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「聞け! か弱き少女の悲壮なる叫びを。聞け! 勇敢なる闘士の血の叫びを!」
三国紡績争議と横河争議の大罷業演説会ビラ(1923.3.9)
三国紡績争議 1923年主要な労働争議① (読書メモー「労働年鑑」第5集/1924年 大原社研編)
参照
協調会資料(三国紡績会社争議)
労働年鑑第5集/1924年版 大原社研編
三国紡績争議
大阪府西成郡神津村、三国紡績会社。会社は、前年12月不況を理由に3回にわたり賃金値下げを強行してきたため労働者1200余名の中にストライキの機運が高まってきた。
1923年3月2日、労働者側は堤某を代表として「賃金2割を本俸に入れ、1割の歩合増」他4か条の要求を会社に提出した。しかし、会社はこの要求を即座に拒絶したばかりか、堤労働者代表をすぐに解雇してきた。労働者一同は、あらたに代表10名を選び、会社に再要求した。
5日、あらためて会社の回答を求め専務に面会を要求したが、これも拒絶された。職場の労働者はすでにサボタージュ闘争状態であったが、この専務面会拒否の報告を受けるや就業中の女性労働者約450名は大阪紡績組合、労働総同盟大阪聯合会の応援を得て、午後6時半組合旗を先頭に工場現場から一丸となって会社表門を突破し、そのまま会社の周囲を廻るデモを敢行し、会社裏の広場に集合した。そのまま、この広場で野外演説会を開催した。ここに同夜の夜勤予定の男子約250名も合流した。また寄宿舎に残された女子約800名も脱出した仲間に呼応してこの日以降仕事につく者はいなかった。こうして三国紡績の外と内の大ストライキが敢行された。
6日朝、寄宿舎の衣類を求めて女子約300名ら争議団500名が工場正門から入場しようとしたが、会社は門を閉めて入場を拒んだ。しかし、労働者は応援団と共に大阪紡績組合の旗を先頭に、大挙して裏門や塀を破り構内に突入し、寄宿舎から衣類や所持品を持ち出し、そのまま会社内食堂を占拠し、そこで大演説会を行った。午後4時のデモに対し警察本部から動員した警察隊が弾圧を開始し、激しい攻防のすえ労働者33名を検束した。寄宿舎を脱出した女性たちはこの夜、各争議団員の家々や社宅に分宿した。
会社は、約80名のゴロツキや人足を雇い入れ、ゴロツキらに木刀や竹刀で武装させ工場の警戒に当たらせた。
7日、朝7時、会社側はスト参加者が分宿している社宅のまわりの板塀や戸口を釘付けにして、職制やゴロツキらを使いスト参加者を暴力的に引き出そうとしたため激しい闘いが繰り広げられたが、ついにスト女性労働者約300名はその板塀を破り、脱出に成功し、そのまま能勢街道を大阪に向けてデモを行った。十三橋まで押し出したところで、警官隊に阻止され、その場で大阪聯合会の応援組合員は検束されてしまった。残された200余名の女性たちは十三の河原で革命歌を高唱し励ましあい、夜になって、大阪市内の農民組合、共益社、総同盟の有志の家、または幾つかの寺院に分宿した。
8日、因順寺に争議団本部を置き、争議団員は「聞け! か弱き少女の悲壮なる叫びを。聞け! 勇敢なる闘士の血の叫びを!」(写真)の演説会のビラを市内中で配布し、各所に貼りめぐらした。この日、応援に来ている機械労働組合員と伸銅工組合員の二人が検束された。会社は争議団の18名をストの主謀者として解雇してきた。
9日、会社は寄宿舎に残留しているスト男女労働者にしきりに懐柔工作を行い、スト破りをはかったが、これに応じる者はほとんどいなかった。それどころか厳重な監禁や監視体制をくぐり抜け寄宿舎を抜け出し争議団本部まで駆けつけてくる者さえも出てきた。ゴロツキや巡査の監視のため脱出を阻止された女性たちの中には、ひそかに手紙を塀の外の向こうに投函してきた者もいた。その手紙では「いかにしても抜け出さんと思いますが、巡査のためさえぎられ出ることができません。・・・御手を御貸しくださいませ。夜中でも構いませんから、どうかしてお迎えにおいでくださるよう御願いいたします。(一分社)」と会社と警察が女工たちを不当に監禁していると訴えてきている。午前、総同盟幹事西尾末広は大阪府庁の特別高等課へ出向き、「警官の女工不当監禁」を激しく抗議し、午後には小岩井、吉田等の弁護士が会社重役と面会し抗議を行ったが、警察も会社も「全く監禁とはみなさず」とまるで相手にしなかった。
地域からは続々と支援の物資が届けられた。日本労働総同盟大阪聯合会から大量の白米俵、朝鮮労働同盟会からは白米数十俵と鮮魚数百尾、青光婦人会から金50圓など、また市民の匿名者からも届けられた。大阪紡績組合、造船労働組合、横河争議団、青光婦人会、伸銅工組合、電業員組合、向上会、灘樽工組合、煙草労働組合など、また総同盟系の「野武士組」や「反逆団」も全力で応援した。
会社がスト破りを目的として田舎から呼び寄せた父兄たちが娘に帰農を働きかけたが、逆に娘たちは「結果がわかるまで断じて帰りません」ときっぱりと父兄を説得した。
3月9日午後6時45分から午後10時10分、天王寺公会堂において総同盟主催による三国紡績と横河を糾弾する批判演説会(入場料30銭)が開催され約2千名もの大阪市中の労働者が押しかけ、公会堂は満杯大入り状態であった。スト争議団の女性労働者も次々と演壇に立った。
《演説会における三国紡績組合員たちの発言》
小野すえ(14歳位にみえる)
「私たちが会社で食べているものは人間が食べることができないようなものであります。しかるに会社の重役さんはおいしいものばかり食べております。・・社長らが私たちを抑えつけるから私どもは塀をぶち破って外へでたのです。私は社長を亡ぼしてやろうと思います。私は最後まで戦うつもりです。どうか皆さん応援してください。」
中村きくえ
(登壇すると聴衆がやじったため、きくえはあがってしまって一言も発せられずに降壇した。)
田中某
「私たちは賃金は下げられ食費は上げられ非常に困っております。・・会社は不況とかなんとか言いますが、私たちは会社のいうことを真実とは思いません。私たちの要求は正当なものですから、あくまで戦う決心です。」
吉岡てる
「私たちの食べ物はなっておらないのです。食器は湯の中にいれるだけです。これでは衛生上大変悪いと思います。世間では私たちを豚だといいますが、・・・社長の奥さんはいつも芝居見学に行っておりますが、これはもっての他です。世話掛りは私たちより先に風呂に入ります。私たちはその後で入浴します。女工あっての世話掛りなのに間違っています。」
3月12日、天王寺公会堂において報告演説会(入場料20銭)が開催され約1千名の労働者が結集した。
《三国紡績組合員たちの発言》
沼田ヒサ
「世話掛りは虫けらです。私たちは病気になると上役に、休ませてくださいとペコペコ頭を下げていますが、上役は『横着だ』『人がいない』『再々早引きするくせに』と言って許可をしてくれません。私は無学ですが、工場の藪医者位の腕があります。私はどうしても三国を倒したいと考えております。」
日下ハツエ
「私たちは国元へ金を送ることができないのですから、会社に向かって賃金を上げてと要求したのです。社長は女工を虐めますが、自分はいつも下男下女を連れて花見遊山をやっております。社長の令嬢は常に錦紗の着物を着ております。自分ばかり良くするのは天下に通用しません。弱い者を助けるのが人間の道です。私たちは常に大根やニンジンばかり食べております。・・・会社が賃金を上げないならば私たちは国元へ帰るか他の会社に行くかです。皆さん可哀そうと思って同情してください。」
藪キミエ
「賃金は下げられ食費は上げられ、私は黙っている訳にはいきません。」
大辻イト子
「私たちは暖かい日も寒い日も一日も休まないで働いています。しかるに社長は妾をおいて贅沢をしています。私たちは社長に給料を上げよと言いましたが、社長は聞き入れてくれません。不人情な会社を倒したいと思います。」
小野すえ
「重役は不景気だと言って賃金を下げた。しかし、重役の奥様は常に錦紗の着物を着て活動や芝居に行っています。社長もいつも立派な洋服を着ていますから、我々はどうしても不景気とは思えません。私たちは会社が要求を容れるまで戦うつもりです。」
澤田ムネ
「会社はこの忙しい中、私たちの母を国元から呼び寄せたのです。私たちはもともとの賃金にしてもらうまで、一致して働かないつもりです。私たちはあくまで戦う決心です。」
田中よし子
「会社はどうして賃金をあげないのか。他の会社では夜12時まで入浴することができるのに、私たちの会社では8時までしか入浴することができないのです。私たちは病気になっても身を横にする病室すらありません。そして藪医者がどんな薬をくれるかわからないのです。女工を軽蔑することはよくありません。私たちが働いているからこそ社長は芸者買いをすることもでき、奥さんに四五百圓のダイヤを買ってやることもできるのです。私は募集人にだまされました。募集人は三国は日本一だというからこの工場にきたのに、犬猫の待遇を受けているのです。私たちはこの恨みをいつか晴らしてやりたいです。・・・私たちは茶碗一つ持って食堂に行くのです。尊い人間が乞食の真似ができますか。・・・女工の汗や油を盗んでおる者は人間でなく畜生です。私は社長を畜生と思っております。」
竹岡某
「我々は流行的にストライキをやっているのではない。去年の12月24日突然我々の兄弟400名がクビにされたのだ。会社は黄金の為には血も涙もないのだ。」
(ストライキ終結)
脱出したスト参加者は、全員転職か帰農すると決定した。3月13日午前10時争議団は梅田駅前に集合し、みなで会社に行って荷物と賃金を受け取り、共益社に引き上げて茶話会を開き争議打切を宣言した。
感想
労働年鑑第5集は、この三国紡績争議記事の最後を「この争議は全く職工側の惨敗に幕を閉じた」と締めくくっているが、私の受け止め方は少し違う。あくまで賃上げを拒否し続ける頑迷な会社に最後の打撃を与えるため、最後の闘う戦術として会社に屈服して職場に戻ることを断固として拒否したのだ。脱出したスト参加者は、全員転職か帰農すると決定したのだ。物を勝ち取る勝利はできなかったし、確かに辛い敗北には変わりはないだろうが帰農する彼女彼らは果たして意気消沈していただろうか。私にはそうは思えない。