■他者否定には二つある
★価値ある否定
相手に気づかせるための本音の指摘。本音の関わり。そのような導き。仏のはからい。人を通して仏が語る。
★価値の無い否定
自分で自分を認められず、自分に自信の無い人が、自我(業)の承認欲求を他者によって満たすために、「わたしはここにいるぞ!」という存在主張のための否定。
エゴ。自我。悪業。
そして他者が反応することで承認欲求は満たされる。
【逆に「へ~」とか「ふ~ん」など聞き流されたり、「なるほど、確かに」などと、肯定されたら反応が無いと受け取り、承認欲求は満たされない】
■否定的な人は生まれ変わり死に変わり、今までそうして満たしてきた実績(業)があるから、他者を否定することが自覚のない癖となっている。知っていてやる悪業ではなく、知らず知らずにやる悪業なんでしょうけれど。
パフロフの犬的な。
条件反射的な。
脊髄反射的な。
こうしてますます悪業は雪だるま式に大きくなる。
■人を否定する人は、過去(前世を含む)の体験に否定され、存在認知されなくて、傷ついた記憶があって、だから自己防衛として自分が否定されて傷つく前に他人を先に否定するようになった。
そして今現在も、いつもいつも戦っている。敵は他人。否定を武器にして他人に自分の存在価値を認めさせ、勝ち取るために阿修羅道を行く。
■私の場合は自己否定に入りがちだ。他者否定する人の「人から嫌われてもいい。反応してくれれば」という感覚は強いなあ~と、少しうらやましく思ったりしたが
だけど自己否定も他者否定も同じ穴の狢なのかもしれない
なぜなら
どちらも
自分が嫌だからです
自分で自分を認められず、自分で自分を満たせないからです
それは根本的に自分がわかっていないということ。だから実は他者否定をする人も、自己否定する人も、不安で自信がないんです。
■自分を認められないという自己否定や他者否定は、他によって自分を見いだそうとしたり、自他との比較をしたりする。これが自我の業。これがのさばり、本当の自分がわからなくなっている。
しかし自我の業は人ならば誰にでもあり無くならない。プラスだらけには決してならない。プラスもマイナスもある。ここを自覚し認めることだ。あきらめは明らかにするにつながる。
矛盾するようだが、本当の自分を覆い隠すのが自我の業なんだけど、それは無くならず自分には有るものだと「仕方がない。これでいいのだ」と肯定し、あきらめたら、脱力し、軽くなり、本当の自分が浮上してくるように軽くなり、そしてルルは他力におまかせする。「あとは仏のはからいにおまかせ気分」が導かれる
否定を肯定に変えるだけで
認めないから認める
重いから軽い
緊張から緩む
に次々と変わっていく
なぜ自分を否定していたのかの気づきがある。
自分の持つマイナスへの嫌悪感
なぜマイナスに嫌悪していたかというと、他者のマイナスな人との比較によって私はプラスだと優越感を感じたいから、、自分のマイナスは否定したかったのだ「なんて嫌な人間だ。だが、仕方がない認める」
自己嫌悪も優越感を得たい欲求も、ルルにはあるもんだ。しゃーない。と認めたら
またまた軽くなる
素直に肯定すべきを否定するから
自力で踏ん張らなければならなかった。
素直に肯定すべきを、素直に肯定したならば、自力で踏ん張らなくてもよくなり、他力におまかせし、他力の風にのり、他力のはからいで言動する。
ここまで書いてスッキリしました!
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