るるの日記

なんでも書きます

十羅刹女

2020-09-29 15:44:23 | 日記
十羅刹女は法華経以前には悪鬼神女であったが、法華以後においては善鬼神女となり法華経を護持する者を守護する。十羅刹女は一切の鬼神の母。

■法華経陀羅尼品二十六■
その時に羅刹女等有り
一を藍婆(らんば)と名づけ
二をび藍婆と名づけ
三を曲歯(こくし)と名づけ
四を華歯(けし)と名づけ
五を黒歯(こくし)と名づけ
六を多髪(たはつ)と名づけ
七を無厭足(むえんぞく)と名づけ
八を持瓔珞(じようらく)と名づけ
九を皇諦(こうだい)と名づけ
十を奪一切衆生精気(だついっさい衆生しょうけ)と名づく

この十羅刹女、鬼子母、並びにその子、及び眷属とともに仏所に詣でて仏に言った

「世尊、我等は法華経を読誦し受持する者を擁護して、その衰患を除くことを欲します」
この文の後に十九句の呪を説く
さらに、「もし我が呪に順ぜず、法華経の行者を悩乱する者は、頭破れて七分にさけ、阿梨樹の枝のようにします」と自ら法華経の行者を擁護することを誓う

仏これを許可し特に皇諦女の名をあげ、法師の擁護を命じた

天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗の教義

2020-09-29 15:11:25 | 日記
【天台宗の教義】
法華経をメインの経とし、諸大乗経に説かれている円文をもって傍の経とする

一念三千、一心三観の理によって即身成仏する。比叡山根本中道の本尊は薬師如来像

【真言宗の教義】
一切経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経は法身大日如来の説法である。大日如来に比べれば釈尊は迷いの凡夫のようなものである

法華経は釈尊一代の仏教中でも第三の劣。戯論

一念三千は大日経の法門であり、法華経にも説かれているから理は同じであるが、大日経は印と真言が詳しく説かれており事においてすぐれている

本尊は大日如来・薬師如来をおき脇士に金剛薩埵・不動明王・虚空蔵菩薩等配している

【禅宗の教義】
仏教の真髄は決して煩雑なる教理の追求ではなくて、座禅修道することによって直接に自証体得することができると説く。そのために、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏が教えの根本として揚げられている

【浄土宗の教義】
無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を浄土の三部経として、この世は穢土であり、死んだ後に西方の極楽浄土へ往生するのを理想の根本としている
そのため釈尊一代の仏教を聖道門・浄土門の2つに分け、浄土宗以外の一切の経教を修行するのは難行道であり、浄土門は易行道であると立てる
本尊は阿弥陀の一仏



一事は万事に通じる

2020-09-28 16:34:46 | 日記
禅を学んで自我意識が強くなり、奔放な態度がかえって世人の顰蹙をかう場合もある。

中国に留学した道元は寺での生活を見てびっくりした。朝は早かった。4時にはもう起きて朝のお勤めをする。しかし驚いたことに僧侶が食事をしても楊枝を使うことを知らない。全国の貴族も知らない。これは仏法が地に堕ちてしまったということなのか?または生活の相違だろうか。このような有り様だったので、天下の僧侶といえど口の中の臭気がはなはだしくて嫌になってしまう

と述べている

これではどんなに「仏法とは清浄心なり」と云ってみたところで、体が臭くて仕方ないようではどうしようもない。道元はまず「体を清らかにしなくて、何の清浄心ぞや」ということに気づいた

道元は体をととのえて、それから禅の心に入ることをすすめた。楊枝を用い、洗面し、手を洗い、口を灌いだりすることをまず集団生活の第一の規制にした

一事が万事に通ずる。朝の出だしは貴重である。こうゆうことを考えて日時の日課を行い、そして座禅にて正しい思念にうちこむ。このような生活態度が座禅で無心の心に昇華され、はじめて具体的に自他のためとなり新しい世界に至るのである



真理は1つ 永遠も一刻も1つ

2020-09-28 15:59:48 | 日記
歴史は本当に正しく公正に書き表すことは無理である。なぜなら歴史は限定された概念の文字で表現された主観だからだ
合理的な資料そのものだけでも、それは現象の影だけのようなもので本体を表していない

極言すれば、歴史の体験も禅の体験も公正を知り、本体を知るということで一致する。どちらも1つの真実を求めて追求するが、この真実の概念上の捉え方の相違によって誤解を生み争いをおこす

歴史学表現の主観の持ち味というのは、培われた叙述者の体験、知恵をさして言う
歴史は整然として割り切れるものではない。表れた事柄にたいしては分析することができても、最後にその統合的な資料に表れた理由を知るということになると、それは扱った人の主観的な心に委ねられてしまう。歴史は古き時代の心を知る学問ということにもなろう

禅で悟ったり、知ったりする感覚もまたその人によって違っている。物の中にその心を見いだし、心の中でそのものの形を描き出す、ここに物心一如の融合世界がある

禅の心と歴史学の心とが不思議に相通ずるということを考えるとき、真理はやはり1つであることに思いを致さざるをえない

歴史の心を知れば(体験感応か)歴史は生きている。禅の心を知れば禅は生きてくる。生きていることは現在である。過去と現在が一致するところに未来への生きがいを感ずるのである。その生きがいは一刻も無駄に思わず、一刻も無駄に過ごさずに居するということは、永遠も一刻も同じ次元に立って観察しているというときで、そうゆう永遠一刻に立ち観察してこそ本当の禅、そして歴史を知ることができるのである

歴史が変化の流れであるなら、禅もまたその変化の流れという真理から逃れることは難しい。変わらざるものを維持することは難しい

そのため機会のタイミングを見る目ということも必要なのである。その機会がいつ来るか、それは誰にもわからないけれども、普段の変わらない真理に対する態度を守ることによってそれは養われる

歴史は歴史の原因から結果に至る必然性を問題とするに対して、禅は無心の偶然性を問題としているところに相違があるだけである