5月26日午前1時
天皇皇后は側近たちと地下の金庫室にいた。昨晩10時23分から始まった空襲は山の手一帯が標的になっている。皇居に近い地域だ
周囲の状況を把握するために職員は、監視台に上がった。空は真紅に染まっていた。帝都の中心部でおこった火災は猛烈な風を巻き起こし、恐ろしい速度で広がっていく。炎をあげて燃え盛る建材は高く舞い上がり舞い降りるたびに、燃え残った家々に次々と点火してゆく。炎は巨大な龍のように、縦横無尽に帝都の空を暴れまわる
ところがまことに不思議なことに、皇居にはまだ一発の焼夷弾も落下していない。火の海に浮かぶ小島のように、皇居は不気味な静謐を保っていた
午前1時近くになるとB29の大編隊は帝都上空から去ってゆく気配を見せた。皇居は奇跡的に空襲を免れた。張りつめた空気が解けかけた、その時、正殿が燃えていると連絡が入った。天皇は「あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とか消し止めたい」天皇の声が金庫室に響き渡った
宮内省ではかねてから宮殿の防火対策には力をいれてきた。この日も宮殿が燃えあがる前から、担当者は宮殿の持ち場で待機し、周囲を特別消防車40台が固めていた。ところがB29の大編隊が上空を去り、担当者たちは持ち場を離れはじめた。その時、猛烈な南風にのって火の粉が飛んできて、正殿の屋根の上に落ちた。。白い煙が立ち上り。。人々が持ち場を戻った時にはすでに炎が高く上がっていた
檜は「火の木」ともいわれ燃えやすい木材である。総檜造りの宮殿はたった一ヶ所点火しただけでメラメラと燃えあがったのだ
人々はなすすべもなく呆然としていた。男も女も泣いている。やがて銅葺きの屋根にまで炎が達すると、ほの暗い紅の炎は消え去り、その代り金色に縁どられた翡翠色の大炎が宮殿全体を覆っている
眩しい光に包まれた宮殿は、気高く神々しい。強風に煽られるたびに、翡翠色の大炎は金砂子を振り立てながら揺れて、左右に大きく膨らんでゆく
もはや泣いている者はいなかった。座り込んでいる者も立ち上がった。人々は自然と手を合わせ拝むように、光輝く翡翠宮を仰ぎ見た
明治日本が見た果てなき夢が、燃えているのだ