るるの日記

なんでも書きます

昭和天皇・明治日本が見た果てなき夢が翡翠色に燃えた

2021-03-31 16:09:38 | 日記
5月26日午前1時
天皇皇后は側近たちと地下の金庫室にいた。昨晩10時23分から始まった空襲は山の手一帯が標的になっている。皇居に近い地域だ

周囲の状況を把握するために職員は、監視台に上がった。空は真紅に染まっていた。帝都の中心部でおこった火災は猛烈な風を巻き起こし、恐ろしい速度で広がっていく。炎をあげて燃え盛る建材は高く舞い上がり舞い降りるたびに、燃え残った家々に次々と点火してゆく。炎は巨大な龍のように、縦横無尽に帝都の空を暴れまわる

ところがまことに不思議なことに、皇居にはまだ一発の焼夷弾も落下していない。火の海に浮かぶ小島のように、皇居は不気味な静謐を保っていた

午前1時近くになるとB29の大編隊は帝都上空から去ってゆく気配を見せた。皇居は奇跡的に空襲を免れた。張りつめた空気が解けかけた、その時、正殿が燃えていると連絡が入った。天皇は「あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とか消し止めたい」天皇の声が金庫室に響き渡った

宮内省ではかねてから宮殿の防火対策には力をいれてきた。この日も宮殿が燃えあがる前から、担当者は宮殿の持ち場で待機し、周囲を特別消防車40台が固めていた。ところがB29の大編隊が上空を去り、担当者たちは持ち場を離れはじめた。その時、猛烈な南風にのって火の粉が飛んできて、正殿の屋根の上に落ちた。。白い煙が立ち上り。。人々が持ち場を戻った時にはすでに炎が高く上がっていた

檜は「火の木」ともいわれ燃えやすい木材である。総檜造りの宮殿はたった一ヶ所点火しただけでメラメラと燃えあがったのだ

人々はなすすべもなく呆然としていた。男も女も泣いている。やがて銅葺きの屋根にまで炎が達すると、ほの暗い紅の炎は消え去り、その代り金色に縁どられた翡翠色の大炎が宮殿全体を覆っている

眩しい光に包まれた宮殿は、気高く神々しい。強風に煽られるたびに、翡翠色の大炎は金砂子を振り立てながら揺れて、左右に大きく膨らんでゆく

もはや泣いている者はいなかった。座り込んでいる者も立ち上がった。人々は自然と手を合わせ拝むように、光輝く翡翠宮を仰ぎ見た
明治日本が見た果てなき夢が、燃えているのだ

昭和天皇・4月7午後0時半すぎ大日本帝国海軍はここに散る

2021-03-31 15:24:39 | 日記
戦艦大和は連合艦隊の旗艦で
全長263メートル
最大幅38.9メートル
基準排水量6万5千トン
現在に至るまで世界最大の戦艦である

4月6日午後3時20分、戦艦大和は沖縄を目指し出撃。命令内容は「沖縄の海辺に乗り上げて砲台となり、米軍の沖縄上陸を阻止せよ」という無謀なものだった。それ以前に米軍航空機の攻撃が予想され、沖縄には辿り着けないのは誰の目にも明らかだった
出港後、自分たちが捨て石になることを覚悟した乗組員たちは、波に揺られながら君が代を奉唱し、万歳三唱した

4月7日午後0時30分過ぎ、九州・坊ノ岬沖にて米軍の猛攻を受け、2時間後戦艦大和は転覆して海の底へ沈む。その後、今日まで引き上げられることなく、乗組員3056人と共に眠っている

日露戦争で世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破し、世界の頂点に君臨した大日本帝国海軍はここに壊滅した。日本はこれから海軍出身の総理大臣のもとで、事実上陸軍のみで米軍と戦わなければならない

親任式を終えた鈴木は首相官邸に入り日本の進むべき道筋に思いを巡らす。「桜の散りぎわのごとく、いさぎよく」というのが日本の武人の心構えであり、国民の心境である。だが、、悠久の大義に生きるとは何を意味するのであろうか。国家そのものが滅亡して、果たして日本人の義は残るであろうか

長年天皇に仕えていた鈴木は、天皇の真意が戦争の終結にあると考えていた。勿論陛下が口にされたものではない。陛下に対する鈴木の以心伝心として確信した所である

戦艦大和を見送った岸辺に
首相官邸に
焦土と化したそこかしこに
今年も桜が咲いた

はらはらと散る桜が、この年ほど美しく切なく見えた年があっただろうか。皇居でも桜は満開を迎え、生暖かい風が吹くたびに散っては舞い上がる、薄紅の花吹雪

昭和天皇・鈴木内閣誕生と大和撃沈

2021-03-31 14:47:54 | 日記
3月10日の東京大空襲を皮切りに
名古屋、大阪、神戸への地方都市への大規模な空襲が続く
3月17日硫黄島が没落
4月1日米軍が沖縄本島へ上陸開始

一向に戦局打開を示せない小磯国昭首相への批判が高まり
4月5日小磯内閣は総辞職。直ちに後継首相選出会議が開かれた

鈴木貫太郎を推薦する声が多数を占めるが、肝心の鈴木自身は、軍人が政治に関わるのは国を滅ぼす基になるとの持論を展開し固辞。さらに76歳と高齢で耳が遠いことも不安材料としてあげた

午後9時58分天皇は鈴木と対面。鈴木は昭和4年1月から11年11月まで侍従長をつとめ、また鈴木の妻は幼少期の昭和天皇兄弟の養育係をつとめた元女官であった。このような経緯から天皇は鈴木夫妻をこのうえなく信頼していた

天皇は和らいだ表情のまま鈴木に語りかける「鈴木の心境はよく分かる。しかし、この重大な時にあたってもう他に人がいない。頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」

4月7日鈴木内閣が発足した。親任式のために宮中に参内した鈴木を待っていたのは、戦艦大和が撃沈されたという衝撃のニュースだった



昭和天皇・空襲警報発令・剣璽とともに避難する

2021-03-31 14:20:54 | 日記
空襲警報が発令されると、天皇皇后、常侍官候所に集合した人々、当直女官は階段を下りて「地下の金庫室」と呼ばれている防空壕へと向かう

金庫室の内部は天皇皇后のお部屋
剣璽(けんじ)を安置するお部屋
側近たちの控えている部屋
に分かれていた

剣璽とは草薙剣の形代と、曲玉のことで、天皇が即位する際に継承され、在位中は身近に置かれた。また1泊以上の行幸にも動座し、御座所の隣室に安置された

3月10日午前0時15分、今宵もまた空襲警報が発令された。天皇皇后は剣璽の納められた白木の箱を捧げ持つ侍従や側近たちを従えて金庫室へ向かった



昭和天皇の皇后の御苦労

2021-03-31 14:00:13 | 日記
昭和天皇の皇后の人生が順風満帆であったというわけではない

大正17年14歳で皇太子妃に内定するが、結婚は暗礁に乗り上げる。久邇宮家の若宮二人(皇后の兄弟二人)に色弱を発見。母方の島津家からの遺伝性のものだと医学雑誌に論文が発表された

久邇宮家側から内定を辞退すべきか否かをめぐり政界をゆるがす大問題へと発展する。内定は取り消しとならずに安心したのもつかの間、今度は関東大震災が起こり、ご成婚は延期となる

皇后になってからも苦難は続く。なかなか皇子に恵まれず周囲からのプレッシャーにさらされ、第二皇女久宮祐子(さちこ)内親王が生後わずか半年で病死するという悲劇にも見舞われた。皇后の部屋には常に久宮の写真が飾られ、旅行の際には必ず「御大事品」として持参した

しかしどのような困難に直面しても、悲しみを心の奥底にし舞い込み、皇后は燦々と降り注ぐ陽射しのように宮廷を明るく照らす