同時一斉に立ち上がった岸和田の三つの紡績工場の大争議 1923年主要な労働争議② (読書メモ)
大阪岸和田(泉南)の地で
三つの紡績工場の労働者が同時一斉に立ち上がった
参照
協調会資料(泉南地方争議 寺田紡績、和泉紡績,岸和田紡績)
労働年鑑第5集/1924年版 大原社研編
寺田紡績工廠(男工480人、女工560人)
和泉紡績会社(男工611人、女工2245人)
岸和田紡績会社(春木分工場、男工649人、女工1794人―野村分工場、男工433、女工1175人)
応援組合
総同盟関西聯合会
同泉州聯合会
大阪機械労働組合
大阪合同組合
大阪伸銅工組合
煙草労働組合
大阪印刷労働組合
造船労働組合
織物新聞組合
桑畑電機争議団
大正鍍金争議団
向上会
野武士組等多くの労働運動組織
他多くの学者など
1923年
11月25日
11月に入って錦糸相場が高騰し紡績会社の増産が続いた。 寺田紡績の労働者は、「会社は俺たちに僅かな賃金しか支払わずに他の剰余利得はみな重役の懐に入るばかりだ。実に怪しからん」と不満をもらすようになった。しかも最近東洋麻糸会社と長崎紡績などで争議が起き、賃金や夜勤手当値上げの動きがあった為、寺田紡績の会社は、争議を起こさせまいとして先手を打って、平素から総同盟の活動家、組合関係者の注意人物とみていた4人の労働者を解雇してきた。解雇された4人は、日本労働総同盟泉州聯合岸和田労働組合南町支部の応援を求め、また労働者200名(通勤男工150名、同女工50名)と結束した。
寺田紡績の労働者は、「①賃上げ、②食費の値下げ、③浴場食堂等の設備改善と育児所の設置、③病休中は、賃金の半額支給、④解雇された4名の復職」等の6要求を提出した。寺田紡績は即時にこの要求を拒絶してきた。
26日
寺田紡績労働者男150名、女50名の計200名がストライキに突入した。
和泉紡績では昨年8月に工徳会という組合組織を作ったが会社が徹底的に弾圧し労働者は涙を呑んで工徳会を解散した。柴田工徳会代表は会社を追われ、浪々の生活を送っていたが、最近彼は春木に戻り、和泉紡績の職工と共に大阪合同労働組合の支部結成に向けて熱心に活動を始めた。工徳会メンバーであった3名の労働者は柴田の支部創立運動に参加し、ついに和泉紡績の中に大阪合同組合岸和田支部が生まれた。彼らは、寺田紡績に燃える火をみて今が好機とし、26日午後会社に「①賃金2割増、②夜勤手当の値上げ、③善良なる医者を雇い入れること、④浴場と食堂の改善(入浴代金の全廃)」等を要求したが、会社はこの要求をことごとく拒絶してきた。これを聞いた和泉紡績のその日の夜勤労働者女工2千人、男工600人はたちまちサボタージュ闘争に入り、夜11時頃には紡績機を全部止めた。会社は翌27日午前7時の交替時間より無期臨時休業を発表した。
地域の紡績工場労働者が決起したため、岸和田紡績春木分工場でも好機逸すべからずと労働者代表12名が「日給3割増」「入浴料の廃止」その他寺田・和泉とほとんど変わらない要求を会社に提出したが会社がなんらの回答をしてこなかつたのでたちまちサボタージュ闘争に突入した。
27日
寺田紡績の400名はストライキを続け、和泉紡績では臨時休業となり、岸和田春木分工場は門扉を固く閉ざし、社外との連絡を全く途絶されたが、職場ではサボタージュ闘争状態は続いている。午後5時堺、今宮などの各警察署から約50名の巡査が動員された。
夜6時頃三つの紡績工場ストライキ労働者男女工約1千500余名は、岸和田の野村海岸に集結して市内に向けて一大デモに移ろうとしたが、大阪府の特高と岸和田・堺・今宮・佐野警察署の警官約150名に阻止され、夜の12時に解散した。
28日
午前7時来迎寺に、ストライキ労働者(岸和田春木160名、和泉500余名、寺田240余名)900余名が集合した。大阪聯合会が演説を開始したとたんに、警察官が解散を命じてきたため労働者との間で乱闘が起き13名(女性2名)が検束された。
寺田紡績ストに、大阪合同組合大和田支部の松岡紡績争議の労働者が応援に来た。午後社員がストライキ労働者に暴力をふるったという報告があり、争議団員は憤慨した。
和泉紡績では、会社と2時間半におよぶ交渉が行われたが、会社は浴場の改善と今は犠牲者(解雇)はださぬことの2項目は承諾したが、賃金値上げなどは拒絶した。岸紡春木分工場でストライキが始まった。この日早朝応援にきていた大阪機械労働組合の幹部2人が検束されたため、労働総同盟はさらに応援団を増やし、現地に派遣した。
29日
三紡績のストライキ労働者男子500人は午後一時春木海岸に勢ぞろいして三紡績工場付近に2回のデモを敢行し警官隊と衝突した。寄宿舎内に監禁されている三工場の約4千800人の女工は、みな男子労働者に同情している。
和泉紡績では会社が寄宿舎の女性たちを懐柔しようと浪花節の廣澤一行を雇い浪花節大会を開催したが、和泉紡績の女工約20人が工場から脱出して争議団本部に駆け込んだ。和泉紡績・岸和田春木工場のスト争議団男女約600余名は、午後2時岸和田共同墓地空き地に集合し和泉紡績寄宿舎に向かって、革命歌を高唱しながら行進した。寄宿舎の二階の窓に多数の女性労働者が現れ喚声を上げ、デモ隊に声援を挙げたのでデモ隊の気勢はますます高まり、その一団は北進し八幡山に入った。警察官約20名が自動車で乗り付けデモ隊に解散を命じたがデモ隊はこれに応じず、ここでも衝突が始まり、4名が検束された。夜、争議団は「女工の声を聞いてください」のビラを岸和田市中に配布した。
寺田紡績の争議団員約250人は午前8時工場門前に殺到して寄宿舎にいる女工を解放せよの声を挙げたが、警官の解散命令が出て、乱闘が起きた。大阪合同組合の2名が検束された。午後争議団は社長宅に押し寄せ社長夫人と面会し要求書を手渡した。
かくして泉南地域の3つの紡績会社の4工場は操業が完全にストップした。寄宿舎に閉じ込められた4800人の女工たちも嘆願書を作りだしたと伝えられ争議はますます白熱化した。労働総同盟は大阪聯合会主事藤岡文六を派遣し、警察は異常な緊張を示している。
岸紡春木は男女工610名がストライキに入っている。会社の面会拒絶に怒った争議団は午後事務所前で抗議行動を行った。
30日
寺田紡績でスト破りが増えてきた。午後11時、寺田紡績のスト争議団100名が工場正門前で激烈な演説をし、警察は解散を命じ1名を検束した。
和泉紡績、午前10時スト争議団約300名は工場包囲のデモを行い、1名が検束された。
岸紡春木分工場、午前10時スト争議団は、寄宿舎に閉じ込められた仲間たちを救出しようと行動し、警官隊と格闘しつつ、ついに200余名の仲間たちを監禁された寄宿舎から助け出すことに成功した。また炊事部、電力部、機械部の労働者もストライキに立ち上がり、デモを敢行した。
岸和田紡績の野村分工場においても女工に欠勤者(スト)が多く、労働現場でもサボタージュ闘争が続いている。正午までに男女工約400名が工場から退場した。午後8時7名の労働者が作業を妨害したという理由で岸和田署に検束された。
内務省社会局と大阪府特高課が和泉紡績と岸紡春木工場に緊急視察にきた。翌日寺田紡績も視察した。
12月1日・2日・3日・4日とストライキ争議団1千人は連日春木海岸で『運動会』を開催。
1日
三紡績争議団は協議して各工場に残留している仲間たちに「ストライキに参加しよう」と檄を飛ばすことと一大示威行動(デモ)の敢行を決定した。この日のデモは一人の検束者も出なかった。
寺田紡績では昨日よりもスト破りが増えてきている為、会社は「争議は近いうちに解決する」と元気づいている。
反総同盟の組合員が大挙して岸和田支援にくるとの噂が高い。
2日
岸和田紡績野村分工場でサボタージュ闘争の精紡部女工約200人が突如ストライキに立ち上がった。精紡部の山田栄作は「怠業せよ」と煽動したという治安警察法違反で岸和田警察署に検束された。争議団は「岸和田市民に訴える」のビラ(写真)を市内中で配布した。
3日
寺田紡績ではスト破りが多数出ている。
和泉紡績ではスト破りは甚だ少ない。会社は「まじめに就業する方の入場を歓迎します」のビラを配っているが効果はない(4日の出勤者は男41人、女210人)。
岸紡春木、スト参加者は約5割
岸紡野村、スト参加者は約6割
調停促進団(岸和田市長、泉南郡長、村助役、・・)が市役所で協議した後、各会社にでかけ重役と話す。
4日
日本労働総同盟関西同盟会が緊急理事会を開催
決議
一、各社争議(岸紡、和泉紡、寺田紡、戸畑旭硝子、大正鍍金、桑畑電気、織物新聞)を一括して労働総同盟関西同盟会の争議として徹底的に応援すること
二、各連合会からスト資金を支給し、必要に応じて若き闘士を続々と現場に派遣すること
三、野武士組の総動員を行う事
また、向上会と煙草労働組合も総同盟と共同戦線に立つ事を決定した。
岸和田市長や泉南郡長らが「(三紡績争議)調停促進団」として市役所内で緊急協議を続けている。
寺田紡績、スト破りの出勤者が増えた。
和泉紡績、会社はスト労働者に「出勤せよ」のビラを配布したが、これに応じた労働者の出勤者は甚だ少ない。この日の通勤職工の出勤者は、男33名、女210名であった。
5日
寺田紡績は就業は平常に戻る。
岸和田野村工場罷業団846名は誓約書を作り団結を固め、新たな要求書と決議文を発表した。
要求
一、日給3割値上げ
一、解雇手当と退職手当を制定すること
一、傷病者を優遇する事
一、解雇者の復職
一、本争議での犠牲者を出さないこと
一、スト中の給料の支給
決議
「幾年来私たちは因襲的伝統的な教育によって飢餓と寒さと疲労と戦いつつ非常な危険工場に入り、安い賃金と粗食を一貫して甘んじてきた。しかし、我らは人間である。豚や牛ではない。パンを求め衣を漁り疲労を寮すべく要求するに不思議はない。しかし、我が信頼すべき岸和田紡績会社野村工場はこの正義の要求を拒絶した。なおこれに対し福田貞造君を解雇して挑戦の態度に出てきた。力なき我1千2百の同工場に働く同胞はこの際立たなければならぬ時機が至りました。1千2百の生霊は今や街頭に迷う。」(野村分工場 争議団本部)
6日
労働総同盟は「総同盟は徹底応援を決す」(写真)のビラ3万枚を岸和田全市と京阪神の労働者街に配布した。総同盟より金100圓、官業労働同盟より金100圓その他が争議団本部に送られ、争議団員は非常に喜んだ。
寺田紡績はスト参加者4名を解雇してきた。また、自分から退職する者が甚だ多い。
(寺田紡績敗北の「協調会」の総括)
この日寺田紡績争議は終息した。なぜ寺田紡績争議は惨敗したか。
一、寺田紡績の罷業団に少しも金がなかった為
一、応援の闘士が無能な者ばかり、しかもその闘士が熱心に応援しなかった為
一、職場労働者に裏切者が続出した為
一、泉南のストライキ幹部が、「戦闘集中主義」を主張し、寺田紡績のストライキ争議団への力添えをしなかった為
一、社長寺田がある政策を行った為
7日
三争議団は、総同盟大阪聯合会堺支部応援のもとで、来迎寺広場で午前11時半より労働争議大演説会を開催し約1000名が参加した。野武士組や大阪合同労組、大阪機械労働組合らが盛んに資本家及び官憲を攻撃する演説を行った。争議団は岸和田市民に支援を訴えるビラを配布した。
8日
和泉紡績会社は朝「諸君の要求は拒絶した。今後も絶対に応じないから出勤するが得策である」というビラを配布した。春木工場の争議団は午前工場付近で示威運動をした。
岸和田警察署は、泉南聯合会の幹部2名を「労働者を煽動した」とする治安警察法違反で起訴した。あと2名も近く送検する。
夜6時30分より天王寺公会堂において総同盟関西同盟会主催の泉南のストライキ応援、会社批判演説会が開催された(入場料30銭、聴衆約千名)。一労働者は「我々は人類愛を叫ぶのになぜに官憲が中止をしたり検束をしたりするのか。官憲の頭を根本的に改造しなければならぬ。マッチは水では火がつかぬ」と絶叫した。官憲はこの労働者の顔を殴り、怒った約30名の労働者が演壇に飛び上がり乱闘となり、会場は総立ちになる。9名が検束された。
(市街の大衝突)
9日
岸和田駅に総同盟大阪聯合会と官業総同盟の泉南争議応援団が、官憲の妨害をはねのけて到着した。これを歓迎しようと約2千人の三紡績ストライキ争議団が隊伍を組んで駅に向かおうとすると警官隊の妨害が始まり、労働者と警官隊の大乱闘となり、多くの負傷者と検束者がでた。
(午前9時関西同盟会員約200名が江成町に集合し、いざ岸和田へと隊伍を組んで難波駅に向かおうとした。官憲約30名が妨害したため一大衝突が起き13名が検束された。この衝突の中、福島署の一巡査が心臓麻痺で街路で倒れたまま死んだ。午前11時48分、関西同盟会員約50名が岸和田駅に到着した。この50名と争議団員約500名が警官約100名と衝突し、ここで約30名が検束された。大津駅と春木駅で下車した大阪の応援隊約100名は岸和田市並松町付近で警官隊と衝突した。ここで6名が検束された。争議団本部の来迎寺付近でも大衝突があり10余名が検束された。多数の負傷者が出た。岸和田市民は米騒動に次いでの大騒動にみな戦々恐々としている。)
10日
岸和田警察署長は労資双方を熱心に説得し調停を働きかけた。争議団は協議の結果、少数の反対意見はあったが、岸和田署長の調停に一任することを決めた。これを受けた署長はただちに車に乗って和泉紡績、岸和田紡績、寺田紡績の各重役を訪問した。
11日
午前8時、岸和田警察署長は争議団に「和泉紡績は休業中の賃金3日分、岸和田紡績は見舞金3千圓、寺田紡績は同300圓支出する他、争議に関係して解雇された者への退職手当金の支給と帰国旅費、入浴料無料、食費の値下げや工場内の浴場など施設の改善の実行」の条件を提案した。最終的に争議団はこれを受け入れ12日からの無条件での就労を発表した。こうして前後17日間に及ぶ争議は終結した。争議団は午後1時より泉座において職工大会を開き顛末を報告した。
(会社の報復)
12月13日三紡績でスト参加者に解雇の嵐が襲った。
被解雇者数
寺田紡績 16名
和泉紡績 52名
岸和田春木 48名
岸和田野村 22名
*岸紡春木工場で解雇された者は有志相集まって岸和田市で八百屋店を開業した。寺田紡績と岸和田野村の解雇者有志も近く岸和田市で自転車店を開業する計画をしている。