先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

『加藤高寿君』 亡き同志を憶う 渡辺政之輔

2021年09月03日 09時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

写真上・亀戸事件被害者9名の顔写真、「中筋宇八」の写真はない
写真下・東京朝日新聞1923年10月12日

『加藤高寿君』 亡き同志を憶う 渡辺政之輔 

参照「亀戸事件の記録」亀戸事件建碑実行委員会編
  「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三著
  「日本労働年鑑第3集1922年版」大原社研編

   1923年9月関東大震災時、朝鮮人虐殺の嵐が吹き荒れる最中の9月3日夜半から4日未明にかけて、亀戸署と軍隊は南葛労働運動の青年活動家(1人が30代、あとは全員が10代、20代)10名を狙い、無残にも殺害します。闘う労働運動青年活動家を殺す軍隊による白色テロ、亀戸事件です。
 
 南葛労働運動の指導者「わたまさ」こと渡辺政之輔の追悼記『亡き同志を憶う』の『加藤高寿君』『山岸実司君』『近藤広蔵君』の中から『加藤高寿君』を紹介します(渡辺政之輔は獄にいて被害からは逃れましたが、彼が外にいれば一番に狙われていたことでしょう)。

 加藤高寿は、我が葛飾四ツ木の工場労働者であり、渡辺政之輔らの全国(新人)セルロイド職工組合結成に参加し熱心に活動します。彼は四ツ木でたちまち400名の労働者を組織し、同組合四ツ木支部を結成しました。この追悼記『加藤高寿君』は、殺害された加藤高寿らがいかに素晴らしい活動家であり、支配階級が心底怖れた彼ら10名を先頭とする南葛労働運動の先輩青年労働者の生き生きとした闘いの様子が実にリアルに伝わってきます。

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亡き同志を憶う 渡辺政之輔
(1924年4月雑誌『潮流』)

加藤高寿君

 加藤高寿君の三十一年(実際は27才)の短い生涯は、そのすべてが反逆の記録である。
(中略)
 十四才の時家を離れた君は単身上京し、商人になろうとして、浅草の有名な化粧品店百助の小僧となった。二、三ヶ月経過する中に、純真な加藤君の眼にはいかに商人という奴が狡猾無恥であり、商売という事が丁裁(ていさい)のいい泥棒であるということが段々と解って来た。反逆の子加藤君は遂に商人になれなかったのだ。約一ヵ年ばかりでそこを去った。


 それから後の加藤君は新聞配達となり、自由労働者となり、社会のどん底の生活をなし、無産階級の体験を積みながら立教中学に入り、正則英語学校の夜学に通った。
 (中略)
 ・・・君には嘘と誤魔化しで固め上げた、ブルジョワ教育の過程を何等の不満なしに順調に平和の中に学ぶことができなかったのだ。教師に反抗し形式一点張りの校則で律し得られない君は、立教四年の時に遂に放校されてしまった。


 自由労働者の生活は続いた。木賃宿の生活は続いた。悲惨、貧窮、頽廃せるドンゾコの社会に入った君は、遂に君の一生を支配する大きなものを見出したのだ。
 君が純血の燃える眼をもって君の周囲を見渡した時に、君の清い眼に映じた事実は何であったか。食うに糧なく、寝るに家なき何千という大多数の人間が、飢と寒さに凍えオノノキ、野犬の如く放浪(さまよい)歩いているのであった。 
  支配階級の暴虐な道徳はその事実を当然の事とし、神様のお裁きとし運命だとして、悲惨な人達に諦めさせているのだ。従って、多数の人達は耐え得られない不満の鬱憤(うっぷん)を安酒によって慰め、低級淫靡(いんび)な娯楽に享楽し、飢狼の如く生活していたのだ。
 この悲惨な事実を見、自己の生活がそうであった時、君は今まで持っていた人生観とか社会観とかいうものをキレイに全部捨ててしまった。刻苦勉励して自分一人が偽りの学問を学び、誤魔化しと罪悪とを積んで何千何万という財産を作り、所謂社会の成功者だなんて新聞に書きたてられたって、それが何の名誉だ、それで本当に自己の心を満足せしめる事ができるだろうか。
 彼は遂にその時初めて社会に向かって反逆の血を躍らしたのだ。社会組織の根本の改革こそ人生の意義ある事業だ、青年のなすべき任務だと深く強く考える様になったのだ。


 耐えられない満腔の不満と反逆に燃える胸とを抱えて君は同志と時機の来るのを待って、府下四ツ木千穂(ほたね)セルロイド工場に働いていた。僕らが大正八年(1919年)五月全国セルロイド職工組合を組織しその発会式を挙げた時、君は待っていたとばかり、僕らの組合に加わって呉れた。
 当時君は好きな酒や煙草を断然やめ、給料のほとんど全部を投じて、新人会の機関紙であった「デモクラシー」を買い求めて仲間の労働者に配布して宣伝した。八月頃には労空しからず四百人の全職工を立派に組織し得た。そして四ツ木支部の発会式には佐野学、麻生久、赤松克磨の諸氏が来て大盛会の野外演説会をやったものだ。
 九月頃にセルロイド産業全体に亘(わた)ってゼネラル・ストライキが勃発した。そしてそれに参加した四ツ木支部は加藤君初め有力な闘士の解雇や、産業の不振で残念ながら一敗地にまみれた。そういう具合でセルロイド工組合も自然解体する様なことになってしまったのだ。
 その後の君は又新聞配達となった。そしてヤハリそれでも組合組織に奔走した。しかしながらこの組合は組織準備中に政治家の下廻り共が入り込んで来たり、新聞社の狡猾な戦術に悩まされ、加藤君の折角の努力も水泡となり、神田の青年会館で発会式を挙げると同時に倒れてしまった。


 その時旧セルロイド工組合の同志は、解雇と工場の全滅で四散してしまったが、その中で僕等は出井紀作君を中心にして五六十人のグループを作って、再挙を計っていた。それを知った加藤君は又喜んで僕等のグループに加わってきた。
 大正九年(1920年)春から出井君の家に起居していた君は、その時分盛んであった。労働問題演説会とか各組合の協議会とかに必ず出席し、ストライキ、示威運動には必ず参加して暴れ廻ったものだ。神田の松本亭で開かれた信友会の演説(会)に出席した時臨官の中止にかゝわらず、演説を続行して罰金五十円を喰った事もあった。富士紡ストライキの示威運動に参加した時は同志の検束を取り戻そうとして、半殺しに殴られ、蹴られ、血まぶれになって、道路に倒れていたこともあった。
 大正十年(1921年)の一月足立工場のストライキにも参加し、泉忠、川崎甚一、望月源次君等と共に戦術を画策し全力を傾けて戦った結果、遂にあの日本の組合史上に特筆すべき、工場破壊の最初の一頁を作った。その討ち入りの時君は草箒(ほうき)に石油を注ぎそれに火をつけて炬火(たいまつ)を作った。暗夜の工場の中の炬火(たいまつ)はどの位同志の活動を便ならしめたことだろう。沈勇と猛進は君の特有だった。
 同年二月君は、逮捕され騒擾(そうじょう)首魁として起訴された。裁判の結果は一年六箇月の懲役で、保釈を許されず、未決からそのまゝ中野監獄に入った。


 大正十年(1921年)の末から十一年(1922年)にかけて、ロシアの社会階級戦の実際は、段々と日本に知られてきた。そうして日本の労働運動も今までの様に幼稚な簡単なものゝ域を脱して来た。此の重大な転換期に君は暗い独房の中で厳寒と飢えと過労とで過さなければならない犠牲者であったのだ。彼が一年半の牢獄生活から解放されて社会に出た時には、組合運動の調子は君が獄に入る時とは全然異なっていた。
 南葛方面は新しい運動が芽を吹き初めていた。南葛労働会が創立された時君はやはりその創立委員だった。そして君は沈勇、剛毅の反逆児として常に南葛の青年の師表であった。

(『潮流』第二号大正十三年五月、「社会運動犠牲者列伝(二)」)

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(感想)
 我が葛飾四ツ木。この地のセルロイド工場労働者であった加藤高寿は、1919年の全国セルロイド職工組合結成発会式に参加し、熱心な運動をはじめます。
 彼は、四ツ木地域で一年足らずでなんと400名ものセルロイド労働者を組織化し、全国セルロイド職工組合四ツ木支部を結成し支部長となります。加藤高寿らの四ツ木支部は、九月のセルロイド産業全体のゼネラル・ストライキの先頭にたちます。この闘いは敗北しますが、再び立ち上がった加藤高寿は新聞配達をしながら、組織化と南葛地域の大島製鋼所など実に多くのストライキの応援に奮闘します。有名な押上の富士瓦斯紡績女工ら2千名ストライキの応援もします。ここで彼は権力側からひどい暴行を受け大けがをします。また吾嬬町の足立機械製作所は残酷な搾取、低賃金、劣悪な労働環境で東京有数の「鬼工場」と知られていました。1921年ここの労働者はストに決起しました。死ぬほど怒った労働者のストはついに工場の全機械打ちこわし大暴動へと向かいます。加藤高寿もこの全機械打ちこわし大暴動の先頭にたち、検挙・起訴され、実刑で獄に入ります。出獄した加藤は南葛労働会創立大会で委員に選ばれます。

 支配階級は、このような英雄的・犠牲的に闘いつづける加藤高寿ら南葛労働運動の活動家を心底憎み・怖れ、ついに大震災を利用して警察と軍隊を使い、彼ら10名を狙い撃ちし無残に殺害したのです。しかもその後、警察や政府は10名の殺害を認めましたが、犯人は誰一人も裁かれていません。支配階級のこの暴虐とその罪は永劫に消えません。労働運動やストライキをつぶすためにはここまでやる支配階級の本性を私たちも決して忘れてはいけません。加藤高寿が殺害された時は若干27歳でした。どんなにか悔しかったことでしょう。大久保製壜所の先輩の中に「実は自分は亀戸事件の被害者の子孫だ」とこっそりと打ち明けてきたYOさんがいました。我が南葛の先輩青年労働者10名の犠牲者にあらためて心からの黙とうを捧げます。

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全国の労働者から敬愛の念で「南葛魂」と呼ばれた南葛労働運動とは。
 「(南葛労働会は)精かんにして統一ある行動をもって、あらゆる労働者の闘争の最前線に立つ事を期した。さらば南葛労働なる名は、全国の闘争的な労働者、農民の渇望の的となり、宛然その中心をなすかの如くであった。支配階級がこの一握りの労働者団体を最大の仇敵視していた理由はここにある」

南葛たましい ! 渡政(わたまさ)の永峯セルロイド職工組合の結成(読書メモ)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/b81419c0aae3cdce204aa00a05507a1a



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