費支給、町医選択の自由と診察費の当局全額負担)
十八、電気局病院(診断書料の撤廃、病院・診療所の増設)
十九、共済組合(傷病見舞金の改善、食券一銭券の発行)
二十、補助手、技工の差別の撤廃(最低昇給率の制定、公休日を八日目に一日の支給等)
等
(ほとんどの女子車掌の決起、ストライキ)
10月2日の闘いの日、市電自治会(本部派)の動員指令に男性運転手の大部分は車内に残ったが、女性車掌のほとんどが、この大衆動員に決起し、電気局食堂及び本所喜楽座の演説会場に押しかけた。この日、自動車新宿支部は事実上のストライキとなった。
(当局の巻き返し・女性車掌3名ら懲戒解雇攻撃)
翌10月3日、新宿支部のストライキに激怒した電気局は、自治会新宿支部長篠田八十八と副支部長工藤正吉の両名に無期限出勤停止を命じ、さらに女性車掌のリーダー3名を懲戒解雇処分にしてきた。
(「婦人車掌に生理休暇3日間の支給」要求)
10月6日、市電自治会(本部派)は女性車掌らの復職などを要求し、闘いのひぶたを切った。この時の要求の中に、「婦人車掌に生理休暇3日間」「婦人車掌乗客手当を運転手と同額」「死産の場合忌引きを三日間」などもある。
*「婦人車掌に生理休暇3日間」の画期的な要求と多数の市電女性車掌労働者の決起は東京全域の女性労働者に大きな影響を与えた。この頃、民間で「青バス」と呼ばれた東京乗合自動車会社車輛部の女性車掌たちが呼応し決起している。青バスでも健康保険獲得、生理休暇の要求、オーバーの支給などのスローガンを掲げストライキに入った。(参照「山花てるみ 100歳―輝いた日々を刻んで―」)
(「安全デー」戦術)
1929年4月4日、市電自治会は各支部に対し「明日5日より安全デーを決行せよ」の指令を書留速達で発送した。その日の夜あわてた警視庁は篠田八十八など指導部中心分子8名を一網打尽に検挙する大弾圧をかけてきた。しかし自動車部労働者の結束はますますかたく、翌5日始車より全線指令通り「安全デー」闘争に突入した。この事実上のサボタージュ闘争は4月10日にひとまず鉾をおさめるまで5日間も闘われた。
(3.15事件)
3.15弾圧で島上善五郎や北牧孝三、小林信吉ら市電自治会(本部派)の有力幹部が検挙された。にわかに市電当局は組合に対し強硬態度で立ち向かって来た。調子に乗った当局は、たちまち労働者の労働条件の改悪、不当処罰の強行連発を重ねてきた。労働者の圧倒的な不利を打開しようと1928年12月、両派は話し合いをはじめ、1929年(昭和4年)6月25日、芝協調会会館において合同大会を開き、組合名も「東京交通労働組合」とあらためた。
(新党組織準備会)
1928年解散させられた労農党は、1928年7月29日、評議会系の東京市従業員組合や関東金属労働組合などが、本所公会堂で「全国単一労働組合総連合関東地方協議会」創立大会を開いたが、官憲は多くの代議員を検挙し、大会は解散を命じられた。
また、「新党組織準備会」は、12月22日から三日間、本所公会堂で新党(労働者農民党)創立大会を開いたが、最終日の24日、大会の解散命令を受け、「新党組織準備会」も結社禁止を命じられた。
以上