治安警察法(1900年)
誘って逮捕 ! 団結もストライキ(同盟罷業)を勧めても犯罪 !
1914~1926年(13年間)の労働運動への弾圧検挙総数
労働運動に伴う総検挙数 620件 6000人
治安警察法第17条違反の検挙数 154件 1162人
1900年に制定された治安警察法は、労働者・農民の団結権の行使、労働・農民運動への誘いを直接犯罪として処罰する法律として制定されました。
自由民権運動弾圧の「集会条例」に続くもの。
義和団事件で中国へ侵略出兵。
内容
①女性、未成年者の政治結社加入の禁止
②結社と集会の届出義務
③警官の集会解散命令権
④17条「(労組加入、ストライキの遂行を目的として)他人を誘惑もしくは扇動することを禁ずる」
⑤罰「1月以上6月以下の重禁固等」
⑥1911年警視庁、全国に「特高」を配置し弾圧体制強化
治安警察法第17条
「第17条
①左の各号の目的を似て他人に対して暴行、脅迫し若は公然誹毀し又は第2号の目的を以て他人を誘惑扇動することを得ず
1 労務の条件又は報酬に関し協同の行動を為すへき団結に加入せしめ又は其の加入を妨ぐること
2 同盟解雇若は同盟罷業を遂行するか為使用者をして労務者を解雇せしめ若は労務に従事するの申込を拒絶せしめ又は労務者をして労務を停廃せしめ若は労務者をして解雇するの申込を拒絶せしむること
3 労務の条件又は報酬に関して相手方の承諾を強ゆること
②耕作の目的に出つる土地賃貸借の条件に関し承諾を強ゆか為相手方に対し 暴行、脅迫し若しくは公然誹毀することを得ず
条文のうえでは、使用者側の行為(解雇など)にも適用されるようになっていますが、実際には、労働者・農民側のみを取り締まりました。
しかし、同時に僕は、当時の労働者・農民はこんなひどい法律と弾圧にも屈せず立ち上がり続けたという面も強調したいです。
第一次世界大戦後、日本経済の急速な発展により労働者が増大する中での1917年のロシア革命は労働者の自覚を高め多くの労働者が決起し大型の争議があちこちで勃発しています。1918年の有名な米騒動は2ヶ月間も全国で1千万人以上の主婦・民衆の打ちこわしや焼き討ちなどの大暴動となり(今ならさしずめテロと呼ばれるでしょう)、ついに内閣を辞職に追いやります。小作争議も飛躍的に増大しました。
1914年には50件参加人員7904人であったストライキは、1918年に417件66457人、1919年には497件63137人と増加し労働者の労働組合への結集も急速に進んでいます。
1920(大正9)年には、日本最大の軍需工場八幡製鉄の2万5千人の労働者が、3割の賃上げ、住宅手当の支給、時間短縮などを要求し熔鉱炉の火を止める大ストライキ。同じ年の5月2日の日曜日には、日本で最初のメーデーが「治安警察法の撤廃」「最低賃金制の確立」などを要求して上野公園で開かれました。
このような先輩たちの歴史があったからこそ、敗戦後たった1年たらずで、12,000労働組合、368万人が一斉に立ち上がり労働組合を組織し、こぞって加入したのだと思います。労組法は決して政府や経営者から恵んでもらったものでなく、労働者・民衆が求め続けてきた魂の叫びの実現だったのではないでしょうか。
1945年12月22日労働組合法制定の日
千秋の思いで待ち望んでいたであろう人々。この日をどういう気持ちで迎えたでしょうか。この時の先輩たちの気持ちや表情を想像したいです。
労組法が、憲法公布(1947年5月3日)より一年以上も早く制定されたことの意味はすごく大きいです。しかし、どんな法律も権利も協定書もそして自由もこちらの運動が弱まる時、彼らはあっという間に再び奪い取ろうとしてきます。彼らは私たちが仲間に向かって言葉で「誘うこと」すらも禁止しようと私たちの心をも支配しようとしてくるのです。
おのおのがた! ユメユメ油断めさるな!